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キャリアで培った矜持。『気持ち』を含めて言葉に変える。

ガンバ大阪通訳・小野優<br>キャリアで培った矜持。『気持ち』を含めて言葉に変える。

  • 2023.09.29

    ガンバ大阪通訳・小野優
    キャリアで培った矜持。『気持ち』を含めて言葉に変える。

J.LEAGUE PRESS

高村美砂●取材・文 text by Takamura Misa
photo by @GAMBA OSAKA

 今シーズン、歓喜の輪の中に彼の姿を見た人はきっと多いはずだ。
 小野優。通称、パディ。
 イッサム・ジェバリやネタ・ラヴィの通訳として今シーズン、ガンバ大阪に加入した彼は、ほとんどの場合、ゴールが決まった瞬間に勢いよくベンチを飛び出し、その輪に加わって喜びを爆発させている。

「意識的ではないんです。嬉しいことは嬉しいし、悲しいことは悲しいし、悔しいことは悔しい。感情のまま生きてきた人間なので、それが行動に出ちゃっているんだと思います。でもこの喜怒哀楽の感情って勝負の世界ではすごく大事というか…共に働くスタッフや選手ら仲間に対しても、応援してくれる方たちに対しても、感情を曝け出さないと伝わらないことはきっとある。だからこそ…言葉を仕事にしている僕がいうのもなんですが、ボディランゲージはすごく大事だと思っています」

仕事とは冷静に向き合いつつ感情豊かに。その熱さもチームの力に。

13歳で初めての海外移住。刺激的な少年時代を過ごす。

 小野の仕事について話をする前に、というよりは、通訳としての彼の姿を正しく伝えるために、まずはその人生を辿ってみる。
 彼が初めて『海外』に触れたのは、13歳のとき。貿易関係の仕事に就いていた父親の海外移住がきっかけだ。初めて家族で海外に移り住んだその場所は、共産党政権が崩壊して間もないチェコスロバキア連邦共和国(注:のちにチェコ共和国とスロバキア共和国に分離。以下、スロバキアと表記)。現地の学校に転入してスロバキア語と英語を覚えた。

「3歳上の姉のように高校生になっていたら…もしかしたら友達も固定しつつある年頃ということもあり、環境への順応も難しかったかもしれないけど、僕はまだ13歳でしたから。『友達が隣町に転校します!』『そうなんだ、元気でね!』くらいの感覚で、あまり引っ越しを重く捉えていなかった気がします」

 もっとも移り住んだ先が旧共産圏だったこともあり、さまざまなカルチャーショックには見舞われた。

「全てが揃っている日本で育っただけに、ある意味、逆カルチャーショックですね。日本はカラーテレビだったのにスロバキアでは白黒だとか、真空管のテレビはスイッチをオンにしても30秒〜1分くらい待たないと絵が出てこない、とか(笑)。物価はすごく安いのに、コーラが父の飲む生ビール1杯より高かったことにびっくりした記憶もあります。ちょうど僕たち家族が移住する半年前に隣国のベルリンの壁が崩壊したりと…今になって振り返ると生活を含めて貴重で、刺激的な経験をたくさんした少年時代でした」

『言葉』は、同じ年頃の友達と遊びたい一心で覚えた。とはいえ、高校進学に際しては「細かい表現をより正確にマスターしないと授業についていけない」と、まずは現地の国立大学の外国人留学生向けの語学学校で1年間、スロバキア語を学んだ。

「僕たち姉弟を含めて7人ほどのクラスで、僕ら以外は全員、旧共産圏の東側ブロックから来ていたアンゴラ、ギニア、モザンビークなどからの国賓留学生でした。そのあと現地の高校に入学したら、全校生徒の中で僕が唯一の外国人でした」

 英語を学んだのもこの学生時代。もっとも、スロバキア語とは違い、独学で、だ。父親が読み終わった雑誌『Newsweek』と『National Geographic』をもらって、辞書を片手に貪るようにページをめくった。

