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Vol.18 東京女子体育大学サッカー部 監督/長澤忍

  • 2021.07.21

    Vol.18 東京女子体育大学サッカー部 監督/長澤忍

PASSION 彼女たちのフィールド

サッカーの街・静岡県清水市で生まれ育った少女は、決してサッカー一色の生き方を望んでいたわけではなかった。それでも、同郷の先輩に導かれるように、選手として、そして指導者としてのキャリアを積み重ねた。そんな長澤忍氏の原動力は「人のため、選手のため」という思いだ。数奇なめぐり合わせとともに、誰かの役に立ちたい一心で、人生を歩んできた。

―現在は東京女子体育大学サッカー部の監督を務めています。

長澤 大学の事務職員としての仕事をしながら、サッカー部を指導しています。午前9時から午後5時の間は仕事をしているので、その前の朝練習だとか、仕事が終わった後にナイター練習を見ています。土曜も隔週で事務の仕事があるので、それが終わってから練習をして、日曜日に試合をするサイクルです。

―今、サッカー部の監督としてのやりがいをどのように感じていますか?

長澤 学生たちの日々の成長を見られることがおもしろいです。「この子、うまくなったなあ」とか、「こんなことも考えられるようになったんだ」とか。学生たちは4年間ですごく変わりますから。うちのチームには高校からサッカーを始めた選手や、なかには大学から始めた選手もいます。でも、4年間でとことん「止める、蹴る」ということにこだわってやると上手になるし、私も見ていておもしろいです。

―東京女子体育大学の監督になるまでに、どのようなサッカー人生を歩んできたのでしょうか?

長澤 まず、私の地元は静岡県の清水市なのですが、通っていた小学校に女子のサッカーチームがあって、そのチームに小学1年のときに入ったことがきっかけでサッカーを始めました。それから、中学になってから清水FC女子という地元のクラブチームに所属しました。私が中学1年のときは2人しかいなかったんですが、中学2年になってからは下の年代の子が増えて、やっとチームとして活動できるようになったんです。

―小中学生のときから女子のチームで活動していたのですね。高校生のときはいかがでしょうか?

長澤 高校生のときは、女子サッカー部のあった清水南高校に行きました。ただ、高校3年のときの5月か6月くらいに部活を引退し、その後はまた清水FCに戻ってプレーしました。そのタイミングでユース年代の静岡県選抜が結成されて、私もそれに選ばれたんです。第1回目の全日本U-18女子サッカー選手権大会にも出て、決勝まで行きました。準優勝に終わりましたが、決勝では山岸靖代(元日本代表)さんたちがいた埼玉県選抜と対戦したんですよ。

―高校年代のトップクラスの戦いも経験しているのですね。その実績はその後のサッカー人生にもつながったのでは?

長澤 実は、高校を卒業したらサッカーを辞めようと思っていたんです。「もう、これで引退でいいかな」って。そう思っていたら、当時の指導者の方に「これで(サッカー選手を)終わりにしていいの?」と言われて……。同じ静岡県出身の先輩からも「うちに来たら」って声をかけてもらえたので、じゃあ大学に行ってサッカーを続けようかなと。それで東京女子体育大学に進み、サッカーを続けました。一応、インカレには4回出たんです。優勝はできませんでしたが、当時のうちの大学は強かったんです。

―大学時代も素晴らしい成績を収めたのですね。大学卒業後に女子サッカー選手になる希望はなかったのでしょうか?

長澤 生まれ育った地元にLリーグ(当時)の鈴与清水FCラブリーレディースがあったので、小さいころはそのチームにすごく憧れていて、Lリーガーになりたいという思いも持ってはいました。でも、大学4年間でサッカーをやってみて「自分の実力は足りない」と分かったので、その先はサッカーを続けるつもりはまったくありませんでした。特にサッカー界にも興味はありませんでした。だから、就職活動をして、卒業後はバリバリ働こうと思っていたんです。

―大学卒業後は一般企業へ就職したのですね。

長澤 高校生のときからずっとアルバイトをしていたマクドナルドに就職しました。大学4年になったくらいのときに周りの大学生が就職活動を始めたから「自分もやらなければ」と思って、バイト先でたまたま知った(マクドナルドの)会社説明会に行ってみたんです。会社のプレゼンもすごく上手で、「この会社に入りたいな」と思って試験を受けたら、とんとん拍子で内定をもらい、就職先を決めました。

―社会人となり、マクドナルドでの仕事はどうでしたか?

