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Vol.9 FC今治/MF橋本英郎

  • 2020.01.20

    Vol.9 FC今治/MF橋本英郎

みんな、昔はサッカー少年だった

■ 小学生時代はほぼ月2回のサッカー。ガンバアカデミーでは『衝撃』の連続。

1979年5月21日。橋本は3人兄弟の末っ子として生まれた。初めてボールを蹴ったのは幼稚園のとき。サッカーをしていた6歳上の兄の影響だ。小学1年生になると、その兄と同じ大阪スポーツマンクラブ(以下、大阪SC)に加入。と言っても、同チームの練習はわずか月に2回だった。

3歳の頃。サッカーをしていた兄、バレーボールをしていた姉に可愛がられ、後をついてまわった。

「サッカー自体はすごく楽しかったのですが、何せ月2回ですからね。巧くなることを求める感じではなかったと思います。それ以外にも放課後、ボールを蹴ったり、リフティングをしたりしていたけど、なんとなくやっていただけなので小学4年生になっても太ももでのリフティングしかできませんでした。それ以外に夢中になったことと言えば、テレビゲームか友だちと公園で遊ぶことくらい。『ブランコに乗りながら投げた石を拾うゲーム』とか『コートの中を逃げ回るのではなく、自分の周りに円を描いて、その範囲内でしか動けないドッチボール』とか、自分たちでルールを考えて遊んでいました。親にはいつも『勉強しろ』と言われていたくらいだったので、学校の成績もほとんどが3段階評価の真ん中の『できる』ばかり。算数と体育だけが『よくできる』でした」

小学6年生になると月2回のサッカーでは物足りず、姉にならってバレーボールをするようになり、サッカーがない日の平日はほとんどバレーボールを楽しんだ。加えて、サッカーも「あまりに練習量が少ないから」と近所のYMCAに加入。大阪SCとは別に、毎週末は1日だけYMCAで練習をするようになった。

「大阪SCは月2回しか練習がなかったし、知事杯や大阪市の大会に出場しても1回戦負けがほとんどでしたが、個人的にはエースでキャプテンだったので気持ち良くサッカーはできていました(笑)。当時はとにかく足が速かったのと、キック力があったので、裏にポ〜ンと蹴ってもらい、それに合わせて走り込んでゴールを取るみたいなタイプ。蹴るより先に走り出すとオフサイドになるからと、いつも味方が蹴るまではじっと立っていて、蹴った瞬間に走り出しシュートまで持ち込んでいました。そんな中、週末だけYMCAの練習に行くようになったら、周りがみんな軽々と足先でのリフティングをしていたんです。僕は片足が精一杯だったのに両足で、です。それが悔しくて、初めてめちゃリフティングの練習をしたのを覚えています。思えば、僕のサッカー人生で一番負けず嫌いっぷりが出た時期でした(笑)」

大阪スポーツマンクラブではエースでキャプテン。
「サッカーが楽しくてたまらなかった」。

サッカーをする機会こそ少なかったものの『サッカー』の面白さに魅了されていた橋本は、中学進学にあたってもプレー続行を希望。阪南中学への進学にあたり、同校にサッカー部がないと知ると、兄が所属していた釜本FCの練習に参加し、加入を決める。その数ヶ月後、Jリーグ発足にあわせて釜本FCがガンバ大阪の下部組織になることが決まったため、92年、橋本はガンバ大阪ジュニアユースの一員になった。

「練習会に参加した時から同期のフジ(藤原将平)には圧倒的な差を感じていたんですけど、いざ、ジュニアユースに加入してみたらイナ(稲本潤一/SC相模原)がいて『こいつは何者や?』と(笑)。イナ以外にも、僕より遥かに技術のある選手ばかりで、部員も中学1年だけで100人くらいいたんです。なので、やっていける気が全くせず、すぐに『やめたい』と思っていました。実際、同じように感じた選手は多かったようで1ヶ月後にはあっという間に50人くらいに減ったんですけど、その中には大阪府トレセンや関西選抜、大阪府選抜に選ばれているような子がゴロゴロいましたからね。小学生の時は弱小チームながら『文句を言う側』だった僕が急に『文句を言われる側』になって心が折れ、『負けず嫌い』という感覚もなくなって逃げに走りました(笑)。ただ、サッカーは好きだったし、ガンバをやめたらサッカーができなくなると思っていたので、少しでも練習に行く回数を減らそうと、親に行けと言われていた塾に週2回、通うことにしました」
実際、Cチームでも試合に出られないような毎日の中で「初めて自分にスイッチが入った」と振り返るのは、ある選手の噂を耳にしてからだ。彼と同じCチームには、橋本以上に練習を休んでいた選手がいたのだが、ある時、友だちが耳打ちしてきたという。
「あいつはサッカーがうまいから、練習を休んでいても試合に使われるらしい」
それを聞いた途端、封印していた『負けず嫌い』が再燃したのだろう。橋本は、それまで以上に1つ1つの練習に真摯に向き合うようになる。あるトレーニングを10回と求められれば、必ずそれ以上の回数をこなし、他の選手が適当にこなしている練習にも真面目に取り組んだ。

