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Vol.8 ヴィッセル神戸/MF古橋亨梧

  • 2019.12.20

    Vol.8 ヴィッセル神戸/MF古橋亨梧

みんな、昔はサッカー少年だった

■ 周りに流されずに信じた道を突き進む。

幼少の頃は、両親の仕事や弟の誕生などもあって親戚や祖父母に預けられることも多く、いろんな場所を転々としていたそうだ。東京や広島、祖父母のいる兵庫で暮らしたこともあった。
「物心がつく前のことはあまり覚えていないけど、生まれてしばらくは、いろんな人にお世話になったそうです。弟が生まれる時も広島の叔母が1歳の僕を預かってくれました。聞いた話だと、従兄弟のお兄ちゃんがまだ離乳食も始まっていなかった僕を可愛がってくれて、これも、あれもと、いろんなものを食べさせてくれたらしく、一気に1キロくらい太ったとか。危うく肥満児になるところでした(笑)」

生まれたばかりの頃は、両親の仕事の都合などで、
親戚や祖父母の家で
面倒をみてもらうことも多かった。

向かって一番左。
従兄弟のお兄ちゃんにも可愛がられた。

サッカーとの出会いも生駒市に住み始めてから。近所のお兄ちゃんに憧れて、自分から「やりたい!」と手を挙げた。
「体が弱くて、風邪をひきがちだったので、3歳の頃から半ば強制的にスイミングスクールに通わされていましたが、才能は全くなかったと思います。実際、全然速く泳げませんでした(笑)。当時は、平日はスイミング、土日はサッカーとスイミングを掛け持ちと忙しく、特にサッカーをした後は泳ぐのが嫌でいつも泣きながら泳いでいた記憶があります。でも、サッカーはボールを蹴っている近所のお兄ちゃんに『格好いい!』と憧れ、初めて自分からやり始めたことだったし、とにかくメチャメチャ楽しかった記憶しかない。なので、中学生になるにあたって両親から『どちらも中途半端になるのは良くないから、どちらか選びなさい』と言われた時も迷わずサッカーを選びました」

小さな頃から誰にでも人懐っこく、
人と違う道を選択することに臆さなかった。

当時から運動神経は良く「バック転やバック宙などアクロバティックなこと以外は何でも卒なくできた」。足も速く、小学1年生時に加入した小学校のチーム、桜ヶ丘FCでもスピードが武器に。古橋曰く「前にボ〜ンとボールを蹴って走り、相手DFより走り勝ってシュートを打つ、みたいなプレースタイル」で、ひたすらボールを追いかけた。
「その頃からゴールを決めること以上に、走って競り勝つことに楽しさを感じていました。小学生の時に一度だけ父と弟と3人で、長居スタジアムでセレッソ大阪の試合を観戦したんです。そしたらFW安貞桓選手がダイビングヘッドを決めて…もう、大興奮(笑)。だからと言ってプロになろうと考えたことはなかったけど、とにかくサッカーが楽しくて、いつもサッカーのことを考えていました」

青のユニフォームが古橋。
この頃からスピードが武器だった。

中学生になるにあたっては、京都サンガのジュニアユースチームのセレクションを受けた。周りのチームメイトがJクラブのセレクションを受けると聞き、触発されたからだ。とはいえ面白いのは、チームメイトの多くがセレッソ大阪のセレクションを受けたのに対し、古橋だけは京都を選んだこと。加えて言うならば、結果的にアスペガス生駒FCに加入した時も、一人、違う道を選んだ。
「なんで僕だけ京都を受けたのか、自分でもよくわからないんですけど、一人で参加したことだけは覚えています。結果的に京都のセレクションに落ち、どうするかを考えた時も、友達の多くが加入したチームではなく、一人だけアスペガスFCを選びました。アスペガスFCは、僕が中学生になるタイミングでジュニアユースチームが発足したんですが、ジュニアチームもめちゃめちゃ厳しくて有名だったんです。それを知っていたから敬遠する仲間も多かったのに僕は家から一番近いからいいか、と(笑)。その頃から、友達と一緒じゃなきゃ嫌だとか、そういう性格ではなかった気がします。両親も、いい意味で放任主義というか…『いいこと、悪いことはもう自分で判断できるでしょ。だから、自分の好きなようにしなさい』って感じでした」

