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Vol.1 興国高校サッカー部監督/内野智章

  • 2019.05.20

    Vol.1 興国高校サッカー部監督/内野智章

指導者リレーコラム

全国大会への出場経験がないにもかかわらず、近年、毎年のようにJリーガーを輩出している興国高校サッカー部。06年から監督に就任した内野智章氏の育成理念や指導方法に迫ります。

■『面白いことをやりたい』が原点。

ー2006年に興国高校のサッカー部監督に就任した経緯を教えてください。

内野 僕は初芝橋本高校を卒業後、高知大学、愛媛FC(JFL)で選手としてキャリアを積んできましたが、実は中学生くらいの頃から戦術を考えることが好きで、プレーしながらメンバーやフォーメーションを勝手に想像して、ああでもない、こうでもないと頭を巡らせていました。ただ、だからと言って将来は指導者になろう、と思ったことはなかったのですが、中学生の時に大阪トレセンで同級生の稲本潤一(相模原SC)や新井場徹に出会い、現実を知ったというか。
その巧さに衝撃を受けて「彼らがプロの基準なら、僕はプロサッカー選手にはなれない」と痛感した。それもあって選手で飯を食べていけるとは思っていなかったんですけど、どうにかこうにか、当時、JFLに所属していた愛媛FCにたどり着けた、と。

ところが、いざ加入してみると、原因不明の体調不良に見舞われ…。15分くらい運動すると血圧が下がって倒れるということを繰り返していたんです。ある時は、練習中に立ちくらみがしてトイレに行き、おしっこをしたら気を失って倒れ、便器に顔面をぶつけ、その反動で後ろに倒れて血だらけになっていたこともありました。でも病院に行って検査をしても原因がわからない。というか、どこも悪くない。なのに、サッカーをすると貧血になって意識が飛んでしまう。
今になって思うと、当時はアルバイトをしながらサッカーをしていたので、生活に対する不安や、仕事とサッカーを掛け持ちしていることによる疲労などがストレスになっていたのかな、と思うんですけど。それもあって愛媛は1年で退団し、大阪に戻りました。

ー愛媛FCを退団後、監督就任まで少し時間がありますがその間は何をされていたのですか?

内野 大阪に戻ってからは、当時、関西社会人リーグに所属していた奈良の高田FCに所属してプレーしていました。
幸い、治療をしたとか、薬を飲んだわけでもないのに大阪では全く体に異変を感じることはなく…それゆえ、ストレスだったのかなと思うのですが、その高田FCのチームメイトが、興国高校の教員だったんです。で、その彼が「僕は本格的にJFLでのプレーを目指すことにしたので教員を辞めます」と。それに伴い興国に空きが出るので行きませんかと声をかけてくれた。それで、大学時代に取得した教員免許もあるしやってみるか、と、最初は非常勤講師として勤務することになりました。
ただ、サッカー部は別の方が監督をされていたし、僕自身もまだ高田FCに所属していたので、最初は時間が合えば練習を見る程度だったんです。でも僕が教員になったくらいの時期から、学校としてもサッカー部に力を入れ始めたこともあり、また僕のキャリアにも興味を持っていただいて、監督をしてもらえないかと打診を受けた。それで、06年に監督に就任しました。

グラウンドは通常のサッカーコートには満たない大きさだが、だからこそ工夫を凝らして
トレーニングを行う。

ーご自身は高校サッカーの強豪校育ちですが、指導者としても全国高校サッカー選手権への出場が第一の目標だったのでしょうか。

内野 実は、そこまでは思っていなかったです。見ての通り、うちのグラウンドは正規の大きさより小さいし、僕が就任した当初は部員も少なく、その半分以上が高校からサッカーを始めたばかりの選手でしたから。なのでチームとして強くしたい、というより「面白いことをやってやろう」という感覚の方が強かった。もちろん、いずれは『全国』を描けるようになればいいかな、くらいには思っていましたけど、当時のサッカー部の状態からすると、現実的ではありませんでした。

ー監督の言う「面白いこと」とは?

内野 簡単に言うと「他がやっていないことをやりたい」とは思っていました。そうじゃないと、興国に来てサッカーをしようとは思わないだろうな、と(笑)。それもあって、最初からドリブルなど、テクニックを磨く練習に偏っていました。ある意味、僕の高校時代とは真逆です(笑)。でも当時好きだった、ヨハン・クライフを通してオランダサッカーに興味を持ち、そこからクライフがFCバルセロナの監督になってスターチームを作るというサッカー界の流れを見ながら勉強していくと、どう考えても僕がやってきたサッカーは違うな、と(苦笑)。
それに、僕が指導者になった当時はロナウジーニョが全盛期だったことや、野洲高校が06年にセクシーフットボールと呼ばれたテクニック重視のサッカーでセンセーションを起こしたこと。クライフ率いるバルサのイニエスタやシャビの技術の高さに魅了されて、といったことがリンクして『テクニック重視の、展開力のある攻撃サッカーをしたい』という思いに行き着きました。

■技術にスポットを当てた育成理念。

ーご自身はどんなタイプの選手でしたか?

