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J1リーグ第18節・ファジアーノ岡山戦で『J1リーグ通算300試合出場』を達成することができました。まずは支えてくれた家族や仲間、僕を元気な体に産み、育ててくれた両親、応援してくださったみなさんに感謝を伝えたいです。
その中にはチームが変わっても、ユニフォームをその都度、買い直し、僕の300試合すべてを観て、一緒に戦ってくださった方もいるかもしれません。そこまでのコアなファンの方はおそらくほんの数名だと思いますが、もし300試合を共に走り抜けてくださったのなら、その方たちには「ありがとうございます」と共に「おめでとうございます」という言葉を贈りたいです。J1リーグでの300試合出場達成は、33年目を迎えているJリーグの歴史において、150人弱だと聞いています。実際、僕がここに辿り着くまで15年もの時間がかかったと考えても、そのコアなファンの皆さんにとっても、長くて厳しい戦いだったと想像するからです。その方たちを含め、今もたくさんの方に応援していただきながらプレーできることに感謝しつつ、ここからまた次なる目標に定める『J1リーグ400試合出場』に向かって自分らしく進んでいこうと思っています。
僕が鹿島アントラーズでプロキャリアをスタートしたのは、2011年でした。その前年度、10年の終盤に、のちにチームメイトになる満男さん(小笠原)がJ1通算300試合出場を達成された姿を映像で見て「自分には想像もつかない数字だな」と思ったのを覚えています。その後、僕がプロ2年目を迎えた12年にイバさん(新井場徹)が400試合出場を、青木剛さんが300試合出場を達成された時もそれは同じでした。いくつになっても当たり前のようにピッチに立ち、チームの絶対的支柱であり続ける姿に、怖ささえ感じたほどです(笑)。特に、決して派手な選手ではなかったイバさんや青木さんが、常に安定したパフォーマンスと燻銀の活躍でチームを支え、鹿島に不可欠な選手として君臨し続けるのを見て、考えさせられることもすごく多かったです。同じピッチに立てるようになってからも何度も「バケモンやな!」と驚かされるようなプレーを目の当たりにしました。そんな偉大な先輩方の姿を見ていたから、自分も自然と『300試合』を目指すようになり、どうすればそこに到達するのか、成長し続けるためには何が必要かを考え続けられたんだと思います。
とはいえ、当時のJ1リーグは、年間試合数が34試合、交代は3人までという時代です。単純に計算しても10年はかかるだろうと覚悟したし、プロサッカー選手の平均寿命も20代前半だったと考えても、高校時代まで全く無名で世代別代表にすら入ったことのなかった自分には正直、現実的な数字ではなく…。プロ6年目に100試合出場を達成した時も「やっと、100か」が正直な気持ちでした。ただ、ありがたいことにそこからも順調にキャリアを重ねられ、ガンバ大阪時代の21年に200試合を、そしてFC町田ゼルビアで300試合を達成することができました。
その中では嬉しい記憶より、悔しい記憶の方が色濃くて、今でもその試合を思い出すだけで味わった悔しさ、喪失感が蘇ってきます。特に、17年のJ1リーグ最終盤、残り2試合のうち、1つ勝てば優勝というところまで上り詰めながら、その2試合を引き分けに終わり、川崎フロンターレに逆転優勝を許した時のことは、試合終了のホイッスルが鳴った瞬間にチームに流れたなんとも言えない重い空気を含めて鮮明に覚えています。ですが、その経験を含めて今の自分がいることは紛れもない事実です。綺麗事では決してなく、それがあったからまた巧くなろう、強くなろうと思えたし、だから今があるんだと思います。
そんなふうに過去に記憶を巡らせても、僕にとってはいろんなチームで、いろんな人に出会い、いろんなサッカー観に触れたことも、自分の成長を促し『300』を実現できた理由の1つだと思っています。プロサッカー選手の『移籍』にはいつもいろんな賛否が付き纏います。僕自身、決断のたびに悩んできたのも事実です。ワンクラブマンとして戦う選手へのリスペクトから、そういう先輩たちの姿に憧れた時期もありました。
ただ、結果的にその都度、僕なりに自分に後悔のない選択をし、それを自分の正解にしようとしてきた中で、今となってはこのキャリアを選んでよかったと思っています。鹿島ではたくさんの偉大な先輩方にたくさんのことを学び、プロとは何かを教えていただき、その時間が僕のプロサッカー選手としてのベースになりました。ガンバではトゥールーズFC時代から続いていた足首痛に苦しんだ時間も長く、たくさんのメディカルスタッフに支えていただいてピッチに戻ることができました。正直、あまりチームの力になれなかったという悔しさは残りましたが、僕にとってはキャリアで初めて引退を覚悟したほどの苦しい時間だったことを思うと、ガンバでプレーしたことが今の自分にも繋がったと思っています。
そして、ゼルビア。過去に僕が在籍した2つの『オリジナル10』のクラブには、積み重ねてきた歴史によって備わった特有の『色』や『空気』があったのに対し、J1での歴史はまだ2年目のゼルビアはそれを築き上げている最中です。でもそのクラブに身を置き、キャプテンとしても、ベテラン選手の一人としても、その基盤となるところに携わる責任を感じながら過ごしてきたからこそ、新たに学んだこともたくさんあります。それを30代になって感じられていることや、その基盤を揺るぎないものにしていこうというチャレンジを続けられていることも、この先、自分が『400』を目指そうという欲に繋がっている気もします。
『400』となれば、単純計算で最低3年はかかると想像しても、そのチャレンジがこの先、30代後半に差し掛かっていく僕にとって簡単ではないことは自覚しています。その実現には、相応の体のケアも必要だし、これまで以上に『バケモン』級の体と心を備えていかなければいけない、とも思っています。ですが、Jリーグの歴史にはそれを実現した選手がいて、幸いにも僕は日本代表やこれまで所属したチームでその偉大な背中を数多く見てきています。その経験も力に、自分も彼らに続ける選手になっていきたいと思います。
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昌子 源Gen Shoji
1992年12月11日生まれ。
兵庫県出身。
11年に米子北高校から鹿島アントラーズに加入。14年には自身初のJ1リーグフル出場を実現するなど主軸選手に成長を遂げ、16年のJ1リーグや天皇杯優勝、18年のAFCチャンピオンズリーグ制覇などに貢献した。
18年12月にトゥールーズFCに完全移籍。すぐさまレギュラーに定着するも2シーズン目はケガに苦しみ長期の戦線離脱に。その状況を踏まえてJリーグへの復帰を決断し、20年から3シーズンはガンバ大阪で、23年は鹿島アントラーズでプレー。24年はFC町田ゼルビアに完全移籍となった。
14年に日本代表に初選出。2018FIFAワールドカップ ロシア出場。