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Vol.11 名古屋グランパス/DF中谷進之介

  • 2020.03.20

    Vol.11 名古屋グランパス/DF中谷進之介

みんな、昔はサッカー少年だった

『喜びも、悔しさも力にしながら、常に真摯に。』

柏レイソルU-12のセレクションに合格したことで、サッカー熱が大きく動いた。現在の主戦場である『センターバック』でプレーするようになったのは小学6年生のとき。以来、同じアカデミー選手に多くの刺激を受けながらプロを目指すようになり、夢を実現した。と言っても、そのキャリアの全てが思い通りに進んだわけではない。U-15日本代表を機に常に世代別代表に選ばれながら世界大会を一度も経験していないのもその1つだ。だが、それも今となっては中谷の武器だ。悔しさと引き換えに手に入れた成長への欲は、今も彼をギラつかせている。

■ 子供の頃は「公園で泥団子を作っている方が楽しかった」。

幼少の頃から2歳上の兄のあとをついてまわった。遊ぶのも、いつも兄と一緒。サッカーもその延長線上にあった。
「幼稚園のサッカークラブで兄がサッカーをやっていたので、僕も小さい頃からよく一緒にボールを蹴っていました。たまに、兄の友達の影響で野球も一緒にやっていたけど、小学生になるタイミングでどちらかに決めようということになり、兄と同じサッカーを選んで間野台SCに加入しました。でも、最初はそこまで熱心じゃなかったかも。その頃はまだ公園の砂場で泥団子を作っている方が断然、楽しかった(笑)」

幼少の頃はサッカーよりも
砂場で泥だんごを作ることに夢中になった。

小学1年生の時にワールドカップ日韓大会が開催。日本中がサッカーに湧き上がる中、中谷のサッカー熱もやや上昇したが、試合をきちんと観戦した記憶はなく、どちらかというと「断片的に楽しんでいただけ」だと振り返る。印象に残っているのは日本代表がグループリーグ初戦で戦ったベルギー戦。ビハインドを追いかける展開の中、59分にFW鈴木隆行が決めた『つま先』での同点ゴールに憧れた。
「ワールドカップの盛り上がりに乗っかって楽しんでいた程度でしたが、鈴木隆行さんのつま先でチョンと触ったゴールに憧れてよく真似をしました。と言っても、その頃はまだ大してサッカーも巧くなかったし、サッカーにどっぷりという感じでもなかった」
当時から運動神経はよく、スポーツなら何をやらせても卒なくこなした。足も速く、小学5年生くらいまでは学年でも常に一番。水泳や書道など、サッカー以外のいろんな習い事にも通った。
サッカー熱に少し変化が見られたのは、小学4年生時に柏レイソルU-12に加入してからだ。当時はJリーグについての知識はほぼなく、柏レイソルというチーム名すら知らなかったが、友だちに誘われて同級生5人でセレクションを受けたら中谷だけが合格した。
「その頃、知っていたのは横浜Fマリノスと鹿島アントラーズくらい。レイソルと言われても全くピンとこなかったんですけど、『誘われたし、行ってみよう!』と受けたら3次まで進んで受かっちゃいました。その頃はFWから少しポジションが下がって、右サイドハーフをしていたので、レイソルでも最初は右サイドハーフをしていた記憶があります」
加入したレイソルでは「最初はカルチャーショック級の衝撃を受けた」そうだ。 “お山の大将”でいられた間野台SCとは違い、周りの選手のレベルの高さに圧倒され、自分が見ていた世界がどれだけ小さかったのかを思い知らされる毎日が続く。ポジションも更に後ろへと下がり小学6年生時にはセンターバックを預かるようになっていた。

