■ 東京8ブロック選抜では「全く目立たなかった」。
幼少の頃は、引っ込み思案で恥ずかしがりやだった。幼稚園の時にボールを蹴る楽しさに惹かれて東京チャンプフットボールクラブに入った時も、最初はその性格から1年近く、仲間の輪に入っていけなかったそうだ。
「幼稚園が終わった後に、ボールを蹴るという程度のことしかしていなかったけど、最初は一緒にサッカーをやりたいのに、お母さんの後ろに隠れてただ練習をみているだけでした(笑)。でも1年くらい経って、年長組になった頃にはようやく環境にも慣れ、友達の輪に入っていけるようになった。その頃は何に対しても一歩目を踏み出すのに時間がかかるというか…だから、サッカーに出会えなければ、ずっと一人で遊んでいたかも」
小学生になるタイミングでミッキーSCに加入したのは、近所に住んでいた、仲のいい従兄弟が先に加入していたから。その時も最初は引っ込み思案が顔を出したが、ひとたび仲良くなれば相手の懐にグイグイと入っていき、チームメイトとはサッカーがある日もない日も、毎日のように外で遊んだ。当時から運動神経は良く、小学校でも足の速さは長短距離ともに一番。サッカーでも目立つ存在だった。
「その頃は特にヤンチャでした。使っちゃいけない放送室に潜り込んで友達との会話を校内に流したり。サッカーでうまくいかないことがあると、すぐに人のせいにして友だちを傷つけるなど…客観的に見ても、いい子じゃなかった(笑)。チームでのポジションは、司令塔。中盤の真ん中でスピードを生かしてプレーするようなタイプでしたが、ドリブラーではなかった気がする。とにかく『蹴る』技術に自信がありました」
地元東京都大田区の選抜にも選ばれ、現在、柏レイソルに所属する瀬川祐輔らとしのぎを削ったが、「所詮、大田区どまり」と本人。東京8ブロック選抜などに枠を広げると自分の物足りなさを痛感するばかりだった。
「僕らの代のミッキーSCはブロックでは一番強かったし、その中でも僕は少し抜けた存在だったのでチヤホヤされていいたので結構いい気になっていました(笑)。大田区選抜でもそれは同じでした。でも、いざ東京8ブロック選抜に行くと、全然ダメで。同期の田鍋陵太(東京ユナイテッドFC)あたりは、すでに体が出来上がっていて足も速かったけど、僕は本当にガリガリで小さかったので、全く目立たなかった。当時から意識して食べるようしていたのに、全然大きくなれないのが悩みでした」
中学生になるにあたり、Jクラブのアカデミーでのプレーを望んでいた彼が横浜FCジュニアユースへの加入を決めたのは、先に受けていた東京ヴェルディ、横浜F・マリノス、川崎フロンターレのセレクションにことごとく落ちたからだ。それもあってFC東京のセレクションにチャレンジしようとしたものの、東京8ブロック選抜の大会と被り、断念。そんな時に友達から「カズさん(三浦知良)のいる横浜FCのセレクションがあるらしい」と噂を聞いた。
「本来、他のチームは年内でセレクションが終わっていたんですけど、横浜FCだけは06年からジュニアユースが発足することになり、同年2月にセレクションが行われたんです。でも、その段階でチームが決まっていない選手=他のどのクラブにも引っかからなかったということですから(笑)。実際、参加している子たちの顔ぶれを見ても、他のJクラブのセレクションで一緒になって決まらなかった子がほとんどで、レベルは決して高くはなかったと思います。しかも僕、セレクションはセンターバックでプレーしたんです。同じセレクションを受けていたリーダー格の子にポジションを決められてしまい、迫力に負けて言いなりでした(笑)。幸い、一期生ということもあって他のJクラブより多めに…僕らの学年だけで27人も合格したので入ることはできたけど、当時もまだガリガリで、背もいたって標準だったので、何の才能に期待されて獲得してもらえたのかは未だに謎です」
センターバックでセレクションを受けたこともあってか、横浜FCジュニアユース加入直後の川崎ジュニアユースとの練習試合もセンターバックで出場。結果的に、そのあとすぐに前線に戻れたものの、自信を持てる武器は何一つなかった。