「元々、僕は子供の頃から世界地図や他国の文化について調べるのが好きだったんです。知らないことを知るのが楽しくて、わからない単語はすぐに辞書で調べながら読んでいました。実はその性格は今の仕事にもすごく活かされているところで…例えば今年、ガンバで通訳の仕事をすると決まった時も…いや正確には、そういう話があるかもしれない、となり、しかもチュニジア人のイッサム・ジェバリ、イスラエル人のネタ・ラヴィと聞いた時点で、両国の歴史やイスラム教とユダヤ教の宗教的な背景まで調べ倒して『これは色々と気を揉む案件になりそうだぞ』『難しいけど、僕にしかできない仕事かも知れない』と勝手に妄想していました(笑)」

「生きていくために」武器の言葉を活かして通訳になる。

 現地の高校を卒業した小野は、現地の大学に入学。英語とドイツ語を専攻しながら新たな学びを得るはずだったが、面白さを感じられなくなり、わずか1年で退学してしまう。それが、通訳の仕事を始めたきっかけだ。

「翻訳・通訳者なることを目指してというよりは『生きていくには仕事をしなきゃいけない。自分にある武器で何の仕事ができるだろう』と必要に迫られて仕事に就きました」

 最初は父親の仕事を手伝うところから始まって、日本のメディアがスロバキアを訪れた際の取材対応や、原子力関係の施設を日本人エキスパートが視察にきた際の通訳など、頼まれたことはなんでも引き受けたと聞く。

「専門的な知識を必要とする難しい通訳を頼まれても、面白そう! という好奇心で引き受けていました。違う世界を見ることが自分の糧になると思っていたし、若さゆえの勢いもあったと思います。今ほど言葉の重みや通訳としての難しさを感じていなかったというのは正直なところですが、裏を返せば、怖いもの知らずだったからその時期を乗り越えられたのかもしれない。そういう意味では、通訳という仕事の本当の難しさに気づくのはサッカー界で仕事をするようになってからでした」

 その後、家族が01年9月に帰国したタイミングで、小野は大学で学び直すためにモスクワに移住。大学附属の語学学校でロシア語を習得した上で大学内定を得たが、02年の入学を前に諸事情から進学を諦めざるを得なくなり、帰国を決める。

「元ガンバの稲本潤一選手(南葛SC)が決勝ゴールを決めた日韓ワールドカップの『日本対ロシア』戦は、ロシア人にまみれてモスクワで観ました。試合中から雲行きが怪しくなって街で暴動が起き、身を隠すように逃げたのを覚えています(笑)」

サッカー界での仕事は04年から。人生の師にも出会う。

 帰国後、しばらくはフリーランスで通訳をしていた小野に初めてサッカー界から話が舞い込んだのは04年だ。ある日突然、ベガルタ仙台の強化担当者から連絡を受け、スロバキア人選手の通訳を打診された。

「僕自身は友達との草サッカーレベルでしかボールを蹴ったことはなかったのですが、スロバキアにいた時からサッカーを観るのは好きだったんです。また、スポーツ界という新たなジャンルからオファーをいただけたのもすごく嬉しくて、迷いなく引き受けました。ただ当時は、試合前日と当日のみの依頼だったため、東京に住みながら試合に合わせてチームに合流して仕事をして帰る、という感じでした」

 残念ながら仙台での仕事は、選手の契約満了とともに半年で終わりを告げたが、そこでの時間が人脈の広がりを生み、小野は05年途中にヴィッセル神戸の通訳に就任する。スチュアート・バクスター監督との出会いが「サッカー通訳としての今の自分を作ってくれた」と振り返った。

「着任した当初はチェコ人監督とアシスタントコーチ、チェコ人選手の5人の通訳をしていたのですが、その年でほぼ全員が契約満了になり、06年は唯一、契約が残っていたホルヴィ選手の通訳として残留することになったんです。そこにスチュアートの監督就任が決まり、英語の通訳が必要になった中で僕に白羽の矢が立ちました。それが、サッカー界での英語通訳としての初めての仕事です。この時に人生の師でもあるスチュアートという素晴らしい人格者と出会い、学べたことは本当にラッキーでした。彼は喜怒哀楽があって、温かく、人心掌握に長けた人。彼との出会いによって通訳者としてのあり方、振る舞い、熱の伝え方などはもちろん、人としても多くを学びました」

 そのヴィッセルでの約2年がサッカー通訳者としてのベースを築いた時間なら、一旦はサッカー界を離れた後、14年に再びサッカー界に戻るきっかけをくれた2度目のベガルタ仙台での半年間はその難しさを痛感した時間になった。