長澤 すごくハードでした(笑)。でも、いろいろなことを勉強させてもらいました。マクドナルドでは3年半しか働かなかったのですが、ものすごく濃い期間でした。“人を育てる”ということに優れた企業なので、そのときの経験が今、指導しているなかで生かされている実感もあります。

―社会人時代の経験が指導にもつながっているのですね。その後はどのようなプロセスを踏んでサッカー指導者になったのでしょうか?

長澤 退社後はちょっとゆっくりしようと思って、半年くらいは何もしないつもりでいました。(マクドナルド勤務の)3年半がハードだったので。それで時間ができて、夏のあるときに母校の試合が行われた神奈川県まで見に行ったんです。そしたら、母校のベンチにスタッフが誰もいない……。知り合いの選手に話しかけたら、「今、大変なんです……」と言われて。そのとき、私には時間もあったし、会社員時代からの貯金もあったので、静岡からまた東京に戻って、コーチとしてサッカー部を手伝うことにしたんです。それがきっかけで、またサッカーの世界に入りました。

―そのときは、どのような気持ちで母校のコーチを引き受けたのでしょうか?

長澤 「サッカーをしたい」とか「サッカーを教えたい」という気持ちが強かったわけではなく、ただ「困っている後輩を助けたい」「自分のいた大学のサッカー部をなんとかしたい」という思いでした。

―貯金があったとはいえ、2度目の東京での生活は大変だったのでは?

長澤 (収入となる)仕事もなかったので、家賃4万円くらいの安いところに住んでいました。冬のインカレが終わるまでの
半年くらいの期間限定で始めて、肩書きはコーチでしたが、監督のような仕事をしていました。

―コーチの立場で迎えたそのインカレの成績はどうでしたか?

長澤 関東でギリギリのところでインカレ出場を決めました。そしたら予選リーグを勝ち上がり、準決勝で大阪体育大学に勝ち、決勝で早稲田大学と対戦したんです。決勝では延長戦で負けてしまいましたが、そのときは大会史上初めて、男子の前座として国立競技場での決勝戦。私もそのとき初めて国立競技場に行きました(笑)。それが2005年のことです。

―わずかな指導期間でチームをインカレ決勝に導く偉業を果たしたのですね。

長澤 そのときは選手たちの能力がすごかったですよ。いい選手がたくさんいました。

―東京女子体育大学のコーチになるまで、サッカー指導の経験はありましたか?

長澤 それまでサッカーの指導をしたことはありませんでした。だから、自分の大学時代の経験を伝えるという感じでした。

―初めて指導する上で、大切にしたことはなんでしょうか?

長澤 なんだろう……、とにかく必死でしたので。選手たちには、余計なことを考えないでサッカーを楽しんでもらいたい。そういった思いで手助けをしていました。

―大学のコーチとしての任期を終えた後は、どのような活動をしていましたか?

長澤 1月にインカレが終わって静岡に帰ろうと思っていたら、そのタイミングで川崎フロンターレからスクールコーチとしての契約社員雇用のお話をもらったんです。すごくありがたいことだったので、そのままこちらに残って、2月から川崎フロンターレの社員として働きはじめました。

―どのような経緯で、大学のコーチからJクラブにたどり着いたのでしょうか?

長澤 再び東京に出てきて、当時は川崎フロンターレで働いていた山田薫さんという静岡の先輩から「女性のコーチを探しているから、アルバイトで来ない?」と、10月に誘っていただいたんです。それからは東京女子体育大学のコーチと並行して、川崎フロンターレのスクールで週に2、3回のアルバイトもしていました。

―川崎フロンターレでは、どのカテゴリーの指導にあたっていたのですか?

長澤 幼稚園の年長さんから小学6年までのスクールと、“ママさん”と言われるような30代、40代の世代を対象にした女子のカテゴリーです。以前にこちらの連載でも紹介されていた今井かおりさんが立ち上げたスクールです。

―指導経験のない状態で大学のコーチを務めるなか、Jリーグクラブのアカデミーで学んだことも多かったのでは?

長澤 一番に学んだのは、やはり“伝え方”ですね。小学1年や2年、あとはサッカーをやったことのないお母さんたちには、言葉をかみ砕いて表現をしたり、あらゆる例えを用いたり、すごくいろいろなことを考えて工夫しました。たとえばインサイドキックでボールを蹴れるようになるまでに、何カ月もかかりますから。

―具体的にどのような工夫をされたのですか?