「足元には自信があったけど、そんな選手は他にもたくさんいたし、小学生の時は学年で一番だったはずの足の速さも、中学校では10位くらいに後退してしまった。しかもチームには恐ろしい俊足の選手がいたので、全く目立たなくなってしまいました」
ましてや、1年生だけのチームだったからだろう。試合をしても、他のチームに圧倒されるばかり。特に、中学2、3年生の多いチームとの体格差、フィジカルの差は歴然で、加入して半年はJクラブと練習試合をしても、0-8、0-10で大敗することもしょっちゅうだった。
その状況から少し抜け出せたのは、1年生時の夏合宿で徹底して心身を追い込んでからだ。それによって体だけではなく気持ちの面でも自信が持てるようになり、プレーへの変化にもつながっていった。
「三浦海岸での『地獄の三浦合宿』では、徹底的にフィジカルを鍛えられました。朝5時に起きて浜辺でトレーニングをしたり、練習場までの行き来を毎日、走ったり。そのお陰で夏過ぎからめちゃめちゃ走れるようになり、年上の選手ばかりが在籍するJクラブと練習試合をしても対等に渡り合えるようになって、大敗することもなくなったら徐々に自信もついていきました。また、個人的にも中学2年生頃からようやく身長が伸び始めたことで、試合で吹っ飛ばされるようなこともなくなり、チームの中心でプレーすることが増えました」
しかも、常に上級生と公式戦を戦えるという環境も、成長に拍車をかけた。
「中学1年の時からずっと上級生を相手に試合をしているという環境は、チームとして『飛び級』を経験しているような感じですからね。公式戦の中で自分の物足りなさを感じたり、弱さを実感して鍛えられることも多かった」
となれば、3年生になったチームは強く、夏の日本クラブユース選手権(U-15)大会にも関東2位で出場。決勝トーナメントに進出するなど、躍進を見せる。それもあってユースチームにもすんなりと昇格を決めた。
■ ユース時代は成長とともにスピードが備わり、ドリブルが武器に。
ユースチーム時代は体が大きくなるにつれて、スピードが備わるようになり、サイドMFやFWですることが増えた。武器になったのは今の彼にもつながる『ドリブル』だ。
「中学生の時もドリブルが武器でしたが、相手を交わす、剥がすのが精一杯だったんです。でも、高校生になってスピードが出始めると、相手を抜き去るドリブルが出来るようになりました。高校1〜2年時の浮嶋敏監督(現湘南ベルマーレ監督)には常に縦に突破する意識を持てと言われていましたしね。その時に育んだプレースタイルが今の自分のベースになっている気がします」
余談だが、体の成長を支えたことの1つとして、小野瀬は当時のクラブ環境にも感謝していると話す。ユース時代は特に、クラブのメインスポンサーの株式会社LEOCが学校や病院給食や企業の食堂などの管理・運営を行う企業だったことに助けられ、食環境が整えられたことは、体の発育にも拍車をかけた。
「トップチームは朝、昼、晩と三食を食べられる環境が整っていたし、ユースチームも練習後は、おかず中心のお弁当が提供されていました。白飯は別で炊かれていて、各自がタッパーを持参して、自分でよそって食べる、みたいな。僕は体が小さく、“マッチ棒”と呼ばれるくらいだったので(笑)、『大きなタッパーを持ってこい』と言われ、それに目一杯ご飯を盛られて、食べ終わるまで帰れないという毎日が続きました。でもそのおかげで、身長も伸び、体重も増えてピッチでも目に入るものが多くなり、できるプレーが増えたことでよりサッカーが楽しくなっていきました」
そうした個の成長が認められ、高校2年生の時にはトップチームの練習や練習試合にも参加。順調に「プロ」が近づいていると思われたが、その矢先、小野瀬は理由も告げられずにBチームに降格させられてしまう。しばらくは浮嶋監督にも口を効いてもらえず「完全にフテっていました」と小野瀬。しかも、どれだけBチームで活躍しても状況は変わらず、それどころか浮嶋監督には「そういうことじゃないんだよね」だと突き放されてしまう。だが、そのおかげで初めて彼は自分に何が足りないのかに思い当たったそうだ。Bチーム降格から実に3ヶ月が過ぎていた。