「当時のサッカー界では今ほど英語通訳が必要とされていなかったので一旦はサッカー界を離れ、フリーランスとして製薬会社のワクチン開発のプロジェクトチームの通訳や、政府関係の外交に携わる通訳、チェコ代表がキリンカップで来日した際のリエゾンなどの仕事をしていました。そしたら14年に再び仙台が声を掛けてくださって。グラハム・アーノルド監督(現オーストラリア代表監督)の英語通訳の仕事でした。ただ結果的にカップ戦を含めて8試合くらい白星がなく早々に退任することになってしまって。そのことは未だに悔いが残っています。僕が以前にサッカー界で仕事をしていた時からいろんなことがアップデートされていたのに、自分自身の伝え方、仕事との向き合い方はアップデートされていなかったという反省もあるし、監督とスタッフ、選手をうまく繋ぐこともできなかった。今の自分ならもっとできることがあったのにと思うことだらけです。ただ、その経験によって『人間は学び続けなければいけない』『言葉も人も、時が過ぎれば変化する』といった、通訳人生の教訓ともいうべき様々な学びを得られたことは今、ガンバで仕事をする上でもすごく活きています」

「選手を過保護にしない、させない、でも距離をとり過ぎない」ことを心掛けて仕事にあたる。

一旦は一般企業に就職も、今年から再びサッカー界へ。

 2度目のベガルタ仙台を契約満了になった後、14年半ばからV・ファーレン長崎で1年間、15年半ばから横浜FCで1年半通訳を務めたが、その後、小野は通訳者としての仕事に距離を置き、一般企業に就職する。そんな彼にガンバから通訳の話が舞い込んだのは昨年末だ。

「17年に結婚したこともあり、安定を求めて英語を要する企業に就職しました。ただ、近年は日本のサッカー界も英語を使うポジションが増えている現状もあり、縁があれば戻りたかったというか。純粋にサッカーが好きで、サッカー界の仕事に魅力を感じていたし、何より、基本的に人と交わるのがすごく好きだからこそ、デスクワークより人と真正面から向き合える業界で仕事をしたいと思い始めていました。そんな時にヴィッセル時代の元同僚だった和田昌裕さんから『まだ仮の話だけど、英語通訳を探している。興味はないか?』と連絡をいただいて。ガンバを強くすることへの熱意をすごく感じたし、こんなビッグクラブで仕事をできるチャンスはそうそうないな、と。ましてやかつての戦友である和田さんからのお話だったので、その場で『僕の気持ちとしては、すぐにでもお受けしたいです』と伝えました。ただ、妻にだけは相談したいので、少し時間が欲しいと言って電話を切りました」

 もっとも家族の説得に時間は要さなかった。電話を切ってすぐに、妻にガンバからの話を伝えたところ、二つ返事で「いいんじゃない!」「じゃあ返事します!」となったそうだ。

「45歳を過ぎて、残りの人生のキャリアプランを考えたときにどこかでリスクを背負わないと人生を変えられないな、と。ただ、妻は快く背中を押してくれたとはいえ家族を幸せにするためにも、サッカー界に戻るなら骨を埋めるくらいの覚悟を決めようとは思っていました」

 正式なオファーが届いたのは、ジェバリの獲得が確定した直後だ。それに伴い、小野はすぐに会社に辞表を出し、その2ヶ月後、晴れてガンバの一員になった。

「契約の世界は一筋縄にはいかないので、仮に話がまとまらなくても仕方ないと思っていたらオファーをいただき、結果的にはネタの獲得も決まって、二人の通訳をすることになりました。僕なりに、二人の国の背景や宗教的なことも踏まえて起きうる事態を想像していろんな準備をしていましたが、結果的にはどれも必要なかったです。彼らは二人とも人間的に素晴らしく、互いへのリスペクトを持っていますし、今では唯一無二の親友といっても過言ではないほど信頼しあっている。考えてみたら、僕はこれまでのキャリアにおいて、自分への物足りなさは感じても、一緒に仕事をさせてもらった監督や選手には苦労したことがないというか。常に、素晴らしい人間性を持った人たちと仕事をさせてもらってきましたが、それは今も同じです。ジェバリ、ネタはもちろん、素晴らしいスタッフ、選手に囲まれて仕事ができている。そのことには常に感謝していますし、だからこそ僕も真摯に仕事に向き合わなければいけないと思っています」