柏レイソルジュニアには小学4年生で加入。
友だちとセレクションに参加し合格した。

「ポジションが下がっていくことは嫌じゃなかったというか…そこしかプレーできるところがない感じだったし、単純にサッカーが出来ればいいという感じで前向きに取り組めていました。詳しくは覚えていないけど、その頃から映像でもよくサッカーを観るようになり、誰かにもらったFCバルセロナのビデオを繰り返し観ていた記憶があります」
憧れたのは、カルレス・プジョル、ジョン・テリー、アレッサンドロ・ネスタ、パオロ・マルディーニら。全員がセンターバックだということにも新たに任されたポジションに意欲的に取り組んでいた姿が想像できる。
加えて、この当時、刺激を受けたのは同じアカデミーに所属するユースチームの選手たちの存在だ。中谷の6歳上の酒井宏樹(オリンピック・マルセイユ)や工藤壮人、島川俊郎(大分トリニータ)ら、のちに9選手がプロのキャリアを切り拓いた『黄金世代』が活躍する姿に憧れを抱いた。
「当時はユースからジュニアまでレイソルアカデミーとして同じサッカーを目指していたので、僕たちもよく『ユースチームのサッカーを手本にしなさい』と言われてプレーを見ていました。しかも、ユースの選手はみんなすごく優しかったので、僕らはめちゃめちゃ懐いていたんです(笑)。僕も、もともとがお兄ちゃん子だったからか、年上の選手が大好きで、同じポジションのシマさん(島川)にいつもくっついていました。クラブハウスで開かれていたユース向けの栄養講習会を、シマさんの隣に座って一緒に受けたり、スパイクを買いに行くのにもついてきてもらったり。シマさんもすごく可愛がってくれました」
ポゼッションサッカーをする上で常にポジショニングを意識しながら考えてプレーすることを覚え始めたのもこの時期だ。それによって体が小さくても、出来るプレーが増えていくことでサッカーの楽しさも広がりをみせた。といっても、実は中谷は小学6年生の時に、一度、Bチームに逆戻り。全日本少年サッカー大会の千葉県予選も柏レイソルU-12・Bとして出場している。それもあって一時は「U-15に上がれないかも」と不安に駆られたが、最終的には昇格を決めた。
「僕の世代が中学生になるタイミングで、U-15が例年より多く選手を抱えることになって、なんとかU-15に昇格できました。もしそれがなかったらU-15にも上がれなかったはずだし、今の自分もいなかったと思います」

小学6年生の時にBチームに降格。一時は
ジュニアユースチーム昇格が危ぶまれたことも。

■ 柏アカデミーでは、自分に足りないものを意識しながら、心身両面で成長を続けた。

柏レイソルU-15での3年間では「今の自分に繋がるプレーのベースを鍛えられた」と振り返る。
「僕は体が小さく、身体能力に頼ってプレーすることができなかったからこそ、U-12以上にパスの精度など細かな技術を磨きながら、先のプレーをイメージしてポジショニングをしたり、プレーを選択することを学べたのはすごく大きかった」
中でも中学2年生の夏前からの約半年は、サッカー人生が大きく変わったと思える時間」を過ごす。この時期、中谷は吉田達磨ジュニアユース監督によって3年生チームに引き上げられたからだ。吉田には毎日のようにダメ出しをされたが、その時間がメンタル的にも、プレー面でも中谷を大きく成長させた。
「タツさんにはいつも『そんなプレーじゃ全然ダメだ』と指摘され、もっとももっと、と求められました。それに対して僕もうまくなりたい一心でいろんなことに前向きにトライしたし、それによって自分がググっと成長するのを実感できた。タツさんにはよく『ボールが来る前に決めておけ』と言われ…要するに判断を早くしろと言うことなんですが、そんな風に普段の練習から常に頭を使って、緊迫感をもってサッカーに向き合えた経験はプロになった今もすごく生きています」
余談だがその時期、中谷は3年生に混じってドイツ遠征にも帯同。のちにJ1リーグで対戦する世界的スーパースターとの対面も果たしている。ヴィッセル神戸に所属していたルーカス・ポドルスキ(アンタルヤスポル)だ。
「初めての海外は…正直、単純にブンデスリーガでプレーする選手を見て『こいつら、すごいな。ちょっと違うな』と思ったくらい。どちらかと言うと『ソーセージが美味しい』とか異文化に触れた経験の方が強く印象に残っています(笑)。その時に1.FCケルンの練習を見に行ったんですけど、非公開だったので見学ができなくて。せっかくだからサインをもらおうと、練習が終わるのを外で待っていたらポドルスキ選手が出てきたので、一緒に写真を撮ってもらいました。まさかそのあと、自分がプロになってJ1リーグで対戦することになるなんて想像すらしていませんでした (笑)」
そんな彼に『プロ』に対する欲が芽生え始めたのはユースチームに昇格してから。高校2年生のときだ。3年生に混じって、夏の日本クラブユースサッカー選手権(U-18)大会を勝ち抜き、クラブ史上初の優勝を実現したことがきっかけになった。
「高校2年生の1年間は中学2年のときと同じくらい自分にとって大事な時間になりました。先輩選手に揉まれながら、フィジカルやヘディングなど、ディフェンダーとして足りない部分を強くしようと取り組めたのも良かったし、クラブユースでも、それまでずっと準優勝とかベスト4止まりだったのに初めて優勝できて一歩踏み出せた感覚はあった。また、一緒に戦った3年生がプロになっていく姿を間近で見ていたことで『僕もプロでやりたい、プロになろう』って思いも強くなった」
チームとは別に、その時期、刺激にしていたのが日本代表としての活動だ。中学3年生だった11年に初めてU-15日本代表に選出されて以来、世代別代表に名を連ねるようになっていた中谷は12、13年もAFC U-16選手権などでメンバー入りを果たす。残念ながら13年に開催された『U-17ワールドカップUAE2013』を戦うU-17日本代表には選出されなかったものの、コンスタントに世界を戦う経験はより『結果』への思いを強くした。
「代表に定着するには、単にレイソルで試合に出るだけではなく、自分のパフォーマンスをチームが勝つことにつなげていかなければいけない、と思うようになった」