内野 一応、ドリブラーでした。同期の…プロになった79年組の選手には遠く及ばないので言うのが恥ずかしいんですが(笑)。ただ、自分がドリブラーだった分、大学時代から、ルイス・フィーゴとか、ロベルト・バッジョ、デル・ピエロといった選手のドリブルを個人的に研究していたんです。
当時、バイト代で貯めたお金でスカパー!にも加入して暇さえあればずっと海外のサッカーを見ていたし、例えば、マラドーナとフィーゴの共通点を見つけることで『ドリブル』についての独自理論を作ったりもしていた。それが、今でこそよく耳にする『二軸理論』につながるものだった…という事を後から知るんですが、要するに、かなりマニアックだったと思います。でも結果的に、そうした技術に特化してサッカーを見ていたことが、指導にも活かされました。

ー全国大会への出場はこれまで一度も実現していない一方で、テクニックを備えた選手を数多くJリーグに輩出されています。そこが育成の第一目的ですか?

内野 最近はそう言われることが増えて、校長には「全国に出場する気はないのか!」とツッコまれますが(笑)、出る気はあるんです。ただ、どちらかというと高校サッカー寄りというより、Jクラブのアカデミー的な考え方で、選手育成に重きを置いて指導に当たっているのは事実です。

ー仮に今、興国高校サッカー部の選手募集の広告を出すとしたら、何を一番の売り文句にされますか?

内野 『プロになりたいなら興国においで』ですね。もちろん、一概にプロと言ってもいろんな道があると思うんです。高校サッカー選手権で活躍してプロになる選手もいれば、Jクラブのアカデミーからプロになる選手もいる。だから、その道をどう描くか、ですよね。
例えば、中学を卒業するにあたって、その選手の目標が『全国』だとしますよね。それなら僕はまず、大阪府以外の県外の…一つ、多くても2つくらいしか強豪校がない、地方の高校を薦めます。なぜなら、大阪は本当にいい指導者が多く、どこが勝つかわからないから。
つまりライバルが多い分、全国に出場する確率も低くなってしまう、と。実際、僕はその考えから、大阪出身でありながら和歌山の初芝橋本高校を選び、県代表となって全国大会に出場しました。ただ、さっきも言ったように、今の時代、仮に全国大会に出場しなくてもプロにはなれる道はあると思うんです。でも、そのためには当然、個人の技術を磨かなければいけないし、そのためのトレーニングも必要になる。もっとも、興国に来たからと言って絶対にプロになれるとは言い切れません。ただ幸いなことに、僕は人に恵まれて、今は選手の仲介人もされている新井場さんらに助けていただいたことでJクラブの関係者とのつながりも増えましたからね。Jクラブがどういう選手を欲しているのか、どういう選手が評価されているのかという情報も頻繁に入ってくるし、それを現場にフィードバックしながら選手を育成できる。しかもうちはあくまで高体連のチームですから。Jクラブのアカデミーに所属すれば、どうしてもそのトップチームがプロになる際の第一候補だと思いますが、うちは高体連のチームだけに全Jクラブのチームを候補として考えられる。そのことも強みの1つだと思っています。

ー指導理念を教えてください。

内野 個々の技術を伸ばすことはもちろんですが、考えてプレーすることの必要性は伝えたい。それもあって、うちではいわゆる素走りのトレーニングはせずに、走らせるならドリブルリレーをするとか、ゲーム形式のトレーニングでひたすら追い込みをかけます。かつて日本代表監督だったオシムさんも「考えて走る、走りながら考える」ことの必要性を説いていて、「ただ走るだけならマラソン選手でいいだろう」みたいなこと話されていましたが、それを聞いて、僕もただ走らせることはやめました。

ドリブルに特化したスペシャルな講師を招き
トレーニングを実施する日も。

ーご自身の高校時代は、かなり走り込まれたはずですが。

内野 その通りです(笑)。もっとも、ただ走る、というのも精神論の観点から見れば全く意味がないとは思わないんです。でも、経験上、あれだけ走り込んでも3年間、持久走は遅いままだったと考えれば、どうなのかな、と。それによって身についた精神的な強さはその後の人生にも必要になるだろうけど、サッカーの技術を身につけるとか、サッカーを生涯スポーツとして楽しむ上では必要ないと思いました。

