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僕がめちゃくちゃお世話になった大好きな先輩、ヤスさんこと遠藤康さん(ベガルタ仙台)が引退を発表されました。いつもめちゃめちゃ声がデカくて、豪快に笑い、場を明るくしてくれたヤスさん。慎三くん(興梠/浦和レッズ)に続いて偉大な先輩がスパイクを脱ぐのは、正直、めちゃくちゃ寂しいです。特にヤスさんは、僕が鹿島アントラーズでプロキャリアをスタートした11年から8シーズンもの長い期間、チームメイトとして戦いましたし、公私にわたり、家族ぐるみで仲良くさせていただいた先輩だったことからも、より寂しさを感じています。
オンとオフの両方で思い出があり過ぎて、何から話せばいいのか悩むところですが、オンの場面で言うと、いろんなシーンで「鹿島とは」を教えていただいた一人でした。プレーのことは今更僕が紹介するまでもないですが、勝つことに対するメンタリティ、鹿島の一員として戦う責任をピッチ上で全力で表現できるのも、ヤスさんらしさとして覚えています。
プロになったばかりの頃は先輩後輩関係なく、ダメなものはダメだとはっきり口にできるヤスさんに驚く反面、カッコ良さも感じていました。当時の鹿島には満男さん(小笠原)、ソガさん(曽ケ端準)ら錚々たる顔ぶれが在籍していましたが、ピッチに立てば9歳年上の満男さんにさえ「ミツ、そんなんじゃダメだ!」みたいに檄を飛ばしていたくらいです。でも、ピッチを離れるとその満男さんをはじめ、たくさんの先輩方に可愛がられていて…満男さんのことを『みっつぁん』と呼んでいたのもヤスさんだけでした。そんなふうに先輩の懐に飛び込むのもすごく上手く、後輩の面倒見もいいヤスさんに憧れ、プロ1年目のシーズン後にはヤスさんの25番のユニフォームにサインを入れてもらって寮の部屋に飾っていたほどでした。
ヤスさんと同じポジションにはいつの時代も、本山雅志さん、野沢拓也さんをはじめ、カイオや中村充孝くん(いわてグルージャ盛岡)、安部裕葵(浦和レッズ)といった強力な個性を持ったライバルがいて、ヤスさんは途中からピッチに立つことも多かったですが、どんな時も常に自分の役割をしっかり理解し、ピッチに立てば必ず何か決定的な仕事をする姿も、すごく印象に残っています。ヤスさんほどの才能があれば、きっと引く手数多で、他のチームでも余裕でレギュラーだったはずですが、鹿島でプレーすることに意義を見出し、鹿島もまたそんなヤスさんを必要とし続けたことも、ヤスさんという選手の価値を示しているように思います。
僕自身のことで印象に残っているのは、大岩剛さんがシーズンの途中に監督に就任された17年。その初陣となったサンフレッチェ広島戦(J1リーグ第14節)です。その試合は、キャプテンである満男さんが控えメンバーに回ったことを受け、僕は剛さんからキャプテンマークを託されました。後から剛さんに聞いた話によれば、控えメンバーだった満男さん、ソガさんだけではなく、ヤスさんにもあらかじめ確認して、僕に託してくれたそうです。
「源をキャプテンにしたのは俺の意思でもあったけど、満男、ソガ、ヤスにも聞いて託した。もし三人のうちの一人でも、源じゃまだ早い、そんなタイプじゃないと言われたらお前に託すつもりはなかった。でも三人とも源なら大丈夫だと言ってくれたよ」
そのことからもヤスさんが当時の鹿島においてどんな存在だったかは言わずもがなです。僕もその言葉を聞いてすごく嬉しかったし、改めて鹿島のキャプテンマークを預かる重さを感じたのを覚えています。