その頃からFWとして2トップの一角を担うことが増えていたが、プレースタイルは小学生時代とほぼ変わらなかったそうだ。身体能力の高さを武器に、蹴って、走って、シュートを打つ、の繰り返し。古橋自身も技術で相手を上回るより「走り負けたくない」という気持ちの方が強かったそうだ。あらかじめ覚悟していた通り、監督も厳しく、タフさを求められる練習も多かったが、それによってメンタルが鍛えられたことと、フットサルの全国大会で優勝できたことは「すごくいい思い出」だと振り返る。
「楽しくサッカーをしていた小学生時代に比べると、怒られることは増えたけど、その分『なにくそ』と思って頑張れることも増えました。辞めていく選手もいた中で『ここで頑張ると決めたから最後までやる』と思って過ごせたことも、メンタル的な成長に繋がった気がします。またアスペガスFCはサッカーだけではなくフットサルの大会にも出場していたんですが、関西予選でずっと勝てなかった相手に勝てたことで自信がつき、その勢いで全国大会でも負けなしで優勝しました。サッカーでは前線を預かっていた僕も、フットサルになると後ろを守ることが殆どだったんですけどね。たまに流れから攻め上がってアシストすることはあったけど、基本的には後ろで相手の動きを読んでボールを奪い、前線の二人に預ける、みたいな役割でした」

■ 新たな武器を備えた高校時代。プロという目標を定める。

中学卒業後の進路に、大阪の高校を選んだのもチーム内では古橋だけだったそうだ。中学、高校のチームが一同に会して練習試合を行うサッカーフェスティバルに参加していた興国高校のサッカーに魅せられ、監督の言葉に惹きつけられた。
「いろんなサッカーの話をしてもらったのがすごく面白くて、話し終えた時には『ここでサッカーをしたら楽しそうだし、巧くなれるかも』と思っていました。中学3年生の時に興国の試合を観に行って、攻撃的なサッカーに惹かれていたのもあります。その時はまだ『プロ』も描いていなかったので、興国が全国高校サッカー選手権大会に出場したことがないチームだということも全然気にならなかった。それよりも自分が成長したい、うまくなりたい一心でした。当時の自分がどこまで考えていたのかはわからないけど、今になって思えば…生駒FCを選んだ時も、興国を選んだ時も『自分にとって楽な道より、難しい道を選んだほうが成長できる』という考えはあったかもしれない。実際、結果論ですけど、そういう選択をしてきたことが、今の自分に繋がっている気がします」

その高校時代、徹底的に磨きをかけたのが『ドリブル』だ。同校のサッカー部が利用するグラウンドは通常の半面にも至らないくらいの大きさしかなかったが、狭いコートで工夫を凝らしたトレーニングの数々は、生来のスピード、ジュニアユースで培ったメンタルに加え、ドリブルという新たな武器を備えさせた。
「週2回、火曜日と木曜日はJグリーン堺でトレーニングをしていましたが、普段はほぼ学校の狭いコートで1:1とか、4:4の練習をしていました。そこで相手を抜き去るとか、外す動きを学び、Jグリーンでの練習の日にそれを広いコートでチャレンジする、みたいな。当時の興国には巧い選手も多く、彼らに比べると僕なんか全然ヘタクソでしたが、内野監督に『ドリブル』という武器を植えつけてもらい、なおかつ、試合にも使ってもらえたことで自信をつけていった気がします」

初めて『プロ』への憧れを持つようになったのも高校時代だ。Jクラブやそのアカデミーチームと練習試合をすることが増えたことや同級生からプロ選手が誕生したことで目標が定まり、「プロになるための4年間にする」と描いて大学進学を決めた。
「大阪の阪南大学と東京の中央大学の2つから声をかけていただき、実家から近い阪南を…とも考えましたが、自分に足りないものを考えた時に、親元を離れて生活する必要性を感じて中央大に決めました。それまでのように、親に頼りっぱなしの状況での『サッカー』ではなく、親元を離れ、掃除や洗濯など、普段の生活も全部一人でやる中で自分を鍛えようと考えました」