「塾には相変わらず通っていたんですけど、練習中はそれまで以上に集中して1つ1つのトレーニングに向き合っていたら、Cチームながら点を取れるようになったんです。もちろんCチームの相手だから強くはないし、僕が途中出場するタイミングでは相手も疲れていたのもあったんですけど、スピードを生かした『裏ポン』がハマり点を取れていた。そしたらCチームの先発になり、Bチームの先発になり、と少しずつ序列が上がって、1年の終わりには中1のAチームの控えくらいにまで格上げされたんです。そしたら、そこには同学年の巧い選手がたくさんいましたからね。また彼らに触発されて少し巧くなるみたいな。と言っても、同学年でもっと巧かった奴はすでに中学3年チームに駆り出されていたのでそいつらに近づけたというような感覚を持てたことは一切なかったです。それでも、3年生になり、中学1年の時に苦労をともにした仲間と一緒に試合に出れたのはすごく嬉しかったし、ユース時代を含めてもガンバアカデミーで唯一、楽しくプレーできた時間でした」

中学3年生の卒業式。
天王寺高校の進学にあたっては高校サッカー選手権にも憧れたがガンバ大阪ユースを選択した。

■ 大学進学の手段だと考えていたサッカー。マリーシアを武器に、プロの道を切り拓く。

中学3年生でともにボールを蹴った仲間20人とともにユースチームには昇格したものの、外部から新井場徹や町中大輔ら、関西選抜などでも活躍していた選手が加わったチームはさらにレベルアップ。橋本は再び、周りの巧さに圧倒されて「やめたいな」と思いながら毎日を過ごす。高校1年生になると同時に通い始めた英語の塾は、コーチに「ちゃんと練習にこい」と声をかけられたことから6月にはやめたものの「気持ちは決して前向きではなかった」と振り返る。

「サッカーは変わらずに好きでしたが、あまりに周りのレベルが高くて、いつも気持ち的にしんどいな〜って思っていました。それもあって週末の試合を終えると、よく長居公園の近くにあった原っぱに立ち寄り、社会人の人が遊びでやっている試合に混ぜてもらっていたんです。そこなら、自分のプレーに対して誰からも文句を言われないし、やりたいように気持ちよくサッカーができたから。しかも、ガンバユースだと周りが巧すぎて自分の成長を実感できることはまずなかったのに、そこでは自分が巧くなっていることを実感できるんです。それでまた『巧くなっているし、もう少し頑張ろう』と思い直してガンバの練習に行く、という繰り返しでした。中学生になって周りとの差をはっきりと自覚した時から僕の目標は「人に特技を聞かれた時に『サッカーです』って言えるくらいサッカーを巧くなること」だったので、それを実感できる場所があったのは救いでした」

