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Vol.6 U-20日本女子代表コーチ/宮本ともみ

  • 2021.01.20

    Vol.6 U-20日本女子代表コーチ/宮本ともみ

PASSION 彼女たちのフィールド

日テレ・東京ヴェルディベレーザの岩清水梓選手が2020年に出産した。現在はWEリーグ出場を目指しトレーニングをしている。岩清水梓選手が初めて日本女子代表として挑んだ世界大会はFIFA女子ワールドカップ2007中国大会だ。今から14年前のこの大会に、産休から復帰し挑んだ先駆者がいたことを、今の若いプレーヤーはご存知だろうか。先駆者の名は宮本ともみ。FIFA女子ワールドカップに3大会連続出場。2004年にアテネオリンピック出場。その間に、結婚・出産を経験し、当時、日本女子代表(なでしこジャパン)初の「子持ち代表選手」として話題になった。現在は、高田短期大学女子サッカー部監督、U-20日本女子代表コーチを務める宮本ともみ氏に、結婚・出産とキャリア選択について、お話を伺った。

ー2007なでしこリーグ 1部2部入替戦を観戦したときのことを覚えています。あの頃の伊賀FCくノ一でのプレーは大変だったと思うのですが、いかがでしたか?

宮本 私は1997年にプリマハムに入団。2000年にプリマハムがスポンサーから撤退し、プリマハムFCくノ一は伊賀FCくノ一に名称が変わり、市民クラブになりました。本当に環境がガラッと変わり、大変でした。有志の方に支えていただきチームを運営し、身を切って活動していたので、関東地方への遠征はマイクロバス。補助席も使いながら日帰りしたりしていました。万全なコンディションとは程遠かったです。

ーまず、プリマハムFCくノ一でプレーされるようになったきっかけを教えてください。

宮本 中学、高校は相模原市のクラブチームでプレーし、高校2年生のときにプリマハムFCくノ一のスカウトに声をかけていただきました。当時のプリマハムFCくノ一には中国女子代表選手(FIFA女子ワールドカップ3大会連続出場の温莉蓉選手)、カナダ女子代表選手(代表128試合出場71得点のシャーメイン・フーパー選手)、日本人も日本女子代表選手ばかり。練習に参加してレベルの高さに衝撃を受けました。そして「こんなに良い環境でサッカーをできるんだ!」と驚きました。手入れの行き届いたピッチでトレーニングし、フィジカルトレーニングをできる器具の揃ったクラブハウスもありました。仕事をせずにプロ選手のようにサッカーだけをできる環境でした。「こんなチームでプレーしたい」と思い、1997年にプリマハムFCくノ一に加入しました。いくつかのチームから声をかけていただきトレーニングに参加したのですが、その当時、日本で一番強いチームであったことと、しっかりとパスを繋ぐスタイルのサッカーだったことも加入の大きな理由です。迷いはありませんでした。
周囲は「もっと考えたほうがいいんじゃない?」「親元を離れて三重県の伊賀市に行って大丈夫?」と言われたりしました。校内放送で先生に呼び出されて「将来のことを考えたら大学に行ったほうが良い」と説得を受けたこともあります。でも、自分の中に迷いはありませんでした。私が加入した前々年の1995年にプリマハムFCくノ一はリーグ戦を全勝優勝していました。

ー宮本さんの次の選択としてご結婚(2002年23歳)があります。当時の女性アスリートにはご結婚されると引退するのが当たり前というムードがありました。宮本さんは、そのような周囲のムードを気にされましたか?

宮本 結婚に関しても自分自身では迷いがなかったのですが、周囲からは「もっと考えたほうがいいんじゃない?」と言われるようなことがよくありました。自分にはサッカーを辞める選択肢はなかったのですが「えっ? もう引退するの!?」と言われ「えっ? 別に引退しないけど」という会話をよくしていました(笑)。そのとき、周囲は「女子選手は結婚したら引退する」と思っているのだと知りました。私は、既に1999年にFIFA女子世界選手権(現在のFIFA女子ワールドカップ)アメリカ大会に参加させてもらっていたので、アメリカ女子代表やノルウェー女子代表で、お子さんがいる選手の活躍を見ていました。だから「女子選手は結婚したら引退する」という感覚がなかったのです。

ーそのような周囲の声について、ご家族はどのようにお考えでしたか?