「簡単に言うと、トップチームの練習に参加して調子に乗っていました。練習にもギリギリに行って、最初に帰ったり、時にはユースの練習をサボったり。『俺はもうプロになれるから』的に、勘違いした態度をとっていた。そんな僕を見て浮嶋さんも『このままだとトップに上がっても通用しない』と思って厳しく接してくれたんだと思います。それに気づくまでに時間はかかりましたが、その過程でいろんなことを考え、恵まれた環境でプレーできるありがたみや周りへの感謝の気持ちを持てるようになったと考えれば、自分には必要な時間だったと思います」
また、3年生時には中学時代に3年間コーチとして彼を見てきた重田征紀が監督に就任。結果的に夏にはトップチームの二種登録選手となったため、ユースでは多くの時間を一緒に過ごすことはなかったが「なんでも話せる、兄貴みたいな人」との時間はメンタル面での支えになった。
その二種登録選手時代は、途中出場ながらJ2リーグ3試合に出場。12年には念願のトップチーム昇格を決める。
「小学校や中学校、高校と自分より間違いなく巧かったり、注目されていた選手を追い抜いたり、その人たちと同じ舞台でプレーできるようになったことでどんどん自信が膨らんでいったことが結果的に昇格につながったのかも。また、3年生の時にはU-18日本代表にも選んでもらったりして、同世代のスーパーな選手とプレーする経験を出来たことで自分も『もっと、もっと』と上を目指せたのも大きかった」
その中で、彼のプロ2年目、12年3月に監督に就任した山口素弘との出会いは、彼のサッカー感、プレーにたくさんの刺激を与えた。武器としてきた『ドリブル』に、怖さを備えたいと思うようになったのもこの頃だ。
「ユースの時に浮嶋監督に『相手からボールを失わない持ち方』を学び、その上で『抜き去るドリブル』を意識するようにはなったものの、モトさんには『それをもっと相手が怖がる場所でやれるようにならないとプロの世界では通用しない』と言われたんです。しかも僕の『ボールを失わない持ち方、受け方』ってある意味、セーフティさが先に来ていて、相手に脅威にならない、と。要するに、ファーストタッチで相手を抜くとか、ファーストタッチでシュートを打つところに持って行くわけじゃないから、それをしているうちは結果も出ないと教えてもらいました。当時、モトさんに言われた『プロは結果が全て。結果を出すためのプレーの選択を考えろ』という言葉は今でも自分の胸にあります」
山口監督によって、コンスタントに試合に起用されることも増える中で、新たな欲が芽生え始めたのは精神的にも余裕が持てるようになった3年目くらいからだ。本音を言えば「自分に対してはまだそこまでの手応えを感じていなかった」そうだが、同世代でJ1に出場している選手の存在が刺激になり、また、先輩選手のプロフェッショナルイズムに触れながらサッカーへの意識が変わり始めたことで、17年にはレノファ山口への移籍を決断した。
「プロ3年目頃から、早くJ1でプレーしたいという思いが強くなり、すでにJ1で活躍していた同世代のことも刺激に…というか嫉妬を覚えるような感覚で見ていました(笑)。そんな時に山口に声をかけていただいて、僕のプレースタイルが生きそうな、面白いサッカーをしていたこともあって『ここなら、もっと個人的な結果を残せるかも知れない』と考えた。ただ、アカデミー時代から育ててもらった横浜FCには大きな恩を感じていたので、めちゃめちゃ悩みました。モトさんには『前線の選手は結果が全てだ』と言われながら鍛えてもらい、1日中サッカーのことを考えて過ごしているカズさんにはプロとは何かを学び、『サッカーに賭ける』という本当の意味を理解できるようにもなって、いい子にもなれて(笑)…すごく充実した時間を過ごせたので人生で一番悩んだけど、最後はチャレンジしたいという気持ちが勝り、移籍を決めました」
■ 結果を残すことで念願の『J1クラブ』、ガンバ大阪へ移籍。