■ プロ1年目の14年に、J1リーグデビューを果たす。

そんな風にプレー面での成長と、それに伴う『結果』の必要性を実感しながら14年、中谷は念願のトップチームに昇格する。高校3年生の時にはキャプテンを預かっていたことやその年の7月には二種登録選手になっていたことからも、昇格はある意味、想定内のことだったが、本人はトップチームに昇格し改めてそのレベルの高さを実感したのだろう。
「冷静に自分のレベルを見てすぐに試合に出られるとは思っていなかったので、とにかく1年目はたくさん練習して経験を積もうと考えていました」
だが予想に反して、彼はプロ1年目の10月にJ1リーグデビューを果たす。相手は優勝争いの最中にあり、7連勝中のガンバ大阪。個人的にもU-19日本代表として戦ったアジア選手権の準々決勝に敗れ、U-20ワールドカップへの出場を逃した直後の一戦だったこともあり、いろんな『思い』を込めてピッチに立った。
「代表の活動を終えてチームに戻ったら、ネルシーニョ監督に呼ばれて『ガンバ戦いけるか?』と聞かれ、即答で『いけます!』と答えました。でも、試合前日は意外と眠れたから大丈夫だと思っていたのに、試合前に整列したらめちゃめちゃ緊張して…相手には日本代表クラスの選手がたくさんいて、完全にビビっていました。監督はメンタル的に選手を盛り上げるのが上手い方で『シンプルに前の選手だけを潰せ。そこだけは絶対に負けるな』と言われていたので、そこだけに集中していました。また何より日立台(日立柏サッカー場)の雰囲気に背中を押してもらえたのも力になりました。スタンドから聞こえてくる『いいぞ! ナイス!』って声を心強く感じながらプレーし、勝つこともできて、本当に嬉しかった。U-19の北朝鮮戦に勝っていたらその試合にも出れていなかったので、それを考えると複雑でしたが、いまだにガンバ戦のシチュエーションは、全て覚えているし、強く印象に残っています」 
その一戦以降、全試合に出場し、全勝でシーズンを戦い終えたプロ1年目とは対照的に、中谷に未だに苦い記憶として刻まれているのがプロ2年目だ。試合に出られなくなった現実をうまく自分の中で消化できず、悔しさと苛立ちにまみれた時間が続いた。
「1年目の終盤に試合に出れて、チームとしての結果も出せたことで自分の中では『やれる』という気持ちも大きくなっていた分、使ってもらえない現実に『なんでだよ』って気持ちばかりが膨らんで…。6月に2試合、先発出場のチャンスをもらった時も結果を出せなかったのに敢えてそこは見ないようにしていたというか。今の自分なら『結果が出せなかったんだから使われなくて当然だ』と向き合って、また頑張れたはずですけど、当時は出られないことを人のせいにして逃げちゃっていました」
もっとも、そんな風に考えられるようになったのは、その翌年、16年のことだ。プロ3年目に入り、試合に出場することが増えたことによってU-23日本代表にも再び招集されるようになった中谷だったが、最終的にはリオ五輪を戦うU-23日本代表からは漏れてしまう。皮肉にもその悔しさが自分を見直すきかっけにもなった。
「選ばれなかった時は、『なんでだよ! 選んでよ!』ってことだけで、すごく悔しかったんですけど、冷静に考えれば結局は2年目の15年に試合に出れていなかったことが全てだったと思うんです。あの時、もっと真摯に現状に向き合って、試合に出ることを自分に求めていたら、もっと早くU-23にも入っていけたかもしれないですしね。それに、今だから言えますけど、バックアップメンバーとして帯同したリオでの初戦、ナイジェリア戦でチームが4-5で負けた時に、『俺が出ていたら絶対に止められた』とは思えなかったんですよね。ということは、やっぱり当時の僕はリオに遠かったんだと思います」

