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Vol.2 ヴィッセル神戸/MF小川慶治朗

  • 2019.06.20

    Vol.2 ヴィッセル神戸/MF小川慶治朗

みんな、昔はサッカー少年だった

■ ブラジル代表FWロナウドに憧れて、スピードに磨きをかける。

日本初のプロサッカーリーグ、Jリーグの発足が決まり、その前哨戦ともいうべきJリーグヤマザキナビスコカップ(現ルヴァンカップ)が行われた92年。大阪府豊中市で生まれ、すぐに池田市に移り住んだ。その頃の記憶はほぼ残っていない。だが、家の裏手の山を登ったり、川で沢蟹をとったり、泥んこになって遊んだことはうっすらと覚えている。

そんな彼が『サッカー』に出会ったのは、兵庫県三田市のニュータウンに移り住んでから。幼稚園の年長組の時に2歳年上の兄にならって、地元のウッディSCに加入した。

「ウッディは、小学生なら誰でも入れる町クラブでしたが、僕はお兄ちゃんが先に加入していたので、少しだけ早めに1年生チームに入れてもらいました。町クラブでお父さんコーチも多かったことから、指導もボールを持ったら『行け〜!行け〜!』って言われるくらいだったので、ボールを持つ度に、ドリブルでガンガン仕掛けてシュートまで持ち込んでいました。いや…そう思っていたんですけど、大人になってその年代の子供がボールを蹴っている姿を見たら、まだまともにボールを蹴れていないんですよね(笑)。だから、僕の勝手な妄想だと思います。その頃から繰り返しワールドカップ・フランス大会の総集編のビデオを観ていたせいか、小学生時代に記憶を巡らせるとなぜか、スーパープレーを連発している自分が思い浮かびます(笑)」

その言葉にもあるように、サッカーへの想いを熱くしたきっかけは、小学1年生の時に開催された98年のW杯フランス大会だ。ビデオ録画した『W杯総集編』を、テープが擦り切れるほど何度も巻き戻して目に焼き付けた。虜になったのはブラジル代表のFWロナウド。同大会で4得点を挙げてチームを決勝戦に導いた若武者のプレーに胸を躍らせた。

「当時は上辺しか見ていなかったからだと思いますけど、ロナウドのことを『前に蹴って走る選手』としか思っていなくて(笑)。僕もそれを真似して蹴って、走って、スピードで相手を振り切ることばかり考えていました。なんなら『あれくらいなら俺もできる』くらいの感覚でいたと思います。完全な、勘違いでした(笑)」

だが、そんな微笑ましい勘違いは、サッカーを頑張る上での原動力になった。その証拠にチームの練習以外にも、小学校への登校前、休み時間、放課後と、時間さえあれば…たとえ5分しかなくても外に飛び出してボールを蹴った。友だちとの遊びも、ほぼサッカー。当時、流行っていたテレビゲームにも見向きもせず、友だちがテレビゲームをしている間も、外でボールを蹴りながら終わるのを待っていた。

「毎日、どれだけボールを蹴っても飽きなかったし、やりたいことがあり過ぎて『1日は24時間じゃ足りない』といつも思っていました。それは巧くなりたい、というよりは、周りのチームメイトや敵チームに勝ちたかったから。ウッディの指導方針は『個人技を磨きながら、楽しくサッカーをすること』でしたが、僕らの年代は、とにかく負けず嫌いが多かったですからね。練習で紅白戦をするとすぐにケンカが始まるから、と週末は必ず対外試合をしていたくらいでしたが、僕自身も何をするにも常に勝つことしか考えていなかった気がします」

当時の小川の『負けず嫌い』を如実に示すエピソードがある。小学1年生の時に出場した校内のマラソン大会でのこと。足の速さにはかなりの自信があったにもかかわらず、小川はまさかの2位に甘んじてしまう。しかも、負けた相手は、同じサッカー部に所属していた親友。といっても、週末になるとサッカーの試合ではなく、マラソン大会に出場するほど足の速さは図抜けていて、新聞でも取り上げられるくらい俊足で知られた存在だったが、相手が誰であれ、負けたという事実が許せなかったのだろう。小川はマラソン大会の翌朝から登校前に校庭で走り込みを始めた。