長澤 何か例となるプレーを見せるときに、成功例と失敗例の2パターンを用意しました。ただ成功と失敗を明示するのではなく、「こちらとそちらでは、どちらがいいと思いますか?」と尋ねたりもしながら。川崎フロンターレでは6年くらい働かせていただき、一言で言うと、すごく楽しくて充実した期間でした。

―どのようなことに充実感を感じていたのでしょうか?

長澤 トップチームのホームゲームも毎試合のように見られるし、他の指導者の練習も見せてもらえます。特に刺激的だったのは、現在トップで活躍する三笘薫選手や田中碧選手を小学生のときに指導していた髙﨑康嗣さん(現新潟医療福祉大学サッカー部コーチ)の考え方。“止める、蹴る”にすごくこだわっていて、それは今の私の指導にも影響しています。サッカーについていろいろ学べたし、当時は川崎フロンターレが女子に力を入れていたこともあって、いろいろなイベント企画を提案することもできました。地域の女の子や、女性を対象にしたワンデークリニック、ゴールキーパークリニック、さらに個人参加のフットサルをやったり。当時も川崎フロンターレのスクールには女子がすごく多かったんです。そういったイベントの運営面についても学べました。

―大学時代を最後にサッカーの世界から離れようともしていますが、川崎フロンターレで働いた6年間でその気持ちに変化はありましたか?

長澤 そのときはサッカーの普及活動が楽しかったんです。いろいろな人と関わったり、サッカーを知らない人に教えたりできることが。そういった仕事にやりがいを感じていました。でも、「チームの監督をしたい」という思いはありませんでした。今は大学の監督を務めていますが、監督になりたくてなったというわけでもないんです。

―では、川崎フロンターレでの仕事を終えてから、どのような経緯で東京女子体育大学の監督になったのでしょうか?

長澤 2005年のインカレが終わって私がコーチを退いた後も、大学のサッカー部にはずっと指導スタッフがいなくて、選手だけで運営する状態が6年ほど続いていました。そんなとき、新体操の元オリンピック選手で、大学の教員でもあった秋山エリカ先生から「サッカー部をなんとかしてほしい」と連絡をもらって、「それならば、また見させていただきます」と。今度は大学の事務職員の仕事も用意してもらえたので、そこで決断してサッカー部に戻りました。

―東京女子体育大学のコーチではなく監督になり、どのような心持ちでしたか?

長澤 またインカレに行きたい。そのときも、そして今でも、その思いを持っています。今年で就任して10年目になりますが、ようやくサッカーをしている感じにはなってきました。

―10年目にしてようやくという実感なのですね。

長澤 今、振り返ると、まったくうまくいっていなかった。監督になったことで変に背伸びをしたり、「監督らしくしなきゃ」と、どこか無理につくろっていたなと感じていて……。自分にはトップレベルの経験も乏しいし、サッカーの知識も豊富ではありません。それをずっとコンプレックスに感じていました。だから、そのぶんすごく無理をしていました。でも、この1、2年は開き直って、「他人とは違う自分の色を出していけばいい」と思えるようになりました。できないことをできるようにするために勉強しなければいけないけれど、「できる人にやってもらう考えもあるだろう」と。選手たちもよくやってくれていて、特に次の試合に向けた相手の分析は選手同士でグループをつくって、交代で行なっています。それによって選手のサッカー脳も鍛えられるし、自主性も身につきます。自分が頑張ることともに、人のパワーをうまく使って、“頑張らせる”という方法を見つけました。

―指導者として、今後についてはどのようなビジョンを描いていますか?

長澤 もう一度、インカレの舞台に行きたい思いはあります。ただ、サッカーの仕事だけで生きていきたいという思いは、正直なところ、やはりありません。川崎フロンターレで働いていたとき、サッカーの仕事だけでお金をもらっていたことはすごく幸せでしたが、サッカーを仕事にしたいかというと、そうでもないんです。今はサッカーの監督を務めていますが、サッカーが好きなこと以上に、私は“人”が好きなんです。人のために、選手のために。その思いはいつも変わらないものです。

<プロフィール>
長澤 忍(ながさわ・しのぶ)

1979年静岡県出身。中学時代は地元の女子チームである清水FC女子に所属し、高校時代は清水南高校サッカー部に在籍。部活動を引退した後は再び清水FC女子に加わり、静岡県選抜に選ばれて第1回全日本U-18女子サッカー選手権大会で準優勝の成績を収めた。その後、東京女子体育大学に進学し、インカレ準優勝の結果も残した。大学卒業後は一般企業に就職し、退社後に母校・東京女子体育大学のコーチに就任。川崎フロンターレのスクールコーチとしても活躍し、現在は東京女子体育大学サッカー部の監督を務めている。

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