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Vol.12 京都サンガF.C./DF森脇良太

  • 2020.04.20

    Vol.12 京都サンガF.C./DF森脇良太

みんな、昔はサッカー少年だった

© KYOTO.P.S.

『サッカー』の面白さに衝撃を受けたのは小学2年生のとき。以来、たくさんの『衝撃』と出会ってきたが、負けず嫌いの性格にも支えられ、真っ向から立ち向かい、乗り越えてきた。その繰り返しの中で育んだ自信は、今も揺るぎないものとして森脇良太に備わっている。

■ 小学生の時はFWとして活躍。夢中になったキング・カズ。

小学2年生の時、家の前の道路で兄とボールを蹴っていたら、仲が良かった近所の6年生に声をかけられた。
「一緒にサッカーをやろうよ」
その足で幕山サッカー教室の練習に参加してみたら、体に電気が走るような、ものすごい衝撃を受けた。
「なんて楽しいスポーツなんだ!」
家に帰っても衝撃はおさまらず、夜には両親に頼んだと言う。
「サッカーをやらせて欲しい」
その際、父親に言われた言葉をしかと受け止めて、森脇のサッカー人生は始まった。
「親父が会社の野球チームに所属していた影響で子供の頃はよく親父の野球を観に行きました。ピッチャーだった親父とのキャッチボールで親父の投げる球を受けるのが楽しくて仕方がなかった。でも、その野球とも違う楽しさというか、恋をした時の『ビビビとくる』という表現がぴったりな感覚をサッカーに覚え、親父に気持ちを伝えたら『やるからには全力を尽くして、最後までやり通せ。生半可な気持ちでやるんじゃないぞ』と背中を押してくれました」
当時のポジションはFW。小学2年生の時にはJリーグが開幕し、地元・広島県にもサンフレッチェ広島が誕生したが、森脇が夢中になったのはヴェルディ川崎(現東京ヴェルディ)。華々しく活躍するカズ(三浦知良/横浜FC)の姿に憧れた。
「カズさんのやることをいつも真似していて、カズダンスも家で1日に100回以上は踊っていました。当時の僕はFWや中盤、トップ下などでプレーしていて、いつも周りには『俺にボールをくれ!』と要求していました。大人になってその時のチームメイトと集まると『モリにボールを預けたら必ずゴールを取ってくれたよな』って言ってもらえるくらい、今では考えられない信頼を集めていました(笑)」
貪欲な『ゴール』への欲を支えたのは負けず嫌いな性格だ。幼少の頃から運動神経は良かったが、サッカーやマラソン、徒競走や球技まで、なんでも一番にならなければ気が済まなかった。と同時に、巧くなることにも貪欲だったが、それを後押ししてくれたのは父親の存在だ。森脇がサッカーを始めると同時に、野球好きだった父親はすぐにサッカー雑誌を読み漁り、いろんなことを教えてくれた。
「サッカーを始めたばかりの頃、試合で相手選手にボールを奪われた後に他の選手に守備を任せて歩いていたら家に帰って親父に怒られたんです。『ボールを奪われたなら、DFラインに下がってでも自分で取り返せ。味方に迷惑をかけたのに、ちんたら歩いているんじゃない!』と。そんな風に親父はいつもいろんなアドバイスをくれました。チームでの練習がない日にはよく兄貴と3人で公園に行き、雑誌に載っていた練習をした記憶もあります。子供ながらにそんな親父の気持ちが嬉しくて、いつもその気持ちに応えたいと思っていました」

幕山サッカー教室で
サッカーを始めたばかりの9歳の頃。

点取り屋だった森脇が当時、熱心に取り組んでいた自主トレは3つ。シュート練習と、高く上げたボールをトラップする練習、そして、目標物を決めてボールを蹴る練習だ。10メートルの距離から始めて目標物に10回、ボールを当てられたら距離を伸ばすということを繰り返しながら『蹴る』技術を磨いた。
そんな風に練習を重ねた甲斐もあり、森脇少年はいつしか、中国地区代表としてナショナルトレセンにも顔を出すようになる。その中である日、トレセンで一緒になった広島のスタッフから「うちのアカデミーでプレーしないか」と声をかけられたそうだ。当時の広島は『本家』と呼ばれたサンフレッチェ広島ジュニアユースだけではなく、みろくの里ジュニアユース、びんごジュニアユースと3チームを擁しており、当初は森脇も最強と知られた『本家』でのプレーを希望したが、最終的にはクラブから「3チームとも同じ指導方針で、同じサッカーをしているので、移動時間も考慮してチームを選んで貰えば大丈夫です」と聞き、びんごのセレクションを受け、合格した。