宮本 私は夫の両親と同居でした。私の母は「嫁が(練習で)夜に家にいなくて家事をできず申し訳ない」という感じで夫の両親に謝ることもありました(笑)。でも、その時代にしては珍しく、そのような生活でも夫の両親はとても応援してくれました。それが、私がプレーを続けられた要因です。

ー2004年のアテネオリンピック予選でなでしこブームがやってきます。そして本大会に出場の後にご出産。ライフプランを組み立てていたのでしょうか?

宮本 オリンピックの出場は一生に一度あるかどうかのチャンスです。でも、2004年は結婚して3年目。そろそろ子どもが欲しいと思っていて、プレーを中断することを考えていました。伊賀FCくノ一のチームスタッフと相談したら「妊娠してプレーを中断するならともかく、まだ妊娠できるかどうかもわからないのに先に休むことを決めるのはどうか」という意見をいただきました。そこで「アテネオリンピックまでは頑張ろう」という覚悟を決めました。
アテネオリンピックでは日本女子代表(このとき「なでしこジャパン」というニックネームが命名された)の中心選手としてプレーし、メンタルもフィジカルも技術もピーク。心身共に充実して本大会に臨めました。シーズンが始まる頃は「プレーはアテネオリンピックまで」と思っていたのですが、いざ、アテネオリンピックを迎えると、自分のピークのタイミングでプレーを中断することがもったいなくなりました。でも「次(のFIFA女子ワールドカップやオリンピック)を目指すのであれば、ここが区切り」と思っていたら、すぐに妊娠。「神様が、今が産むタイミングだ」と言ってくださった運命だと思い、気持ちを切り替えて、プレーを中断することにしました。

ーアテネオリンピックでは怪我をされ途中交代でピッチを去られました。プレーを続けられなかったことが心残りで、その後、復帰されたのかと思い込んでいたのですが、そうではなかったのですね。

宮本 プレーのクオリティが落ちていたときに、妊娠、出産をしていたら「もう、このままいいかな」と思って引退していたかもしれないですが、ピークだったし、プレーが成熟していたので、出産後にピッチに戻ろうと思えたのかもしれません。でも、出産後に戻ってこられたのは「一緒にやろうよ」と言ってくれたチームメイトのおかげです。そして、1999年のFIFA女子世界選手権で宿泊したホテルで見た「ベビーカーで子どもを連れてチームメイトと一緒に食事をしていたアメリカ女子代表選手の姿」。あのカッコイイ姿が、私の脳裏に焼き付いていました。私は、出産後、トレーニングから長く離れていて、復帰には心配もあったのですが「とりあえずやってみよう」「ダメだったら、そのときやめればいい」と思えて、復帰したら意外と出来た(笑)……って、そんな簡単な話ではないのですが(笑)、周囲のサポートのおかげで頑張れました。

ー宮本さんは、ご出産後のFIFA女子ワールドカップ2007中国大会で、日本女子代表に選出されました。そのときに話題になったのは、日本サッカー協会が宮本さんのためにベビーシッターをつけるというニュースでした。経緯を教えていただけますか?