事実、ガンバアカデミーでの6年間、橋本は一度も『プロサッカー選手』になる自分を想像したことがない。サッカーを巧くなる先に描いていたのも『大学への進学』で、サッカーはあくまでそのための手段だと考えていた。
「大学は、関西なら最低でも『関関同立』か、あわよくば早稲田か筑波大学に行きたいな、と。しかも、どうせなら楽して入れたらいいなと思っていましたからね。僕らが3年生になるタイミングで開催が予定されていた地元・大阪での『なみはや国体』に大阪府代表として出場し、大学受験の推薦をもらうことを目指していました」
だが、結果的にその目標のおかげで、ユースチームでの3年間、橋本は、レベルの高い仲間との差を感じながらも、サッカーから遠ざかることなくプレーできたのかもしれない。高校1年の時はFW、2年の時はサイドハーフ、3年の時はトップ下とポジションを変える中で自ら見つけ出した生きる術、マリーシアを武器にしながら、だ。
「思えば、幼少の頃からゲームや友だちとの遊びの中でも『駆け引き』には面白さを感じていたんですけど、それはサッカーも同じだったんです。要は、すごい選手の中で自分が結果を残すにはどうすればいいのかを考えた時に、真っ向勝負では絶対に勝てないからこそ、それを逆手に取ったというか。自分が、自分が、と思っている選手ってプレーも強引だから、少々難しい体勢、状況でもシュートを打つんですよね。僕と2トップを組んでいたフジも然りで、だからエースだったと思うんですけど。ただ、そうなるとGKにぶつけたり、止められたりすることも多々あり…でも、シュート自体は強烈だから相手GKは必ずこぼすんです。なので、僕はそのこぼれ球をつついてゴールを決めようと思っていました。他にも当時のガンバの選手はみんなが自分で点を取ることばかり考えていたからこそ、僕はあえてフリーランニングで相手を引きつける役に徹するとか。そうしたところで、みんな自分で決めたい選手ばかりだから僕にボールがくることはまずないんですけど、相手がそれに気づき始めたら僕へのマークが緩慢になるんです。その状況でこぼれ球を狙いに行けば点が取れる。そんな風に、自分が巧くないことを逆手にとったプレーというか、ずる賢さ…いわゆるマリーシアは当時から備えていたように思います」
当時、橋本がよく参考にしたのがヴェルディ川崎(現東京ヴェルディ)の武田修宏だ。華やかにゴールを奪う三浦知良(横浜FC)とは対照的に、その三浦の存在を生かしながら虎視眈々とゴールを狙う武田の姿からは多くを学んだと言う。
そうして存在感は地味ながら『結果』を残し続けたからだろう。高校3年生の夏、橋本は当時の監督だった西村昭宏(高知ユナイテッドSC監督)からトップチーム昇格への昇格を打診される。高校2年生時に昇格した稲本や、高校3年生の4月に昇格した新井場とはレベルの差を自覚していただけに、寝耳に水の話だったが「上がれるのならチャレンジしてみたいです」と思いを告げた。

稲本潤一や新井場徹らハイレベルの仲間に刺激を
受けて成長を続けたガンバユース時代の仲間と。

「ただ、プロになっても大学には行こうと思っていました。高校も進学校で、クラスメイトも大学に行くのが当たり前という感じだったし、両親にもプロにいくなら大学に行かないとダメだと言われていたからです。それで学校の先生に相談したら、指定校推薦で同志社大学への進学を勧められたんですけど、万博の練習場から京都の大学に通うのは無理があると思い、他の大学を探している中で大阪市立大学に行き着きました。市大は、センター試験で基準となる点数を取れば、一芸で経済学部に入学できる一芸入試の制度があったから。結果、その一芸の部分は念願の国体メンバーに選ばれたことでクリアできたので、無事合格し、プロとしてのキャリアもスタートすることができました」