オフもよく食事に連れて行ってもらって、いろんなことを教えてもらいました。ヤスさんが初めて寮を出て、一人暮らしをすることになった時も八木直生くんと二人、引っ越しの手伝いに駆り出されましたし、南房総に聖真(土居/モンテディオ山形)ら数人で釣りに連れて行ってもらったこともありました。現地に着いたら竿が一本足りないことに気がつき、最初は釣り初心者だった僕が見学しながら釣りを学ぶことにしたのですが、だんだん手持ち無沙汰になり…。その辺で拾ってきた木の枝に糸をくくりつけ、『じゃがりこ』を先端につけて釣りを始めたら、見事に魚が食いついてヤスさんに「お前、それはすげえよ!!」とめちゃ褒められたのもいい思い出です。
また満男さんから引退を告げられた日のこともめちゃめちゃ印象に残っています。18年のJ1リーグ終了直後に行われたチームの納会で、です。その年はAFCチャンピオンズリーグで優勝し、カタールでのクラブW杯に出場することが決まっていたのですが、その前に決起会を兼ねたチーム納会が行われました。そこで「クラブW杯も頑張ろうぜ!」と盛り上がった後、僕とヤスさんは、満男さんに別室に連れ出されました。
「俺、今年で引退するよ」
その言葉を聞いた瞬間、僕とヤスさんは大号泣。満男さんは「何で泣くんだよ。ありがとうな」と言って笑っていましたが、僕たちは涙が止まりませんでした。ヤスさんが泣く姿を見たのもその時が初めてでした。そしたら、ヤスさんがしばらくして号泣しながら満男さんにめちゃめちゃキレ始めたんです。
「ふざけんな! なんでやめるんだよ。まだまだできるだろ! 俺たちにもっと教えることがあるだろう!」
おかげで、さらに大号泣です。結果的に僕らはそれを受け入れるしかなく、満男さんはその後、クラブW杯の3位決定戦が終わった後、カタールのホテルでチームに向けて「今年で引退する」と告げられました。そこでもまたチームメイトとともに、僕やヤスさんもめちゃめちゃ泣きました。
そんなヤスさんの涙は、ラストゲームとなったJ2リーグのホーム最終戦でのセレモニーでも映像を通して確認しました。正直、ヤスさんのことだから明るく笑ってピッチを去るのかなと想像していただけに、あの涙は反則でした。実は、試合前日、ヤスさんに電話を掛けた時に「引退を聞いて泣きそうになりました」と告げたら、偶然隣にいた大伍くん(西/いわてグルージャ盛岡)に「泣きそうになっただけだろ?」と突っ込まれ、「はい、すいません、泣いてないです」と返していたんです。ヤスさんもめちゃめちゃ笑っていたし、なんなら引退セレモニーでもそのテンションで話すんだろうなと思っていました。そしたら、まさかの涙、涙で不意を突かれ…こっちまでもらい泣きをしてしまいました。引退の理由として 「チームを勝たせられなくなった」と話していたのも、めちゃめちゃヤスさんっぽかったです。
ちなみに、その時の電話では「近々会いに行くから。また一緒に呑みに行こうなー」と言ってくれたので、その時を心待ちにしながら、会ったら僕も必ず、ボロカス言ってやろうと思っています。
「なんでやめるねん、まだまだできるだろ! もっと俺らに伝えなあかんことがあるやろ!」
あと、鹿島時代、ヤスさんの太すぎるふくらはぎを触らせてもらって「あ〜元気出るわー!」と言っていたように、またふくらはぎを触らせもらってパワーをもらいます。ヤスさん、お疲れでした!
昌子 源Gen Shoji
1992年12月11日生まれ。
兵庫県出身。
11年に米子北高校から鹿島アントラーズに加入。14年には自身初のJ1リーグフル出場を実現するなど主軸選手に成長を遂げ、16年のJ1リーグや天皇杯優勝、18年のAFCチャンピオンズリーグ制覇などに貢献した。
18年12月にトゥールーズFCに完全移籍。すぐさまレギュラーに定着するも2シーズン目はケガに苦しみ長期の戦線離脱に。その状況を踏まえてJリーグへの復帰を決断し、20年から3シーズンはガンバ大阪で、23年は鹿島アントラーズでプレー。24年はFC町田ゼルビアに完全移籍となった。
14年に日本代表に初選出。2018FIFAワールドカップ ロシア出場。