宮本 最初に代表招集のお話をいただいたとき、日本サッカー協会の女子委員長が上田栄治さんで監督が大橋浩司さんでした。最初は「子どもを置いてまでして代表合宿に行くのは難しい」というお話をさせていただきました。それから「どういう方法なら代表合宿に参加できるか」話し合いが始まりました。その結果、日本サッカー協会がベビーシッターを付けて、私を支えてくださることが決まりました。「ベビーシッターを付ける必要があるのか」いろいろな意見があったようですが、川淵三郎会長(当時)が「後押ししよう」と言ってくださったと聞いています。
私は、日本女子代表から離れていたので「本当に自分が代表合宿に行って良いのか」というのに加えて「日本のトップレベルの選手が集まる場所に子どもを連れて行って良いのか」「自分にベビーシッターを付けてもらう程の価値があるのか」……悩んだというか不安でしたね。代表キャンプ中は子どもと離れて生活して、成長する姿を間近に見られないのであれば、代表復帰は諦めて子どものそばにいようとも思ったので……。でも、大橋浩司さんが「選ぶのは俺だから」と言ってくれた。私が「価値があるのか価値がないのか」を悩むのではなく「監督が決める」と言っていただいて、チャレンジの背中を押していただいたのを覚えています。

練習中

ー確か、FIFA女子ワールドカップ2007中国大会はいろいろなチームの選手が同じホテルに宿泊していましたが、お子さんも一緒に行かれたのですか?

宮本 はい、一緒にホテルに泊まっていました。

ーでは、1999年のFIFA女子世界選手権で見た光景と同じになりましたね。宮本さんによって、8年の遅れで、日本にも実績ができたのですね。残念ながら、この大会では、日本女子代表はグループステージで敗退。その後、伊賀FCくノ一も成績が振るわず、宮本さんは東京電力女子サッカー部マリーゼに移籍されます。これも、大きな選択だったと思いますが、いかがですか?

宮本 2008プレナスなでしこリーグ1部は最下位で伊賀FCくノ一は2部に降格することになりました。そのとき、引退という選択肢はもちろんありましたが、大須賀まき監督(当時)から「高いレベルでまだまだ出来る」と移籍の道を進めていただきました。でも、「プレーを続けるのであれば夫に経済的に余計な負担をかけることなく、自力で稼いで生活していける環境であるべきだと思いました。当時の伊賀FCくノ一は自分でアルバイトして生活費を稼いでプレーする選手が多いチームでした(が、子育てしながら、それは無理だということが想像できました)。そのとき、東京電力女子サッカー部マリーゼから移籍のお話をいただき、プレーを続けることになりました。生活拠点が福島県になり(夫の生活する)三重県伊賀市から遠くなってしまいましたが、収入を得て、託児所に子どもを預けられ、昼間に練習し、夜は子供と一緒に生活できる環境になりました。子どもを連れて、遠くの福島県に行くというのが、これも周囲からびっくりされました。
自分でも「大変だろうな」と想像して行きましたが、実際は想像以上に大変でした。アスリートとして自分の食事、睡眠といったトレーニングに臨むための準備を十分には出来ませんでした。夫や両親が福島県まで来て助けてくれるときもあったのですが、普段は、親子二人の生活。自分を優先できない状況でした。子供が肺炎で入院したときは、病院で付きっきりになりました。「(一人で)子どもを育てながらトップアスリートとしてやっていくのは難しい」と感じて疲れていました。「これではトップアスリートとは言えない」「自分は、この環境にいてはいけない」という気持ちになりました。「100%でピッチに立てないのはトップアスリート失格」……最後は、そんな気持ちにまでなってしまいました。

ー東京電力女子サッカー部マリーゼは、日本の女子サッカー史を見ても、稀に見る、かなり恵まれた環境を選手に提供していたと思うのですが、それでも大変なことが多かったのですか?

宮本 そうですね。食事の面でお世話をしてくださるお店があったり、子供が病気になったとき、練習時間だけは面倒を見てくださる近所の方がいらっしゃって、周囲の人には、すごく助けていただきました。子どもをクラブハウスに連れて行って、チームスタッフに子供と遊んでもらったり……自分はこんなに人に恵まれていたのだと実感できました。ですが……それでも、トップアスリートとして自分のパフォーマンスを出せなかったことは申し訳なかったと今でも思っています。

ーお子さんがいらっしゃるアスリートへの支援で「これがあれば」というものはありますか?