ガンバユースでは『マリーシア』を武器に
サイドハーフやトップ下でプレーした。

■ プロになって定着した『ボランチ』は、ポジショニングを武器にすることから始まった。

ここまでの話ですでに気づかれた方も多いはずだが、実は冒頭に書いた橋本の代名詞の1つ『ボランチ』は、プロになってから確立されたものだ。しかも、同ポジションに定着したのはプロになって約5年の時が過ぎてから。それまでは、トップチーム昇格のきっかけになったサイドハーフをはじめ、左右ウイングバックなど、『穴埋め』的にポジションを変えながらプレーしていた。
「ユース時代もそうでしたが、周りに巧い選手がたくさんいる中で自分の実力を考えれば、そういうものだろうなと割り切っていました」
と言っても、プロデビューは彼自身が想像したよりも早く、プロ2年目に訪れた。99年のナビスコカップ(現ルヴァンカップ)1回戦、川崎フロンターレ戦だ。その理由は意外なものだった。
「4-5-1の右の上がり目で先発して1ゴールを決めたんですけど、当時のアントネッティ監督には試合後に言われました。『サテライトチームでわずか5〜6人で練習をしている時に、他の選手は俺に挨拶もせず、目も合わせようとしなかったのに、お前だけは顔をあわせるたびにきちんと挨拶をし、コミュニケーションをとろうとしたから使った』と。残念ながら、プレーでの評価ではなかったようです(笑)」
それもあってか、カップ戦の直後のJ1リーグ戦には2試合、途中出場で起用されたものの、以降は再びサテライトチームに逆戻り。それでもプロデビューをできた事実は刺激にもなり、かつ、その時期、トップチームのコーチをしていた堀井美晴の言葉がヒントになって、彼はプロの世界で生き抜く術を見出していく。
「ある日、サテライトの練習を見てくれていた堀井さんに聞かれたんです。『お前の特徴はなんだ?』って。『プロレベルで突き抜けた足の速さを備えているわけではないし、体も細いし、ヘディングも強くない。シュート力もそこそこだし、ドリブルも大した威力がない。じゃあ何がある?』と。その時に答えあぐねていたら『ポジショニングという武器はどうだ?』と言われたんです。要は自分がここにいればチームがうまく回るとか、このポジションを取ることで自分の弱点も消せる、というような戦術眼を磨いて、的確なポジショニングをとれるようになれば武器になるぞと言ってもらい、それだ、と。そこからひたすら自分の足りないところは周りに声をかけて助けてもらうとか、自分が不得手な状況に追いやられないようにポジションを取るとか、ポジショニングを意識してプレーしていたら、ピッチでも必要とされることが増え、それが『ボランチ』でのプレーに繋がっていきました」
そうしてボランチに定着をしたのは、西野朗(タイ代表監督)がガンバの監督に就任した02年以降だ。
同年は控えに回ることも多く、途中出場が続いたものの、短い時間でも存在感を示すことで彼は常に16人のメンバーに入り続ける。その中では疲労骨折に見舞われたり、遠藤保仁(ガンバ大阪)とのダブルボランチで先発に定着した03年も右肩の脱臼、手術というアクシデントに見舞われたが、戦列を離れている間にも、ゲームの流れを読んだり、動きをイメージすることで『ポジショニング』に磨きをかけたからだろう。次第にガンバの攻撃サッカーを成立させる上では不可欠な存在に。その証拠に06年に明神智和や加地亮ら日本代表クラスの選手が加わっても、トップ下やサイドバックなどにポジションを変えながらピッチに立ち続け、キャリアで培ってきたユーティリティな能力を武器に活躍を見せた。
そのプレーがイビチャ・オシム日本代表監督の目にとまったのは07年だ。以来、日本代表としては09年までその一員として戦いながら、チームでも08年のAFCアジアチャンピオンズリーグ制覇や、クラブワールドカップへの出場、世間に衝撃を与えた準決勝、マンチェスター・ユナイテッド戦での1ゴール1アシストの活躍など華々しいキャリアを積み上げていく。
と言っても本人曰く「自分の才能に対する信頼が低かった」からだろう。どれだけキャリアを積んでも大きな夢を描くことはなく、どんな状況をも『当たり前』に感じたことはなかった言う。

「試合に出ないまま引退していく選手も見てきたし、選手としても能力が高いとは思っていなかったので、試合に出始めるようになっても常に堅実な目標を描いていました。プロデビューを実現したら次は『5試合出場』を目指し、それができたら次は20試合、というように。コンスタントに試合に絡めるようになってからは『30歳までプレーしよう』と考えるようになり、日本代表になったら『35歳まで頑張れるかもな』と。12年にガンバを離れて以降、移籍を繰り返す中でも常にそういった目先の目標を1つずつクリアしてきて、気づいたら40歳になっていました」

そう言って笑う彼は昨年、6つ目の所属チーム、FC今治で初のJFLを戦い、クラブの第一目標だったJ3リーグ昇格に貢献。思えば34歳でセレッソ大阪に移籍した15年は『37歳』を、38歳で東京Vに移籍した17年には『40歳』を目標にしていたが、今年はそれをも上回る41歳でJリーグ復帰を果たす。その挑戦はどこまで続くのだろうか。

「家族のことを考えればどこかで区切りを、とは思いますが、できることなら死ぬまで現役でいたい。やっぱり、サッカーはプレーするのが一番楽しいから」

幼稚園の頃にサッカーに出会って約35年。その過程において、繰り返し周りのレベルの高さに圧倒され、逃げたくなった時にも彼を思いとどまらせてきた『サッカーの楽しさ』は、今も橋本を夢中にさせている。

<PROFILE>
橋本英郎(はしもと・ひでお)
1979年5月21日生まれ。173センチ、68キロ。
大阪府出身。大阪スポーツマンクラブでサッカーを始める。中、高校生時代をガンバアカデミーで過ごし、98年にトップチームに昇格。同時に大阪市立大学への進学を決め大学生Jリーガーになる。様々なポジションをこなしながら02年頃からボランチに定着。遠藤保仁とのダブルボランチで存在感を発揮しながら05年のJ1初制覇をはじめ、08年のACL制覇など数々のタイトルに貢献した。11年にガンバを離れて以降は、ヴィッセル神戸、セレッソ大阪、東京ヴェルディと渡り歩き、19年からFC今治に所属。日本代表、国際Aマッチ15試合出場。

text by Misa Takamura

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