小学生時代は、チームの中心選手として
FWやトップ下など点取り屋として活躍した。

とはいえ3チームの力関係で言えば、『本家』、みろくの里、びんごの順だったことから、胸には常に「びんごで1番にならなくちゃユースチームには昇格できない」という思いを秘めていた。ユースチームへの昇格は、ジュニアユース以上に狭き門だと自覚していたからだ。だが、今となっては「びんごだからこそ、ハングリー精神がより掻き立てられたのかもしれない」と森脇は言う。と同時に、アカデミーチームに属したことで、『プロになりたい』という思いも明確になった。
「小学生の時と同様に、いつも『自分がゴールを決めてやる』と思ってプレーしていました。チームとしてだけではなく個人としても『絶対に負けたくない』という気持ちは誰よりも強かったと思います。当時はチームに言われてサッカーノートをつけていて、日々、自分の良かったプレー、悪かったプレーを書き留めつつ、監督に『こうした方がいい』と言われたことは集中的に取り組んだし、逆に良かったプレーもより磨こうと力を入れて練習しました。その頃の僕はとにかくサンフレッチェの一員としてプレーすることが嬉しくて、プロになることだけを考えていました」

■ 『インターセプト』によって守備の面白さに開眼。

そんな思いが実り、02年にはびんごから唯一、ユースチーム昇格を果たしたが、実は昇格には頭を悩ませたと言う。きっかけはクラブスタッフから言われた一言だ。
「ユースではディフェンダーにコンバートするかもしれません。その方がプロになれる確率が高いんじゃないかと考えています」
兼ねてから点を取ることにサッカーの楽しさを見出していた森脇にはショッキングな言葉だったのだろう。一時はFWとして勝負できる強豪高校でのプレーも考えたそうだ。だが、その思いをぶつけた森山佳郎ユースチーム監督に言われた言葉が彼を思いとどまらせた。
「高校サッカー特有の厳しい指導にも少し憧れがあるとゴリさん(森山監督)に伝えたら『プロのアカデミーは施設や環境も揃っているし、何より自分の頑張り次第ではトップチームの練習に参加するなど、よりプロを意識してプレーできる。それにお前をまだDFにすると決めたわけじゃない。FWでもやっていけると自分で証明したらいいんじゃないか』と言ってもらい、その言葉に納得してユースに入ることを決めました。といっても、いざ昇格したら同級生はもちろん、先輩選手も衝撃の強さ、うまさで、そんな考えはすぐに吹き飛び、練習初日から挫折を味わいました」
結果的に、周りのレベルの高さを実感し「FWとしてプレーしていくのは難しいかも」と感じたことや、昇格前にポジション転向を覚悟していたこともあってだろう。高校1年の夏以降から守備的なポジションをすることが増え、高校2年生で右サイドバックに定着しても、その事実はすんなり受け入れられたそうだ。というより、サイドバックをやり始めて1ヶ月くらい経った頃に成功した『インターセプト』が森脇の概念を覆した。
「ポジション転向を受け入れながらも、最初は自分からアクションを起こせる攻撃の方が楽しいと思っていたのですが、ある時、相手の狙っていた縦パスを見極めて、インターセプトを成功させた時に、その快感がヤバくて(笑)。小学2年生でサッカーを始めた時に近い衝撃を覚え、そこから守備の楽しさにハマっていきました。あまりにインターセプトを狙いすぎて逆に自分の裏を狙われることも多く、よく監督に怒られたけど(笑)」
ただし、それが本物の楽しさに変わったのは、もう少しあと、高校3年生になってからだ。2年生の時は周りの巧さに引っ張られるばかりで、自分の存在価値を感じられなかったが、3年生になると一転。6月に二種登録選手としてヤマザキナビスコカップ(現ルヴァンカップ)に出場したことや、同じポジションでトップチームで活躍していた駒野友一(FC今治)らプロ選手のプレーを間近にみることで、よりダイナミックに自分のプレーを表現できるようになった。
そんな風に守備の楽しさを見出しただけではなく、人間性やメンタル面に大きな刺激を受けたのもユース時代だ。特に親元を離れての寮生活は、親のありがたみや人として大事なことを学ぶ時間になった。
「たまに地元に帰りたいと思うこともあったけど、毎日、遠征気分でみんなとワイワイ、サッカーをして、寮に帰っても仲間と過ごす毎日は楽しくて仕方がなかった。寮生活には決まりごとも多かったですが、それによって協調性や仲間を思いやる気持ちを育めたし、当時の寮長、寮母さんにはたくさん怒られましたが、いろんなことを教えてもらいました」
当時の森脇を思い出し、懐かしい話を聞かせてくれたのは同期の高柳一誠(沖縄SV)だ。「モリはとにかく…アホでした(笑)!」と愛情たっぷりに切り出した高柳は、懐かしいエピソードを聞かせてくれた。
「自分も含めてバカばっかりやってました(笑)。ただ、誰もがサッカーに対しては真面目で、巧くなりたいという気持ちは強かったです。中でもモリはムードメーカーで、試合だけでなく、寮内でも存在感があり、先輩後輩に関係なく同じ目線で人と接することができる人間でした。ただ…本当に勉強は出来ませんでした!(高柳)」
その言葉に、森脇が呼応する。
「自慢じゃないけど勉強は…ものすごくできませんでした(笑)。ユースには、学校のテストで1科目でも赤点(35点以下)をとったら一週間の練習停止で勉強に専念する、か、坊主になる、というルールがあったんです。でも1週間もサッカーを休んだら完全にみんなに置いていかれるという危機感から、必ず坊主を選んでいました。女の子にもモテたい時期だったので苦渋の選択でした(笑)。しばらくしていい感じで髪の毛が伸びてくるんですけど、また試験の時期になり、結果、赤点をとって坊主になるという繰り返しで…。ただ、大人になって思うのは…これは今の子供たちへのアドバイスですけど勉強はした方がいいと思います! 僕は8:2の割合でサッカーに偏っていましたが、大人になったらサッカー以外にも考えなければいけないことはたくさんあるから勉強はしていた方が絶対にいいと思うようになりました。…って説得力がないか(笑)」