宮本 私は、子供と一緒にいる方が精神的に安定するし頑張れると思えたので、一緒に福島県に行きました。(お子さんのいるアスリートは)人それぞれで要求が違うと思います。些細なことですが、私は子どものことを優先したくなるので「トレーニングをした直後に食事をする」ことすらも難しいです。睡眠も「自分が休みたい時間にきっちりと休める」ということは、まずないです。でも、(お子さんのいるアスリートの)希望は様々で、子どもと一緒にいなくても良い選手もいるだろうから、サポートも多様性が必要で、アスリートの助けになる選択肢がいろいろあると良いと思います。自分が妊娠したときは情報が少なすぎて「出産後のトレーニング」「どのような食事をすれば良いか」もわからず、一般の人がやるようなことしか選択肢がありませんでした。これから、出産後のカリキュラムが、さらに整備されて、トップアスリート以外のアスリートでも当たり前のように活用できるようになると、出産後に復帰したいアスリートにとって助かると思います。

ー宮本さんは東京電力女子サッカー部マリーゼから伊賀FCくノ一に復帰後、のキャリア選択にモットーはありましたか?

宮本 FIFA女子ワールドカップ2007中国大会の日本女子代表監督だった大橋浩司さんの言葉が、今でも、私が考える元になっています。それは「自分で自分を正しく評価できない」ということ。自分に向いているか向いていないかは、自分の周囲の声が自分よりも正しいです。だから、自分の周囲から「こういうのやってみない?」と声をかけていただいたことを信じています。
今は、日本女子代表のアンダーカテゴリーのコーチをやらせていただいていますが、引退するときに指導者になろうとは思っていませんでした。引退後に「テレビで解説者をやってみないか」というお話をいただきました。でも、自分では「上手く喋れないな」と思って「サッカーのことをもっと勉強しよう」と指導者ライセンスを取りました。そうしたら「短大女子サッカー部の指導者になってください」と持ちかけられて監督になりました。次は、日本サッカー協会から「アンダーカテゴリーのコーチをやりませんか」とお誘いを受けました。その度に悩むのだけれど、自分の周囲から声をかけていただいたということは評価を受けているということ。だから悩むよりも、その評価を信じて一度はやってみることで、今につながる道になっている気がします。

ー今、サッカーに関わるお仕事は楽しくやれていますか?

宮本 手放しで「すごく楽しいです!」という答えにはならないですけれど(笑)日々、勉強が足りないと思っています。選手は、日本女子代表に選ばれたくて日々努力しているし、チームの中でも試合に出場するために必死に努力している。その選手と向き合うくらい自分が努力しているかというと、私の努力が足りていなくて、どちらかというと選手に力をもらっている。私は、選手によって成長させてもらっていると思います。
2021年にWEリーグが始まります。東京オリンピックは開催される予定になっていますが、私たちのFIFAU―20女子ワールドカップ、U―17女子ワールドカップは中止になってしまいました。不安定なことの多い毎日ですが、選手たちは次に向かって頑張っています。次の日本女子代表を目指しています。そんな選手のこと、女子サッカーのことを、みんなに応援してもらいたいと思っています。

<プロフィール>
宮本 ともみ(みやもと・ともみ)
1978年神奈川県出身。
地元の少年団でサッカーを始め、相模原SCを経て、1997年プリマハムFCくノ一(現・伊賀FCくノ一三重)に加入。同年、日本女子代表に初選出された。1999年、2003年、2007年とFIFA女子ワールドカップに3大会連続出場。2004年にアテネオリンピック出場。その間に、結婚・出産を経験し、2007年のFIFA女子ワールドカップ中国大会は初の「子持ち代表選手」として話題になった。その後、東京電力女子サッカー部マリーゼに移籍。2011年に再び伊賀FCくノ一に復帰。2012年シーズンで引退。現在は高田短期大学女子サッカー部監督、U-20日本女子代表コーチ。

text by 石井和裕(WE Love 女子サッカーマガジン)

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