■ 成長のために苦渋の決断をした、名古屋グランパスへの移籍。

そうした苦い記憶も力にしながらキャリアを積み上げてきた中で、大きな転機に直面したのは18年6月だ。再び控えに回ることが増えていた中谷に、名古屋グランパスからオファーが届く。アカデミー時代から数えると13年半在籍したクラブを離れる決断は簡単ではなかったが、悩みに悩んだ末に移籍を決めた。
「お世話になったレイソルには本当に感謝の気持ちしかなかったし、今でもレイソルは自分のキャリアを語る上で欠かせない、大事なクラブだと思っています。ただ16、17年とコンスタントに試合に使ってもらったことで、改めて試合に出続ける意味を実感できたし、だからこそ18年に出られなくなった時に、自分がこの先もう一回りも、ふた回りも成長するためには、慣れ親しんだ場所を離れて試合に出ることを求めなければいけないと考えました。またリオ五輪に出られなかったからこそ、次は日本代表だ、という思いも強かった中で、そこに選ばれる選手になるにはチームで試合に出ていなければ話にならないとも思いました」
その決意のもとに加入した18年は出場停止の1試合を除き、17試合にフル出場。さらに昨年もチームでは唯一、自身にとっても初めてのJ1フル出場を実現している。その中では、移籍に際して自分に求めた『成長』への確かな手応えも感じ取っているようだ。
「去年の途中まで一緒に仕事をした風間八宏前監督のおかげで選手として一皮も、二皮もむけた気がします。というのも風間さんって、選手が逃げたくなるところから絶対に逃げさせてくれないから。プロサッカー選手ってある意味、見たくないものを見ないようにしてプレーすることもできると思うんです。僕のプロ2年目もそうだったように。だけど、風間さんは絶対にそれを許してくれない。見ないようにしている部分に必ず気づいて、突っ込んでくる(笑)。その中で苦手なこと、目を背けたくなることに向き合う大切さを学んだし、それによって心身両面で成長できたところもすごくあった。そして何より、試合にたくさん出るという経験は間違いなく自分の財産になっていると思います」

名古屋での2シーズン目となった昨年は
チーム唯一のJ1リーグフルタイム出場を果たした。

ただし「それらの経験もすべて過程でしかない」と中谷。今はただ、キャリアの先に見据える日本代表、そして『海外』に向かって前へ、前へ。これまで味わってきた喜びや悔しさのすべてを力にして、突き進むことしか頭にない。
「もしU-19日本代表で北朝鮮戦に勝っていたらガンバ戦でのプロデビューはなかったし、僕のキャリアも今頃終わっていたかもしれない。世界大会を戦えなかった悔しさは今も確かにあって、オリンピックって聞くだけで蘇る思いもあるけど、その分、強く『世界を戦いたい』って思えている自分もいる。そう考えても味わった経験は全て自分の力になっているはずだし、この先の未来をどういうものにするのかも自分次第だと思うので。そのためにもまずはこの名古屋でしっかり結果を残し、優勝したい。それがなければ日本代表も、海外でのプレーも求められないから」
その胸に携えているのは「常に真摯に」という言葉。目の前の現実に真摯に向き合い、真面目に、一生懸命サッカーに向き合うことでしか道は拓けないと考えているからだ。
だからこそ、これからも真摯に、まっすぐに、自分らしくサッカーに向き合っていく。

<PROFILE>
中谷進之介(なかたに・しんのすけ)
1996年3月24日生。184センチ、79キロ。
千葉県出身。小学1年生の時に間野台SCに加入。小学4年生から柏レイソルアカデミーに所属する。U-18所属の高校2年生時にはクラブ史上初の日本クラブユースサッカー選手権(U-18)大会優勝に貢献。キャプテンを務めた高校3年生時には7月に二種登録選手になり、14年にトップチーム昇格を実現した。各世代別代表にはU-15から名を連ねてきたものの世界大会には縁がなく、リオ五輪もバックアップメンバーとして帯同した。18年6月に出場機会を求めて名古屋グランパスに完全移籍。昨年は自身初のJ1フル出場を実現した。

text by Misa Takamura

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