■ 恩師と慕う名将との出会い。そして移籍。

念願のトップチーム昇格を告げられたのは3年生の終わり、Jユースカップ前だ。同級生の高萩洋次郎は高校3年生ですでにトップチームに昇格していたことや同期の前田俊介や高柳は昇格を当確視されていたことから、他の進路を薦められることも覚悟していたが、面談では昇格を告げられる。その場で両親に電話をかけ、一緒に喜びを分かち合った。

サンフレッチェ広島びんごJYからは同学年では
唯一、ユース、トップチームに昇格した。

「絶対に、プロとして成功してみせる。サンフレッチェで活躍してみせる!」
だが、意気揚々と飛び込んだプロの世界は、決して甘くはなかった。というより、あまりのレベルの高さに気後れした森脇は「本当にプロの世界でやっていけるのか」という不安に苛まれ、日に日に自信を失っていった。
「1年目の僕は明らかに自信がなさそうにプレーしていたと思います。サッカーで一番大事な『楽しむ心』も薄れ、正直、練習場に行くのが怖いという感覚もあって『今日もミスしなければいいけど…』とネガティブな気持ちばかり膨らんでいました。だから1年目の終わりに、強化の方から愛媛FCへの期限付き移籍を告げられても、悔しさはあった反面、受け入れるしかなかった自分がいました。強化部長には『正直、今の良太にとって同じポジションの駒野は大きな壁だ。だから今は少しでも試合に絡めそうな環境でプレーして自分を磨く方が良太にとってもサンフレッチェにとってもプラスになる。ポジティブな決断だと考えて欲しい』と言われましたが “片道切符”になることも覚悟していました。ただ、気持ちはすぐに切り替わり『愛媛で絶対に結果を残して、見返してやるんだ』とも思っていました」
結果的に06年から在籍した愛媛ではJ2リーグの開幕戦からレギュラーに定着。翌年もコンスタントにピッチに立ち、試合経験を積み上げる。サッカーを取り巻く環境は広島とは大きく変わり、練習場を転々とする毎日で「ロッカー代わりにしていた車はいつもスパイクの匂いが充満していた」と笑う。だが、ピッチに立って勝つ喜び、負ける悔しさ、それに伴うサポーターの喜怒哀楽を肌身で感じた経験から学ぶことも多く、森脇は精神的にも大きく成長を見せた。
いや、それをより実感したのは、08年に広島に復帰してからだろう。現に森脇はプロ1年目とは違い、自信を持ってピッチに立てている自分を実感する。加えて、大きかったのはこのシーズンから監督に就任し、森脇のサンフレッチェ復帰を求めてくれたペドロヴィッチ監督(現コンサドーレ札幌監督)との出会いだ。その教えはどれも刺激的で、森脇の成長を促した。
「ミシャ(ペドロヴィッチ監督)は僕のサッカー人生、サッカー感を大きく変えてくれました。それまではDFというポジション柄、いつもミスを恐れてプレーしていましたが、ミシャからは『サッカーはミスをするスポーツだ。ミスを恐れずにチャレンジしてこそサッカーだ』と学び、思い切ったプレーができるようになった。実際、ミシャはチャレンジをしたミスには絶対に怒らなかったし、むしろ『ブラボー!ブラボー!』と選手を鼓舞してくれました。それによってサッカーの価値観が大きく変わり、プレーの幅も広がったし、メキメキと上達していく手応えもありました」
そうした個人的な手応えはチーム力にも比例し、08年のJ2リーグではぶっちぎりの優勝でJ1昇格を決めると、J1リーグに復帰してからも流れを継続。09年のJ1リーグでは4位となり、AFCチャンピオンズリーグ(ACL)への出場権も獲得するなど結果を残す。その後、ペドロヴィッチ体制は11年で終焉を迎えたが、12年のクラブ史上初のJ1リーグ制覇はペドロヴィッチ監督によるチーム力の構築がベースになった。