自身が発する言葉に120%の責任を持って。

 今、再びサッカー界で通訳者として仕事をする上で大事にしていることは2つある。言葉の奥に見え隠れする『気持ち』を訳すことと、自分が発する言葉に120%の責任を持つことだ。

「世の中には僕より能力のある翻訳・通訳者はたくさんいらっしゃいます。でも、選手の言葉の奥にある思い、感情を汲み取って伝えることでは絶対に誰にも負けたくない。またこれはサッカー界の仕事に限らずですが、20年以上この仕事をしていても自分の訳には一度も自信を持ったことはないですが、常に自分が発する言葉には120%の責任を持つと決めています」

 そういえば、外国籍選手の取材に際してコミュニケーションを図る中で、小野はよく「選手のことを考えると、僕はいない方がいいんです」という話をする。それもまた経験によって備えた矜持なのだろうか。

「こんなことを言うと自分の仕事がなくなるかも知れないですけど(笑)、本当は通訳って必要とされない方がいいと思うんです。人種に関係なく、人と人は膝を突き合わせて想いを伝え合う方がいいに決まっている。それに…必要な時は必ず助けるし、夜中でも飛んで駆けつけますが、選手とはある程度の距離を保っておかないと、環境に慣れて時間が経つほど通訳がストレスになってしまうと思うんです。だからこそ過保護にしない、させない、でも距離をとり過ぎないで仕事をしよう、と。そこは最初に選手たちに伝えています。だからプライベートも、来日当初こそ必要なことは教えましたが、今では彼らも日本に慣れて、ほとんどのことを自分たちで調べて行動していますよ。今の時代は、携帯電話という便利なツールもあるのでそれも使ってちゃんと楽しんでいます」

 更にはもう1つ。今回、7年ぶりにサッカー界に舞い戻る上で、敢えて自身にリマインドしていることがあるそうだ。

「若い選手にしてみたら47歳の僕はもうお父さんに近い年齢ですから(笑)。僕が『この信念は曲げません!』的な態度だと若い選手との間に壁ができてしまう。そのことが外国籍選手との溝になることだけは絶対にあってはならないからこそ、どれだけ馬鹿になれるかは心掛けています。だからTikTokの撮影に求められれば出ますし、楽しいことは一緒になって楽しみます。それが僕という人間の自己紹介になると考えても、構えたくない。もちろん、そんな僕のことを鬱陶しいな〜と思っている人もいるかも知れないですが、これだけの大所帯で全員がお互いを好きでいることなんて不可能ですから。それに、そういった好き嫌いを超えて僕たちはチームで、仲間で、1つの目標に向かって結果を求めるガンバという家族なので。僕自身は自分を曝け出すことで互いの距離を縮められたらいいなと思っています」

 そして、ガンバ。彼にとっては5つ目のJクラブでの仕事に小野の中には、過去とはまた違った特別な感情が生まれているという。

「ガンバはプロフェッショナルな雰囲気にもアットホームな温かさがあるクラブ。素晴らしいスタッフ、選手と同じエンブレムを身につけて仕事をしていることを誇りに思いますし、ここでの仕事に楽しさを感じています。僕自身もいろんな経験をしてきたからかもしれませんが、何よりガンバというクラブだからこそ感じられている喜びもたくさんあって、とても充実しています。だからこそ僕も…毎試合、あれだけたくさんの熱を与えて続けてくれているサポーターの皆さんに負けないように、自分の情熱をガンバに注いで、ここでたくさんの喜びを共有したい。そのために仕事にも全身全霊で向き合います」

 外国籍選手の『心』に寄り添いながら、自身に芽生えるさまざまな感情のままに。スロバキアで友達につけてもらった愛称、『パディ』通訳は、外国籍選手とチームとの架け橋として伝えることに120%の責任を持ち、ガンバの勝利のために熱く戦う。「いつでも歓喜の輪に向かって走り出せるように」と日々、密かに筋トレを続けていることは、ここだけの話に。

幼少期からの豊かな人生経験は、仕事をする上でも大いに役立っていると聞く。

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