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Vol.5 湘南ベルマーレ/MF梅崎司

  • 2019.09.20

    Vol.5 湘南ベルマーレ/MF梅崎司

みんな、昔はサッカー少年だった

■ 家にいるのが嫌で、外で一人、ボールを蹴り続けた少年時代。

おそらくは、幼い頃から『覚悟』とともに生きてきた。叔父の家に遊びに行ったのがきっかけで始めたサッカーには純粋に「楽しい」「うまくなりたい」という気持ちに押されてのめり込んでいったが、いつしかボールを蹴る時間は、家族を取り巻く複雑な日常から離れるための手段となり、一人、壁に向かってボールを蹴る時間は、彼の心に強い『思い』を芽生えさせた。それがまだ、『覚悟』という言葉に当てはまるものであることにも気付かないくらい小さかった頃の話だ。
「幼少の頃から、サッカーは練習をした分だけ自分に返ってくると思っていたので、毎日のように日が暮れるまで外で一人、ボールを蹴っていました。そうしていれば、何もかも忘れられたから。というのも、うちは子供の頃から複雑な家庭環境で…親父は僕にこそ手を出しませんでしたが、オカンへの暴力が絶えず、オカンが殴られる姿を隠れて見ているような毎日だったんです。だから、できるだけ家にいたくなかった。そんな中でもオカンはずっと僕の一番の応援団でいてくれて、いつも『サッカーをしている時の司はいつもの3倍以上、大きく見える。だから続けなさい』と言って背中を押してくれました。それとは対照的に父には『お前みたいなチビはすぐに潰されるから無理だ。勉強しろ』と言われていましたが、いまになって思えば、そんな父への反骨心とオカンの期待に応えたいという思いが、サッカーを頑張る自分を形成してくれたんだと思います」

初めてチームに所属したのは小学1年生のとき。叔父の勧めから長崎FCに加入した。最初は、あくまでサッカーと触れ合い、楽しむのが目的だったが、2年生になると『選手コース』に入り、本格的にサッカーをするようになった。

小学2年生の時に長崎FCの『選手コース』に
転向し、本格的にサッカーを始めた。

「最初はユニフォームに憧れて『選手コース』でプレーしたいと思うようになったのですが、週1回の練習が3〜4回に増え、やればやるほど巧くなる実感がありました。その頃はまだ『プロ』がどうとか全然考えていなかったけど、小学2〜3年生の頃から横浜フリューゲルスが長崎で年1回、Jリーグのホーム戦を開催するようになり、それを毎年、観に行くようになったんです。それをきっかけに『僕もいつかあそこに立って、たくさんの人の前でプレーしたい』と思うようになった。それを夢として明確に描いたのは、小学5〜6年生のとき。ワールドカップフランス大会のアジア最終予選での『ジョホールバルの歓喜』や、中田英寿さんをはじめとする日本代表の姿を見て明確な目標が定まりました」
事実、小学6年生のときに書いた卒業文集には「プロサッカー選手になりたい」としたため、その横には「オカンを楽にさせたい」「家を買ってあげたい」と書き記した。もちろん、その面白さに惹かれ、好きで続けていた『サッカー』だったが、いつしかそれは、父から母を守るための手段だと考えるようにもなっていた。

■ 体が大きくないからこそ、『ドリブル』という武器を備えられた。

その頃から、フリューゲルスの前園真聖のプレーに憧れた梅崎は、ボールを持ってプレーすることやドリブルで相手を抜き去ることに楽しさを見出すようになっていた。そのプレーが評価され、小学校高学年の時には長崎県選抜にも選出。それは中学になっても変わらなかったが、長崎FCを経て1年生の夏にキックスFCに所属するようになった頃から、周りの仲間とは対照的に梅崎は身長も伸び悩み、フィジカルも追い越され、持ち味の1つだったスピードでも勝てなくなってしまう。それを自覚すればこそ、毎日牛乳を1〜2リットル飲んだり、食の細さの克服に取り組んだりもしたが「横に大きくなるばかりで、身長は伸びなかった」。だが、一方でその事実は彼に新たな決意を芽生えさせた。
「体格がなくても対抗できる武器を身につける」
それが『ドリブル』だ。
「体格で劣る分、どうすればドリブルで抜けるのかをよく考えたし、自分の持っているスキルをさらに磨くことを意識してトレーニングをするようになりました。特にドリブルについては、バリエーションを増やすことはもちろん、フェイントを入れてみたり、ドリブルの流れからのパスやシュート、センタリングなど、そこに付随するプレーをひたすら練習した記憶があります。かと言って、特に答えは見つからなかった気もしますけど(笑)、とにかく練習をするしかないと思ってサッカーに向き合えたことで得たものはきっとあったと思います」