中央大学では寮生活を送りながらも1年生の時から試合に起用され、全日本大学選抜にも選ばれるなど、上々のスタートを切った。だが逆にそのことが古橋の心に慢心を生んだのか、ある日、試合を観戦に来ていた高校時時代の監督に厳しい言葉を投げかけられる。
「お前、何やってんの?」
その瞬間、目が覚めた。
「大学選抜に入ったことで、自分の知らないうちに鼻が伸びてしまっていたんでしょうね。2年生になっていた僕のプレーを見た監督がLINEをくれて…。要するに調子に乗っているのが明らかなピッチでの振る舞い、プレーだったんだと思います。それをきっかけに気持ちを入れ替えたんですけど、その矢先にケガをしてしまい、結局、3年生の時はリーグ戦の半分も出場できなかった。しかも復帰後もケガ、復帰、ケガの繰り返しで、最後の最後にようやく試合に出られたものの、3点差をひっくり返されて逆転負けを喫し、2部降格ですから。その直後に湘南ベルマーレの練習に参加した時も何一つ、自分を示せず、『4年生で関東2部でプレーしているようでは、もはやプロも絶望的だな』と思っていました」

実際、4年生になってもJクラブから声がかかることはなかった。大学の監督の計らいもあって湘南ベルマーレ、松本山雅FC、モンテディオ山形、水戸ホーリーホックなど幾つかのJ2クラブに練習参加をしてみたものの、獲得に繋がるような輝きは見せられず、刻一刻と卒業が近づいてくる。そのプレッシャーや行き先が決まらない不安もあってだろう。Jクラブへの練習参加の度に「ホテルに戻って吐いていた」と苦笑いを浮かべる。
「そんな状態だから、もう諦めようかなって思って、親にもそう伝えたんです。自分のプレーも出せないし、プレッシャーやストレスばかりが大きくなっていく状態だったから。そしたらあっさり『やめたいなら、やめればいいよ』と。でもそのあとにボソっと『ま、今までやってきた努力は無駄になるけどね』と言われたんです。その言葉を聞いて『後悔しないように、最後までやれることは全部やってから答えを出そう』と思い直し、Jクラブへの練習参加を続けていたら、最後の最後でFC岐阜にオファーをいただくことができました」

実は、プロへの道を模索する中で彼は名前を『匡梧』から現在の『亨梧』に変えている。親戚の知り合いに占い師がいたことがきっかけだが、当時は藁にもすがる思いだったのかもしれない。
「親に勧められて、岐阜への練習参加前に名前を見てもらったら『漢字が良くない』と言われたんです。『匡』という漢字は“はこがまえ”の右側があいているから、いいところまではいけても最後にケガをしたり、調子を落とすなど、“王”が逃げてしまう、と。でも『亨』にすれば片足一本でも上にいけるよ、と言われ『亨梧』にしました。実際に変えた後に岐阜の話が決まったし、ここまで大きなケガもなくやってこれたと考えても、きっかけの1つにはなったのかな、と思っています」

■ 『結果』を残し続けることで辿り着いた、日本代表。

そうして、プロの道を切り拓いた古橋だが、最初からポジションが与えられることはなかった。シーズン最初の練習試合では“穴埋め”的に、本来とは違う中盤のポジションに据えられたことも。だが、持ち味のスピードやドリブルは一切発揮できず、その状況に危機感を覚えた彼は大木武監督に直談判したそうだ。
「サイドMFで勝負をしたいです」
その時点で、同ポジションにはライバルが二人いたため、『3番手』からのスタートになることは覚悟の上だった。
「とにかく自分の色を出そうと必死でした。大卒の僕には時間がないと思っていたし、同期の選手が1番手に据えられていたので、自分次第ではチャンスがあると思えたのも大きかった。今でも忘れられないのがキャンプの初日。僕らルーキーは新人研修を受けてから宮崎入りをしたのですが、その初日の練習がめちゃめちゃキツくて、最後のジョグをしている時に吐いちゃったんです(笑)。そんなスタートでしたが、サッカーはすごく楽しかったから頑張れたし、何より、大木さんに『止めて、蹴る』大切さを徹底して叩き込んでもらって、プレーの幅がどんどん広がっていくのを感じられた。そう考えると、僕は家族も含めて周りの人、指導者に恵まれました。その時々で僕に関わってくれた人がいなかったら、間違いなく今の自分もいなかった」

