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選手時代から新チームの立ち上げを経験してきた望月隆司さん。困難な状況を切り拓いて結果を出し続けるなかで培われた望月さんのサッカーに向き合う姿勢と情熱。それは一番に選手のことを考える指導に活かされています。年代や性別に限らず、どのカテゴリーの選手であっても成長するために欠かせない思考、そして練習量の多さに頼らない効果的なトレーニングとは何か。これまでの経験から得た指導者として持つべき視点と、自身の成長へ意欲あふれる今後について聞きました。
―現在の活動内容について教えてください。
望月 現在はプレナスなでしこ1部リーグの愛媛FCレディースで監督として指導しています。午前中にスタッフとその日のトレーニングメニューを共有、午後は事務所で打ち合わせをして、夕方18時~20時の間にトレーニングが行われます。平日はそのような感じで、土日は試合ということが多いです。
―チームに関わることになった経緯を教えてください。
望月 中学のときのクラブチーム時代の仲間が指導者として活躍していて、昨年末に彼から連絡をもらいました。「女子選手の指導経験があったよね」という話の流れから今のチームに呼んでいただくことになりました。
―これまでのサッカーの経歴について教えてください。
望月 小学校は都内で過ごし、中学校からは三菱養和で中学生のときはキャプテンを務め、東京選抜にも選んでいただきました。高校に上がるときに声をかけていただいて、読売日本S C(現東京ヴェルディ)のユースに進みました。当時のトップチームはラモス(瑠偉)さんやカズさん(三浦知良:現アトレチコ鈴鹿)とかの時代で、レベルの高い先輩と後輩に囲まれて毎日が必死でしたね。ユース最後の大会で全国優勝をしたのですが、卒業後は国士舘大学を選択しました。大学に通いながらヴェルディのサテライト、当時のBチームでスタートして素晴らしい指導を受ける機会に恵まれました。キャプテンを務めさせてもらうまでになりましたが、ラモスさんのプロジェクトで「沖縄にJリーグチームを作るので、そこで力を貸してほしい」というお話をいただいたのです。23歳の夏、2週間足らずで決断して沖縄へ行きました。沖縄かりゆしFCというチームで、九州リーグ優勝など順調に進んでいたのですが、いろいろと困難があって続かなくなってしまいました。
―チーム存続の危機。その後はどうされたのですか?
望月 そこから仲間達とチームを立ち上げました。それが現在J3のFC琉球です。何もないところからチームを結成して、キャプテンとして4年間プレーしました。沖縄県3部リーグからJリーグを目指せるチームにするために、とにかく飛び回りました。選手としてだけでなく、商品登録や「琉球」という現状にない地名を使うことを弁護士の方へ相談したり、本当にいろいろなことをやりました。そして沖縄に来て7年が経った29歳のとき、違う世界を経験したいという気持ちがあり、ご縁があってシンガポールのチームでプレーすることになりました。
―現役時代の沖縄での経験は大きなものになりましたね。
望月 沖縄では選手としてだけでなく、チームを作るための試行錯誤の連続でした。安いTシャツにワッペンをつけただけのウエアとか、関係者からいただいたボールを使ったり。もちろん練習場もないので、少しでも芝生があるようなところを探して、朝から広い公園に行ってみんなでボール回しをするような状況でした。いま考えると、あの殺気立つくらい集中した短い時間の練習が、常に一番効率がいいルートを考える力がついたのかもしれません。いま指導していても、普段の練習から「時間がない」と考えて、一番大事なものをセッションに入れて効率よくトレーニングすることを常に意識しています。そういったところは当時の感覚が今に活かされていると感じます。
―選手から指導者の道に進んだきっかけはあったのですか?
望月 シンガポール時代に海外の監督から声をかけていただいて、移籍の話があったのですが、事情があって白紙になりました。当時、すでに家族がいて娘が生まれたばかりだったので、急遽知人に紹介してもらって、サッカースクールのコーチとして働き始めました。本当のことを言うと、納得して選手を辞めたわけではなく、30歳でもまだ体も動きましたし、自信もありました。ただ自分のなかで、いろいろなことがスムーズにいかなくなった。それは初めての経験で、リズムが切れてしまった気がして、ひとまず選択したという感じでした。ただ、中学生の選手たちを指導するようになったころ、みんなが本当に一生懸命にサッカーをやっていたのです。そんな子どもたちと接するうちに、自分も中途半端にやっているのは良くないと思って、心を込めて向き合っていきました。その結果、指導者として心身ともに本格的にスタートしていった感覚です。
―指導する上で大切にしていることはありますか?