「彼は小学1年の時から毎朝、親と一緒に7キロくらい走っていたし『将来はマラソン選手になる』と言っていたくらい、足が速かったんです。僕も、そんな彼に刺激を受けて走ることを頑張るようになったんですけど、マラソン大会で負けたことがとにかく悔しくて。翌日から毎朝走り込みを続けた結果、2〜6年生までのマラソン大会は全部、僕が勝ちました」

そんな性格は、当然、サッカーでも見られ、試合はもちろん練習でも、勝つことしか考えていなかった。リフティングでさえ負けるのが嫌で、自分より勝る相手には決まってライバル心をむき出しにした。と言っても、その方法はいつも「練習することだった」と小川。悔しさを味わうたびに、ボールを蹴った。

子供の頃は『巧い選手』と言うより
『速い選手』に憧れて走力を磨いた。

■ 人生最大の衝撃を受けた出会い。自分の『活かされ方』を知る。

ところが、チームでは『負けず嫌い』を前面に出し、お山の大将だった小川も、兵庫県トレセンなどに行くと、生来の引っ込み思案な性格が顔を出した。事実、知らない選手の中に身を置くと、練習でも一気に口数が減り、目立たない存在に。持ち前のスピードやドリブルも形を潜め、試合でも全く自分らしさを発揮できなかった。

そんな自分を変えたいと考えるようになったのは、ヴィッセル神戸のセレクションに合格してからだ。

「プロになるにはJクラブのアカデミーに所属しなければいけない」

中学への進学を前に、周りの友だちから聞こえてくる話をもとに、そう考えるようになった小川は、ジュニアユースチームのセレクションに参加し、合格する。その瞬間から、引っ込み思案の性格を封印し、『それまでとは違う自分』で勝負しようと決めた。

「人見知りで、引っ込み思案な上に、僕が育った三田市とは違う神戸市のノリについていけず(笑)、県トレでもずっとBチームの控え選手でした。でもヴィッセルへの加入が決まった以上、これを機に自分を変えよう、と。そこで敢えて最初から『オラオラ系』で、勝気な性格を前面に出していこうと考えました。県トレで一緒だった選手が『お前ってそんなキャラだった?』って驚くくらいに(笑)。おかげで、ほとんど知り合いがいなかったヴィッセルでも最初から自分らしいプレーを出せたし、同世代に巧い選手がたくさんいたことにも助けられ、得点も獲りまくっていました。1年生で10番をもらってからは特に『オラオラ系』に拍車がかかり、自信満々でプレーしていました」

ジュニアユース時代には『人生最大の衝撃』と振り返った出会いも経験した。同世代で、ガンバ大阪ジュニアユースでプレーしていた宇佐美貴史(現フォルトナ・デュッセルドルフ1895)だ。ヴィッセルでは1年生の時から中心選手で、自分が一番だと信じてやまなかったが、練習試合で目の当たりにした宇佐美のプレーに打ちのめされた。

「当時のガンバジュニアユースには小学生の時からスーパーだと評価されていた選手がたくさんいて…それこそ、昌子源(トゥールーズ)もそうだし、兵庫県トレセンで一緒だった原口拓人(ヴィアティン三重)も同世代では一番すごいと思っていた。もちろん、その頃から宇佐美の噂は聞いていたけど、実際のプレーを見たことがなかったので『原口ほどじゃないやろ』くらいに思っていたら、練習試合で対戦して『なんじゃ、こいつは!』と。今で言うネイマール(パリ・サンジェルマンFC)やメッシ(FCバルセロナ)を見ているような感覚で、束になってボールを取りにかかっても全く奪えない。その後のサッカー人生でも、あの時以上の衝撃を受けた選手はいないっていうくらい、宇佐美は圧倒的に巧くて、同級生とは思えなかった」

と言っても、宇佐美のようになりたいとは、さらさら思わなかったそうだ。理由は「自分の持ち味で勝負する方が自分のプレーが活きる」と考えたから。そのことに中学生の段階で気づけたことは、のちのサッカー人生においても大きな意味を持つものになった。

「アンダー世代の代表などで宇佐美と一緒にプレーするようになり、『活かされる』選手になる必要性を感じるようになりました。というのも、相手のレベルが高くなるほど、自分一人でフィニッシュまでドリブルで突っかけていくことはできないと思っていたから。でも、宇佐美のようにボールを預けさえすれば何でも一人でやってくれる選手に活かされてプレーすれば、自分も際立つと考えた。事実、彼と一緒にプレーしたことで、『僕は相手の最終ラインと駆け引きをしながら、最後は誰かに活かしてもらって点を取るタイプ』だと気づけたから相手のレベルが高くなっていってもコンスタントに結果を出せて、プロにもなれたんだと思う」