その頃「擦り切れるまでビデオを観て、真似て、練習した」のが、地元・長崎県の強豪、国見高校のエースとして活躍していた大久保嘉人(ジュビロ磐田)のプレーだ。梅崎と同じように体が小さいにもかかわらず、相手を切り裂くドリブルや抜群のシュートセンスで前線を躍動する大久保の姿は、彼の希望であり、目標だった。と同時に、刺激を受けたのが、同校の名将として知られる小嶺忠敏監督が開催していた『小嶺アカデミー』だ。県内の中学生対象のセレクションで合格した20名弱が、週1回、国見高校のコーチングスタッフによる指導を受けられるというもので、梅崎も1年生時から参加。現役選手と直に触れ合える時間からは「たくさんの刺激を受けたし、そこで教えてもらったことを中学に持ち帰り、自分なりにアレンジして練習をすることも多かった」と梅崎。といっても、高校生になるにあたって梅崎が選んだのは国見高校ではなく、大分トリニータユース。そこには彼なりの理由があった。

■ 家族の思いを背負って、大分トリニータユースへ。

「国見高校には行かなかった…というより、正確には、国見から声も掛からなかったし、一般入試で受験して進学する道も選ばなかった。もちろん、当時、プロになるには『全国』で活躍しなければいけないと思っていたので、大分ユースという道がなければ国見を受験していたと思います。ただ、僕が中学3年生の頃くらいから、ユース勢が勢いを強めていたせいか『これからはユースの時代が来るぞ』みたいな話が聞こえてくるようになり、大分ユースのセレクションを受けることにしました。プロのアカデミーに加入すればプロへの近道になるかも、という安易な発想もありました。そしたら、セレクションが終えた会場で合格だと告げられたんです。その帰り道の車中で、弟もいる前でオカンに『どうしたいの?』と聞かれ、即決で『行く』と返事をしたのを覚えています」
実はこのセレクションを受けるにあたって、梅崎は母に1つの提案をしていた。
「親父と別れな。弟と3人で家を出よう」
成長とともに「オカンを楽にさせたい」という思いをより現実的に考えるようになっていた梅崎は、相変わらず続いていた父の暴力から母を解放してあげたい一心で、決意を口にしたと言う。それもあって、大分ユースのセレクションには父には内緒で臨んでいた。
「結果的に大分に行くと決めた僕は寮に入り、オカンと弟も家を出たのですが、大分ユースに行くとなれば、これまで以上に金銭的な負担をオカンにかけてしまうとあとから気づき…。実際、当時の大分が提携していたのは私学の高校で寮生活だから寮費もかかるし、昼食は自分で弁当を食べなきゃいけなかったのでそこにもお金がかかる。その上、オカンはお小遣いまでくれて…。改めて『プロサッカー選手になるのは自分の夢だけじゃない』という思いが強くなりました」

梅崎が「小さな頃から僕の一番の応援団だった」
と話す、母と弟と。

大分ユースでの3年間は最初から全てがうまくいったわけではない。事実、一時期はBチームでプレーしていたことも。だが、そこでコーチの村田一弘(現セレッソ大阪U-23コーチ)に出会えたことで、梅崎は今にもつながるサイドMFとしてのプレーやそこからの『仕掛けのドリブル』という新たな『武器』を手にする。それもあって、2年生になる頃にはスタメンに定着。着実にトップチーム昇格が近づいてきていると実感していたが、彼にとって初めての『全国』となった夏の日本クラブユースサッカー選手権で一気に調子を落とし、スランプに陥ってしまう。そこからの半年間は浮上できないまま苦しい時間を過ごした。
「大会直前の韓国遠征までは調子が良かったのに、全国大会を目の前にして緊張やプレッシャーがあったのか、全くいいプレーができなかったんです。システムが4-3-3に変わって、中盤を任された中で、自分が何をすべきかが分からなくなり、自分らしさを出せなくなってしまった。となると、先発も外れ、途中出場をしても試合に入っていけず、本当に何をやっても上手くいかない時期が続きました。ただ、トップ昇格を諦めることはなかったです。他の選手がトップチームの練習に呼ばれるのを横目で見ながら『絶対にこの状況をひっくり返してやる。まだ答えが出ていないのに諦めるわけにはいかない』と思ってトレーニングに向き合っていました」