山口では1年目からJ2リーグ開幕戦から先発のピッチに立ち、以降もコンスタントに出場。だがチームは思うように勝ちを重ねられず、残留争いに巻き込まれながら苦しいシーズンを送る。その状況を乗り越え「プロになって最も充実感を覚えた」と話すのが2年目だ。17年に新監督に就任した霜田正浩氏のもとで信頼をつかんだ彼は、開幕からゴールを挙げるなど躍動を見せ、それに並行してチームも9戦負けなしの勢いを示す。シーズンの半分を終えた21節時点での順位は2位。小野瀬もその時点でキャリアハイの8得点を挙げていた。
そんな彼にガンバ大阪からオファーが届いたのは7月中旬だ。山口への移籍を決断した時から、24歳という年齢も踏まえて『1年で、チームか個人でJ1リーグに昇格する』という目標を描いていたからだろう。それが叶わなかった中で、「J1の、ビッグクラブであるガンバからオファーがきたのに、移籍しないという選択をする方が難しかった」と移籍を決断する。その際、霜田監督に掛けられた言葉は今でも彼の宝物だ。
「山口の監督としての立場で言うなら、首根っこを掴んででも残ってもらいたい。でもお前の人生だから、どっちを選んでも正解だ」
そうして初めてのJ1リーグの舞台に挑んだ小野瀬は、合流すぐの8月5日、20節・名古屋グランパス戦でデビューを飾ると、25節・川崎フロンターレ戦に始まった破竹の『9連勝』も全て先発出場で攻撃を加速させる。その中では30節、横浜FM戦でJ1初ゴールを刻み「やっと決められた」と笑顔を見せた。
その存在感から、新たな背番号『8』を背負った昨年も横浜FMとの開幕戦から先発出場。開始わずか1分でゴールを刻むと、2節の清水エスパルス戦でもゴールを決めるなど、本人が自身に課していた『結果』を残すことでレギュラーに定着。ケガで離脱していた時期を除いて全30試合に絡みながら輝きを増し、チーム2位タイとなる7得点を挙げる。その活躍を受け、シーズン終了後には、同年のJ1王者、横浜FMからオファーが届いたが、悩んだ末に小野瀬の出した答えは『ガンバ残留』だった。
「正直、最初は行こうと思う気持ちもありました。マリノスはチャンピオンチームで、今年のACLの戦いを映像で見ていても『すごくいいチームだな』とも思います。でもガンバからは、クラブ、チーム、チームメイト、サポーターと本当にみんなから僕を必要としてくれる気持ちが伝わってきたし、僕がずっと目指してきた『J1での活躍』というチャンスを与えてくれたのはガンバなので。その恩に対して、今度こそ『結果』で返したいと思ったというか。これまでのサッカー人生を振り返ると、すべて自分で決断してきたこととはいえ、横浜FCでは育ててもらった恩を『J1昇格』で返せなかったし、山口でもそれは同じだったからこそ、ガンバでは恩を結果で返したいと思いました。であればこそ今はとにかく、このガンバで、僕を必要としれくれた人たちと一緒にしっかり戦って最後は笑ってシーズンを終えるのが目標です。そのためには何でも、どのポジションでもいいから、とにかく自分の持っているものをすべて注ぎ込んでガンバのために戦い、勝ちたいと思っています」
そのために、自分には『二桁得点』という目標を課している。かつて学んだように、この世界は『結果』が全てで、それ以上に説得力を持つものはないと考えているからだ。であればこそ、今も自分の全てを注ぎ込み、『サッカーに賭ける』毎日を過ごしている。その先に、仲間とともにピッチで『タイトル』を掴む瞬間を描きながら。
<PROFILE>
小野瀬康介(おのせ・こうすけ)
1993年4月22日生。東京都大田区出身。176センチ、65キロ。
東京チャンプFC、ミッキーSCを経て、中学生時に横浜FCジュニアユースに加入。09年にユースチームに昇格し、二種登録選手となった3年生の時にJリーグデビューを果たした。トップチーム昇格を果たした12年以降は山口素弘ら、指導者との出会いも力にしながら徐々に試合数を増やしていたが、17年にはレノファ山口への完全移籍を決断。18年には霜田正浩監督との出会いもあり、25試合で10得点を挙げる活躍を見せていたものの、ガンバ大阪からのオファーを受け、シーズン途中に完全移籍を実現した。
text by Misa Takamura