現役時代は驚異のスピードで知られた岡野雅行さん(現在はガイナーレ鳥取代表取締役GM)と。

■ 人間性を育みながら、技術を磨いたユース時代。

そうして自分がピッチで輝く方法を見つけた小川は、08年にユースチームに昇格。ジュニアユース時代と同様、相変わらずチームの中心選手として活躍を見せたが、一方、U-16、U-17日本代表では、周りのレベルや『世界』に刺激を受けて、自分の物足りなさを自覚するようもなった。

その1つが、技術だ。

世界を舞台に戦っても、スピードや裏に抜ける動き出しには手応えを感じていたが「足元の技術は明らかに劣っていた」と小川。その頃になると、インターネットで動画を観る機会も増え、子どもの頃に憧れたロナウドのプレーを見返すこともあったが、より深くサッカーを観るようになったからだろう。幼少の頃とは全く違って見えたそうだ。

「子どもの頃は、『スピードを武器に、前に蹴って走る選手』だと思い込んでいたけど、『いやいや、他のプレーもめちゃめちゃ巧いやん!』と(笑)。ポストプレーやボールのため方もそうだし、足元の技術も抜群に高くて、僕はロナウドの何を見ていたんや? と。もっとも、自分の武器であるスピードで勝負しようとしたから今の僕があるはずですからね。技術を磨かなかったことを後悔したことはないけど、もう少し技術練習もしておけば良かったな、とは思いました。って、それを後悔と呼ぶのか(笑)?」

その自覚からユース時代は、持ち前の運動量やスピードに加え、必死に技術練習にも取り組んだ。時に「スピードがあり過ぎるから、足元の技術が追いつかないのかも」と悩んだこともあったが、スピードは封印しないと決めていた。

「U-17日本代表として初めて戦った世界大会は、FWネイマール(パリ・サンジェルマンFC)に代表される、すごい選手を目の当たりにして刺激にもなったし、やれるなって感じた部分も多かった。ただ、勝負弱さは感じたし、技術やプレーのアイデアは圧倒的に負けていると感じたのも本音で…。でも、世界で勝負できる選手になるには『武器』が必要だと思ったし、だからこそ自分の持ち味であるスピードに技術を加えることで『世界』に近づこうと思うようになりました」

そんな風に『世界』を体感しながら、プレー面での成長を求めたユース時代だが、メンタル面での変化が見られたのもこの時期だ。ジュニアユース時代は生来の負けず嫌いから試合や練習でミスをした仲間に暴言を吐くことも多々あったが、ユース時代の黒田和生監督らとの出会いは彼にチームプレーの大切さを植え付けた。

「黒田監督やコーチの方々には、仲間に向けていた文句をアドバイスに変えることで、仲間の良さを引き出し、ひいては自分も気持ち良くプレーできる、ということを学びました。しかも、そうして『チーム』として戦えれば結果も求めやすくなる、と。そういう意味ではジュニアユース時代とはまた違ったサッカーの面白さに気づけました」

そのユース時代、練習前に必ず全員で唱和していた教えがある。「おはようございます、という明るい心」「ありがとう、という感謝の心」「すいません、という反省の心」「はい、という素直な心」「おかげさまで、という謙虚な心」という『5つの心』だ。

今でもしっかりと彼の心に植えつけられているその言葉は、彼の人間性を育み、心身両面でバランスのとれた選手への成長を促した。

ヴィッセル神戸アカデミー時代は、
たくさんの人との出会いで心身両面を磨き、
トップチームに昇格した。

■ 『負けず嫌い』を武器に、ポジティブにチャレンジを続ける。

念願のトップチーム昇格を実現したのは10年だ。その年、小川はクラブとしては初の二種登録選手となり、3月27日の横浜Fマリノス戦でJ1リーグデビューを果たす。彼自身も想像していなかった、クラブ史上最年少出場記録となる17歳5か月でのことだった。