『仕掛けのドリブル」を武器の1つとして
備えるようになった大分トリニータユース時代。

そんな彼が再び輝きを取り戻したのは3年生の夏だ。先述の村田が監督に就任し、どのプレーが良くて何がダメなのかを指摘されるようになり、どこで仕掛けるべきか、どこでボールを叩いて受け直せばいいのかが判断できるようになって、持ち味をスムーズに発揮できるようになる。また時を同じくして、チームにフィジカルコーチがつくようになったことも功を奏し、スピードとパワーを備えられるようになった梅崎は、一気に自信を取り戻す。中でも特筆すべきは、大分県代表として出場した第84回天皇杯だ。ユースチームながら3回戦まで駒を進めたチームの中心で輝きを見せると、念願の『プロ』への切符を掴み取った。
「僕にとってはJリーグ初出場以上に嬉しい出来事だったので、今でも当時のことはよく覚えています。週末にいつもと違う天然芝の練習場でトレーニング後のクールダウンをしていたら当時の強化部長に呼ばれたんです。そこで『プロでやっていく自信はあるか?』と聞かれて、即答で『はい』と答えたら後日、正式にプロ契約を伝えられました。オカンも本当に喜んでくれて…家族で勝ち取った切符だったので、すごく嬉しかったし、ようやくこれでオカンに恩返しができるとホっとしました」

高校3年生になると、プレーが整理され、
またスピードやパワーも加わって存在感を
示せることが増えた。

■ ケガとの戦いを乗り越えて、湘南で取り戻した『自分らしさ』。

05年。プロサッカー選手としてのキャリアを歩き始めた梅崎は、以降、自身が想像していた以上のスピードで毎日を駆け抜けてきた。いつも、その傍らにあったのはユース時代からつけていた『サッカーノート』だ。プロ1年目は「何もかもが通用しないという感覚が強かった」らしく、試合にもほぼ絡めなかったが、だからこそ自分の『夢』を見失わないよう、自分には何が足りていないのか、どんな努力が必要なのかを書き留め続けた。
「ノートには、年度ごとに夢の設定を書いていました。この年までに、Jリーグで活躍する。この年にはオリンピック代表に入り、オリンピックに出場する。日本代表になる。海外に行く、ワールドカップに出場する。バロンドールを獲る、と。試合にはほぼ絡めていなかったけど、本気で実現できると信じていたし、そのためにも『量』で負けちゃダメだと、あらゆる努力もしました。子供の頃から、いい時ばかりじゃなかったけれど、その時々でたくさん練習をした先には必ず結果があったという自分なりの成功体験が根底にあったからだと思います。加えて言うなら、プロ2年目にフィジカルコーチに言われた『練習のための練習になってないか?』という言葉もすごく重く響いて…。『練習でパフォーマンスを下げているのに、試合に使われるはずがない。練習でなぜパフォーマンスが下がっているのかをちゃんと考えてトレーニングしない意味がないぞ』と言われて自分の考え方も変わり、さっき話した根底の部分は続けつつ、練習での自分の作り方を工夫するようになった。そしたら06年から試合にも絡めるようになり、その年には日本代表に選んでもらって、翌年には海外移籍ですからね。そこだけは『サッカーノート』で記した目標より先を行っていましたけど(笑)、自分としては『偶然ではない』と思っていました。具体的な目標を明確にイメージし、それに対して気持ちを持ち続けることができたから、結果を出せてきた、と。それは今も同じで…いや、ずっとそう思ってやってきたはずが、正直、一時期は少し守りに入ってしまい、自分を貫けていない時期もありました。でも、去年、湘南ベルマーレへの移籍を決断したことで、今は、かつての自分を取り戻している感覚が凄くあります」