だが、その広島のJ1初制覇を「最高の喜びだった」と語った森脇は翌年、浦和レッズへの移籍を決断する。中学生の時から在籍し、一時は「生涯サンフレッチェ」を考えていたほどクラブへの愛着は深かったが、それと同じくらい、ペドロヴィッチ監督への思いも強かった。
「12年にJリーグ初制覇を実現できたことで気持ちに踏ん切りがついたところもありますが、何より、自分のサッカー感を変えてくれたミシャと一緒にタイトルを獲りたい、恩返しをしたいという思いも強くて。なおかつ愛媛での経験から、環境を変えることでより自分のプレーの幅、サッカー感が広がるかもしれないという思いも重なって移籍を決断しました。生まれて初めて顔中に吹き出物ができたくらい、考えに考えた末に出した答えでした」
その決断によって、浦和の一員となった森脇はそこから広島でのプロ生活を上回る7シーズンを過ごす。その間には15年の1stステージ優勝を皮切りに、16年のルヴァンカップや17年のACLの制覇など、いくつものタイトルを手にしたが、何よりも印象に残っているのはサポーターの存在だ。真っ赤に染まる埼玉スタジアムは最後まで森脇に『幸せ』を与え続けてくれた。
「ミシャの素晴らしさを証明するためにもタイトルをたくさん獲りたいと思っていただけに、もっとタイトルを獲りたかったというのが本音です。でも、毎試合、本当に素晴らしい熱を持ったサポーターの声援を受け、歴史あるレッズでプレーできる幸せを感じ続けることができた7年間はたまらなく幸せで、誇りに思える時間でした」
その浦和を離れ、プロ16年目のシーズンを迎えた今年、森脇は新たな活躍の場にJ2クラブの京都サンガF.C.を選んだ。正直、浦和から契約満了を告げられてすぐの頃は、自身の仲介人に「J1クラブでやりたい」という思いを伝えていたが、最終的にはどこよりも早く正式なオファーをくれた京都に気持ちが動いた。
「新しいスタジアムでのお披露目の年に、その一員として戦えることに、今からワクワクが止まりません! サンガでプレーさせてもらえる大きな喜びと感謝の想いでいっぱいです!!」
昨年末の12月19日にクラブから出されたリリースからも森脇の胸の内が伺える。そして、そのワクワクは、移籍の発表から4ヶ月が過ぎた今も色あせておらず、森脇は新たなキャリアを心から楽しんでいる。と言っても、それは小学2年生の時にサッカーに出会った時の『ワクワク』とは違うはずだ。事実、34歳になった今、その心には当時とは違う強い芯も備わっている。
「未来は、自分で勝ち取っていくもの」
強く言い切ったその言葉に、サッカーを「楽しむ」ことに留まらない覚悟を見た。

<PROFILE>
森脇良太(もりわき・りょうた)
1986年4月6日生まれ。広島県福山市出身。
幕山サッカー教室でサッカーを始め、中学生になると同時にサンフレッチェ広島のアカデミー選手となる。高校2年生時に右サイドバックにコンバートされ、レギュラーに定着。仲間にも恵まれ2、3年生の時にはそれぞれユース2冠を実現している。05年にトップチームに昇格したが、06〜07年は愛媛FCに期限付き移籍。08年に再び広島に復帰し、12年のJリーグ制覇にも貢献した。13年に恩師・ペドロヴィッチ監督が率いる浦和レッズへ移籍し7シーズンを戦ったのち、今年から京都サンガF.C.に移籍した。元日本代表。

幼少期写真/森脇選手提供

text by Misa Takamura

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