望月 カテゴリーにもよって内容は違いますが、いろいろなものを複合させて楽しくサッカー的な要素を使いながら指導することを大事にしています。例えば中学生ぐらいの年代は有酸素運動が大事ですが、ボールなしで走ることもボールを使うこともどちらも必要です。どちらかだけではなく、サッカーで起こりうるステップワークだったり、そのなかで方向性をつけたり少しコンタクトを入れながら、ウォーミングアップで楽しめるような動き作りを考えます。あとは、常に複数のことを考える力を育てるために、トレーニングにタスクを入れたりしています。ボールを奪われないようにしながら、ディフェンスのお尻につけたしっぽ(タグ)を取りにいくゲームをしたり。ただパスを回すだけではなく、ボールを動かしながら他のタスクをかける。そうやって遊びながら思考を習慣にしていきます。
―サッカーにおいて複数のことを同時に考えるのは大切な要素ですね。
望月 そうですね。もう少し上の年代になると、情報処理能力や優先順位のつけ方が必要になってきます。動きながら考え、プレッシャーがあるなかで正確にプレーできる技術も求められるので、そこにつなげていきます。
―望月さんの転機というと、沖縄へ行ったことでしょうか。
望月 そうですね。転機というかFC琉球は自分の子どもみたいな存在です。沖縄を離れてしばらくして、他チームの指導者としてFC琉球と対戦することがありました。FC琉球のワッペンをつけた子どもたちがプレーしているのを見たときは、とにかく一生懸命にやってきて良かったなと思いました。当時はお金がなくて、お腹が空いたら水を飲んでやり過ごすような時期もあったのですが、いま思い返すと満足感と楽しい思い出しかなくて、沖縄では選手としても人としても成長させてもらえたなと思います。
―選手として、指導者としての転機や印象深い試合はありますか?
望月 選手として印象深い試合は、2005年のFC琉球での地域決勝大会です。当時はJFLに上がることがプロの登竜門で、一つでも負けると最初からもう1年やり直しという負けられない戦いでした。チームを立ち上げて3年目、物も環境も揃わないなかで、みんなの思いや期待にしっかり応えられたこと、目標を達成できたこと、どちらも成し遂げた経験は大きかったです。指導者として印象に残っているのは、2012年に女子サッカーの裾野を広げるために「新カテゴリーを作ろう」というタイミングで東京ヴェルディから呼んでいただいて、女子中学年代の育成チーム「日テレ・メニーナ・セリアス」という新チームに携わったときのことです。各地から来てくれた選手たちとエンブレムの重みを理解して、一日一日を大切にしながら努力を続けていきました。立ち上げ当時中学1年生だった子たちが3年生のとき、全日本女子ユース(U-15)サッカー選手権大会で東京都大会から関東大会と全国大会合わせてトータル87得点を叩き出して日本一になりました。できたばかりのチームがいきなり素晴らしい結果を出してくれたこと、その後も活躍している選手たちには本当に感謝しています。いつも選手たちから良い刺激をもらってばかりです。
―今後の展望はありますか?