梅崎が『自分を貫けていない時期』だったと振り返るのは、08年から10年間にわたって在籍した浦和レッズでの最後の数年間だ。
浦和では彼のプロキャリアでは初めてとなる『タイトル』も経験しながら、第一線で活躍を続けてきた一方で、09年3月の椎間板ヘルニアに始まり、11月の右膝前十字靭帯損傷、復帰した翌年8月の右膝半月板損傷など、度重なるケガに苦しめられる時期が長く。その中では、いつしか安定を求めるようになり、チームで生き残っていくために『自分』を封印してプレーすることが増え、梅崎は悶々とした毎日を過ごしていた。
「僕が移籍する前年の07年にアジアチャンピオンになった浦和でポジションを勝ち取れば、自然と日本代表や世界が見えてくるという思いで移籍を決断したことに微塵も後悔はありませんでした。またケガからの復帰を目指す過程でも、常にポジティブに自分と向き合えていたという意味では、ずっと悪い時期が続いたわけでもなく、むしろすごく良かった時期もあります。でもそれはもともと僕が武器にしていたドリブルでの仕掛けとは真逆の、流れを読むとか、黒子としての存在感だったんです。だけど、家族の存在の大きさを思えばこそ、家族をしっかり養いたいという思いも強くなっていたし、試合に出ることを優先するようになっていた。いや…そうやってプレーの幅を見出すことも、試合に出ることを自分に求めることも、プロとしては大事なことだったと思います。思うんですけど、ずっとモヤモヤしていて…そんな中で去年、曺(貴裁)さんに声をかけていただき、浦和でこのままフェードアウトしていく自分は嫌だと、移籍を決断しました」
それが間違いではなかったと確信したのが昨シーズンだ。チームはリーグ戦で残留争いに巻き込まれたが、その中で自分の武器で勝負する大切さを思い出した梅崎は「ここに来て本当に良かった」と笑顔を見せる。
「湘南に来て、自分の気持ちもどんどん変化していって、改めて『思い』『意識』を持ってプレーする大切さを再確認できました。やっぱりサッカーって、自分の理想を強くイメージして、意思を持ってプレーすることが大事だと思うんです。それを描けるから、じゃあ、何を磨かなければいけないのか、どんなスキルを備えなければいけないのかも明確になる。それに、試合に出たいから、コンディションが上がっていないから『うまくやっていこう』ではなく、そうやって『なりたい自分』に向かって、そこに近づく努力をする方が断然、僕らしい。キャリアの後半戦を戦っている今、そのことに気づけたのは、すごく意味があると思っています。と言っても、僕も32歳になって冷静に自分を見れば、若い時ほどのエネルギーはないのも事実で、だからこそ睡眠や食事など、いろんなことをこれまで以上に意識しなければいけないところもあります。でも今は、すごくサッカーが楽しい。それが全てだと思います」
そんな風に新天地で躍動する梅崎に、母は「3倍以上、大きく見えた」少年時代の彼の姿を重ね合わせているのだろう。昨年は、梅崎が出場するほとんどの試合をスタジアムで観戦し「サッカーが楽しそうね」と声をかけたそうだ。その言葉に、梅崎は一つの確信を得たと言う。
「自分が楽しんでプレーしていたら、僕を応援してくれている人たちも、きっと楽しい」
心からそう思えることが、今は何よりも嬉しい。

<PROFILE>
梅崎司(うめさき・つかさ)
1987年2月23日生。169センチ、68キロ。
大分トリニータユースから05年にトップチームに昇格。2年目の4月頃から試合に絡み始め、レギュラーに定着。同年8月には日本代表に初選出された。07年にはグルノーブル・フット38に期限付き移籍。同年6月の大分復帰を経て、08年に浦和レッズに移籍し、ケガとも戦いながら10年間在籍した。そして昨年、湘南ベルマーレへ完全移籍をするとシーズン半ばからスタメンに定着。8月には地元・長崎でのV・ファーレン長崎戦で約2年ぶりにリーグ戦でゴールを決め、10月にはクラブ初のルヴァンカップ優勝に貢献した。

text by Misa Takamura

KAS Eupen/FW豊川雄太<アーヘン編>