結果的に、少しずつ頭角を表しながら序列をあげた古橋は、17年のJ2リーグで開幕スタメンを勝ち取ったのを皮切りに、全42試合にスタメン出場。チーム最多タイの6得点を挙げると18年も開幕6試合連続ゴールを決め、圧巻の存在感を示す。
「大木さんのサッカーも攻撃的ですごく面白く、持ち味を活かしやすかったことも追い風になりました」
そんな彼のもとにヴィッセル神戸からのオファーが届いたのは、7月の終わりだ。「岐阜は僕をプロにしてくれたクラブ」という感謝の思いもあり頭を悩ませたが、最後は仲間にも背中を押されて移籍を決めた。
「アンドレス(イニエスタ)を始め、世界的なプレーヤーが多数在籍するクラブからオファーをいただけて素直に嬉しかったし、仲間にも『お前なら絶対に試合に出れる』『活躍できる』『そんなチームでプレーできてうらやましいよ』と声をかけてもらって決心できました。これまで自分がやってきたサッカーと似ていたことや、ヴィッセルには僕みたいなアタッカータイプのサイドプレーヤーが少なかった分、自分の『色』を活かせばチームの力になれるかもしれない、と思えたのも大きかった」

事実、蒼々たる顔ぶれが揃うヴィッセルにあって、スピードに乗った古橋のプレーの数々は、大きなアクセントになった。その証拠にJ1デビュー戦となった8月5日のFC東京戦では後半からピッチに立つと、武器を存分に生かしながら何度もゴールに迫り、見せ場を作る。更にその1週間後、初先発を飾ったジュビロ磐田戦では1ゴールを挙げて、仲間の信頼を掴み取った。

そうして迎えた今シーズン。チームにFWダビド・ビジャという世界的なビッグプレーヤーを迎えても、古橋は変わらない存在感でポジションを掴んだ。いや、掴み続けるために『結果』を出し続けたと言うべきか。事実、10月の終わりまでにJ1リーグで決めたゴールはキャリアハイとなる9つ。さらにJ1リーグトップを数える8アシストを記録する。そんな彼のもとに嬉しい知らせが届いたのは11月の初め。人生で初めてとなる、日本代表選出だった。
「選ばれるとは思っていなかったから素直に嬉しかったです。目標の1つだった『日本代表』に選ばれたことを誇りに思います。家族をはじめ、どんな時も変わらずに後押ししてくれたファン、サポーターの皆さん、チームスタッフ、チームメイトに心から感謝しているし、その気持ちをしっかりプレーで表現したい。スピード、運動量、1対1の仕掛け、ゴールに向かう意識、シュートを打つ意識、ゴールだけじゃなくてアシストする姿を示していきたい」
 
そんな決意を胸に戦った11月19日のキリンチャレンジカップ2019のベネズエラ代表戦は、大きな一歩になった。
チームとしては4点のビハインドを追いかける苦しい展開だったにもかかわらず、後半からピッチに立った古橋は攻撃を活性化。ゴールこそ挙げられなかったが、巧みな動きでボールを引き出し、観客を沸かせた。
「自分らしくゴール前でボールを引き出すなど、思い切ってプレーできました。日本代表として満員のスタジアムでプレーできて本当に幸せ。またここで戦いたい」

とはいえ、これも「スタートラインに立っただけ」だと気を引き締める。自身が目指す場所はまだまだ高く、遠いところにある、と。
「これまで、周りに比べると物足りなさを感じたことも多かったけど、その都度『いつか追い越せばいい』という諦めない気持ちを持って努力を続けてきたら、また新しい一歩を踏み出せた。だけど、この世界、どれだけ巧くて活躍している選手でも、努力していない選手は一人もいないですから。自分が一瞬でも努力を怠ったら、すぐに居場所がなくなってしまう。そう思えばこそ僕もまだまだ努力を続け、僕に関わってくれた人たちが僕のことを自慢できるような選手、人になりたいです」

そのために、この先の人生でも常に『自分にとって楽な道より、難しい道』を選ぶと決めている。それを乗り越えた先には、これまで知らなかった新たな『サッカーの楽しさ』に出会えると信じているから。

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<PROFILE>
古橋亨梧(ふるはし・きょうご)
1995年1月20日生まれ。170センチ、63キロ。
奈良県の桜ヶ丘FCでサッカーを始め、中学生時に在籍したアスペガス生駒FCではフットサルの大会で日本一に輝いた。そのサッカーに魅せられて加入を決めた興国高校では持ち味のスピードに『ドリブル』という武器を備え、明確にプロを描いて中央大学に進学。卒業にあたってはJクラブへの練習参加を繰り返しながら行き先を模索し、最後の最後で声がかかったFC岐阜でプロキャリアをスタートさせた。その活躍が認められ18年夏には自身初のJ1クラブ、ヴィッセル神戸へ移籍。今年の11月には自身初の日本代表に選出された。

text by Misa Takamura

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