望月 いま所属している愛媛FCレディースはアマチュアです。選手たちはそれぞれ働いていて、仕事のあとにトレーニングに励んでいます。選手たちには頭が上がりません。本当にすごいことです。“応援してくださる皆さんを笑顔にすること”をキーファクターとして、一戦一戦をまずは自分が先頭に立ってやっていきたいと思います。個人としては第1種(年齢制限のないチーム)の指導経験をもっと積みたいと考えています。そのために、育成年代を指導するなかで、年代ごとに何があるのかをなるべく知っておきたい。その経験が積み重なれば、「次の年代はこういうことがある、だから今はこれが必要なんだよ」という実際の経験をもって育成年代の選手たちに伝えられると思います。あとは指導だけでなく、人と協力して物事を遂行していく力を学びたいです。マネージメント能力ですね。仲間がいい表情で仕事する。それが監督としての目標というか、やらなければならないことなのかなと思います。サッカーの結果も出さないといけないし、選手たちを成長させたい。それにはスタッフ一丸となる必要があって、スタッフマネージメントや選手マネージメントのところもさらに強化していきたいと思っています。
―バイタリティを感じます。立ち上げはサッカーとはまた違う熱量が必要になりますね。
望月 振り返れば、立ち上げの経験が多いですね。熱量はあると思いますし、ないよりある方がいいかなって思っています(笑)。毎日のトレーニングメニューも決めた通りにやるのではなく、選手たちの表情とかピッチでの会話がネガティブなのかポジティブなのか、重心がどこにあるのかをしっかり見るよう心がけています。ネガティブなときは、座ってから靴紐を結んで立ち上がるのにも時間がかかります。負けた試合のオフ明けの練習は、どうしてもネガティブに寄りがちなので、そんなときは練習メニューを変えます。臨機応変な工夫は大事かなと。負けた次の日、ネガティブになるくらいならオフにして、その日は好きな人や大事な人と出かけて楽しく過ごす。それだけで心がリフレッシュします。そういったリカバリー方法もあると思います。厳しいトレーニングが指導者の不安解消のためだとしたら、それは違います。本当に“選手のためになっているか”というところは、常に気をつけて考えています。
―今の時代として「やらせる」から「導く」に変化しました。
望月 そうですね。ただ、育成年代では多少負荷をかけた状態にすることも必要です。でも、ケガをさせたら元も子もないので、そこの微妙なバランスや調整はいつも気にかけるところです。
―その他に育成年代への指導で特に気にされていることはありますか?
望月 育成年代には、“選手を中心に置いたコミュニケーション”が重要だと思っています。どうしても育成年代の練習には送迎が必要になることが多く、忙しい時間帯にそれを担ってくださる保護者の方々には感謝の気持ちでいっぱいです。練習を見ていると、親として言いたいことが出てきます。当然です。「あのときは何を言われたの?」「お父さんはこう思うよ」って会話も多くなると思いますが、例えばそれが指導者と真逆のことだったりすると、子どもは混乱するかもしれません。子どもたちが練習以外の家庭や学校で過ごす22時間がどんな様子なのか、こちらからは分かりません。松本山雅FCには学校訪問というのがあって、「クラブとしてこういうことを考えています」というのをお伝えする機会がありました。保護者面談もあって、家庭と学校とクラブの三位一体で選手を成長させていくことを大事にしていました。
―それはとてもいい取り組みですね。今は練習時間以外の過ごし方もたくさんあると思います。YouTubeなどSNSから得る知識が増えることについてはどう思われますか?
望月 実際に体を動かして習得することは大事です。それと同時に、家に帰ってパソコンを開いてサッカー以外の知らないものを新しく知ることもいいことだと思います。やはり知らないよりは知っていた方がいい。大脳から小脳への刺激で、知っていると見ただけでも動けます。脳は知らないことで動けません。なので、そのための時間も必要だと思います。知らないことを知るにはストレスがかかるしパワーがいります。その作業が落ち着いたとき、自分のなかで整理してアップデートしていく必要性を常々選手に伝えています。それがプレーの選択肢を増やすことにつながるのです。自分たちのサッカーがチョキだとして、それを大事に磨きあげていくのもいいけれど、相手のサッカーがグーであれば、こちらはパーのサッカーをしないと勝てません。選択肢を持っていないといけないんですよね。ブレないことが必ずしもいいことではなくて、うまくいっていないときは、むしろブレないといけない。やりたいこととや、やるべきことがきちんと整理されているチームが上にいくのだと思います。ただ、それを伝えるタイミングがとても難しい。コーチとしての言葉を伝えるタイミングは、もっと工夫が必要だと今も試行錯誤しています。
―まずは知ること。そしてそれを受け入れて次に活かしていくことが大事ですね。これからチームとともに可能性を切り開いていくことで、きっとますますいいチームになっていきますね。今後のご活躍を楽しみにしています。ありがとうございました。次の指導者のご紹介をお願いします。
望月 松本山雅FC U-10担当の銭谷赳長さんです。
<プロフィール>
望月隆司(もちづきたかし)
愛媛FCレディース監督
1978年4月19日生まれ。東京都出身。読売日本SCユースから国士舘大学を経て、東京ヴェルディ、沖縄かりゆしFC、FC琉球、アルビレックス新潟・シンガポールで選手として活躍。その後、指導者としてFCパルピターレJYヘッドコーチ、日テレメニーナ・セリアス監督、バディJY監督、作新学院大学サッカー部ヘッドコーチ、松本山雅FCでU-15コーチと監督を経験。2024年に愛媛FCレディースの監督に就任して現在に至る。日本サッカー協会公認A級ジェネラルライセンス取得。