「昇格できる自信はあったけど、二種登録選手としてトップチームに絡めるとは思っていなかったので少し驚きました。でも最初から『ここで練習する限りは、試合に出なアカン』と思っていました。なのでデビュー戦も…途中出場で緊張はそれなりにありましたけど、プレッシャーは感じていなかったです。というのも、僕の言う『緊張』は『ワクワクした気持ち』も込みなので、プレッシャーとは別ものだから。なので、デビュー戦も『これをしよう! あんなプレーをしたい!』って胸を躍らせながらピッチに立ちました。実は、このシーズンは開幕戦もベンチ入りをして…出場機会はなかったけど、アップ中にジャンプをしたらありえないくらい高く跳べたんです(笑)。その経験から、横浜戦も『この感覚で試合に出たら絶対に点が取れる』って思っていた…んですけど、気持ちが入りすぎて1回目のダッシュで乳酸が溜まりました(苦笑)」

そんな風に始まったトップチームでのキャリアも、今年で10年目を迎えた。その中では『神戸の顔』として活躍したシーズンもあれば、近年のように相次ぐケガに苦しめられたこともある。加えて昨年は初めて湘南ベルマーレへの期限付き移籍も経験した。

だが、小川は「全ての経験が今の自分に繋がっている」と胸を張る。

「ケガがあったり、試合に出られない時期も続いたり、その時々で考えることはあったけど、ケガをした分、メンタル的に強くなれたし、早く治すためにいろんな取り組みにチャレンジもできた。期限付き移籍も、めちゃめちゃ充実した時間でしたしね。そう考えると…その瞬間、瞬間は悔しさを感じても『人生』という大きな括りで見ればプラスだと思っています。それに、そうしたアクシデントもひっくるめてのサッカー人生で、自分の限界はまだまだ先にあると考えても、立ち止まっている暇はない。これまでのサッカー人生も、気持ちが揺れた時は決まっていいパフォーマンスを出せなかった経験からも、どんな時も『今』に全力で、ポジティブにサッカーと向き合いたい。だって自分の未来をより良いものにするのは、自分でしかないから」

その言葉にもあるように、湘南でプレーした経験はわずか半年という短い時間ながら小川に多くのものを与えてくれたようだ。中でも武器である『走力』についての様々な気づきは、ヴィッセルに戻った今も、彼の中で確かに息づいている。

「湘南では『走る』ことについてたくさん学びました。それまでの僕は1度、フルスプリントをするとバテてしまい、走り切ったタイミングでボールがきてもトラップをミスしたり、ボールをキープしきれないことが多々あったんです。曺(貴裁)監督にもよく『走り切ったら終わり、ではなく、もっと一連の動きを意識しろ』と言われましたが、要するに、頭を使って走っていないから、すぐに次のプレーに切り替えられない。そのことを理解できるようになってからは、余分な体力を使わずにゴール前に走り込めるようになり、得点チャンスが膨らむのも感じられるようになった。だからこそ『考えて走る』ことはこれからも続けていきたい。それができれば…先ほど話した宇佐美のように、今のヴィッセルにはアンドレス(イニエスタ)ら、僕を活かしてくれる選手がたくさんいるから。ただ、それを心がけつつも、気持ちの面ではやっぱりガムシャラに『負けず嫌い』な性格を前面に出して戦っていこうとも思っています。ヴィッセルには巧くて、世界的に名の知れた選手も増えたけど、チームって、いろんなタイプがいてもいいはずで、やっぱり僕は『自分らしさ』で勝負したいから。その部分は僕をプロに導いてくれた『武器』でもあるだけに大切にしたいと思っています」

生来の『負けず嫌い』が自らの走力を鍛え、プレーを磨くことにつながってプロの道を切り拓いてきたように、トップチーム昇格から10年目を迎えた今シーズンも、ガムシャラに、泥臭く。小川慶治朗は、自分らしく未来に向かう。

<PROFILE>
小川慶治朗(おがわ・けいじろう)
1992年7月14日生まれ。大阪府豊中市出身。
三田市の町クラブ、ウッディSCでサッカーを始め、ジュニアユース時代からヴィッセル神戸に在籍する生え抜き。二種登録選手として10年にトップチームデビューを飾り、12年からは、神戸のエース番号である『13』を背負う。昨年7月には出場機会を求めて、自身初となる湘南ベルマーレへの期限付き移籍を経験。今シーズンは再びヴィッセルの一員として戦っている。17年に結婚し、現在は一児の父。

text by Misa Takamura

J1/ヴィッセル神戸<前編>