ー『生涯スポーツ』としての考え方をもう少し詳しく教えてください。

内野 うちのサッカー部は年1回、スペイン遠征を行っていて、そこで痛感したことなのですが、海外って本当にいろんな場所で、いろんな年齢の人がサッカーを楽しんでいるんです。しかもボテボテのお腹で大して動けなくても、そこそこ巧い。
これってなぜかといえば、技術があるからなんです。年をとってから鍛えて、走ることは無理でも、テクニックがあればサッカーを楽しめる。そう考えても、日本にサッカーを生涯スポーツとして根付かせるには『技術』だ、と。それがあればおじいちゃんになってもサッカーを楽しめるし、孫とボールを蹴ることもできる。
僕は大学時代に生涯スポーツ教育課程を受講していましたが、その観点から見ても、この考えは間違っていないと思っています。
それにプロサッカー選手を見ても技術で勝負してきた選手は息が長いじゃないですか?遠藤保仁選手(ガンバ大阪)や中村俊輔選手(ジュビロ磐田)もそうだし、稲本選手も未だに現役選手としてプレーしている。それも踏まえて、より技術に特化した指導に偏っていったところはあります。

■『観る』ことも指導のヒントに。

ー練習方法など、指導についての発想はどこから得ていますか?

内野 学生時代と変わらずにサッカーを観ることは大好きだし、今はジョゼップ・グラウディオラ監督が率いるマンチェスター・シティとユルゲン・クロップ監督のリヴァプール、そしてFCバルセロナの試合は全て、観ています。あとはディエゴ・シメオネも好きなのでアトレティコ・マドリーの試合も、ですね。それらをボッ〜っと見ている時に「こういう練習はどうだろう?」ってパッと閃くので、それを携帯にメモしておいて練習に落とし込むこともあります。で、今ひとつ選手の反応が良くなければやめるし、良ければ継続する、と。選手に「この練習はどうだ?」と直接尋ねることもありますけど、だいたいは空気でわかります。「集中して取り組んでいるな」とか「いまいち腑に落ちずにやっているな」とか。それによって少しずつ細部を工夫することもあります。
また、日本にスペインの指導論を持ち込んでいるスペイン・バルセロナの、エコノ・メソッド社と提携しているので、そこの指導者と意見交換をしたり、ヒントをもらうこともあるし、直接指導してもらうこともあります。

ー指導者としての将来像はありますか。

内野 いつかはJクラブの育成年代の監督をやってみたいし、その中でアヤックスのようなトップチームにつながる育成組織を確立させたいという思いはあります。プロチームの監督には興味がないというか…そのレベルでやっている選手を扱える自信はありません(笑)。
それよりも完成されていない、育成年代の選手を育てることに醍醐味を感じていますしね。と言っても、今はサッカー部の監督である前に1教員ですから。僕を引っこ抜くJクラブはなかなかいないはずなので現実的ではないと思いますよ。それに育成年代指導において、教員であることのメリットってあると思うんです。選手のサッカー以外の部分にも関われるから。懇談すれば家庭環境などもある程度は知ることができるので、そこも踏まえて育成にあたれるし、うちの学校への『入口』の部分でも自分の目で選手を見極められるし、『出口』もしっかり見届けられる。そう考えると、今の環境は育成年代の指導に理想的かなと思う自分もいます。

ーこの企画では、リレー形式で指導者の方を紹介していきます。内野監督が育成年代で面白いと感じている指導者をご紹介いただけますか。

内野 堺市で活動しているリップエースのジュニアユース監督をされている、今村康太監督を紹介します。
元ガンバ大阪の嫁坂翔太(いわてグルージャ盛岡)や元セレッソ大阪の米澤令衣(鹿児島ユナイテッド)らが所属したチームで、僕と似たような考えで選手を育てています。同級生の指導者では一番尊敬している面白い指導者なので、ぜひ話を聞いてみてください。

<PROFILE>
内野智章(うちの・ともあき)
1979年5月31日生まれ、大阪府堺市出身。
堺市立東百舌鳥中学、初芝橋本高校、高知大学を経て、当時、JFLに所属していた愛媛FCに加入。1年で退団したのち、大阪に戻り、仕事をしながら高田FCでプレーヤーを続ける。05年に興国高校の非常勤講師となり、翌年から体育教員になると同時にサッカー部監督に就任した。近年は毎年、コンスタントにJクラブに選手を送り込んでいる。

text by Misa Takamura

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