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Vol.5 監督としてのプロセス

  • 2020.06.11

    Vol.5 監督としてのプロセス

BRAIN〜ズミの思考〜

監督業を始めて、早4ヶ月が過ぎた。試行錯誤を繰り返しながら開幕に向けた準備をしていたが、当初予定されていた4月の開幕も、5、6月の再開も延期になり、8月に初戦を迎えることが決まった。
そうした状況下では家で過ごす時間も増え、自分はどんな監督になりたいのか。どんな監督が選手を育て、チームを勝たせることができるのかを考えることが多かった。
思えば、僕はプロサッカー選手として10人の監督の元でプレーした。その監督たちが、どんな戦術や哲学を持ち、どんな練習やミーティングをし、試合に向けて何を重要視していたのか。選手への要求や距離感、コミュニケーションの取り方、監督としてどんな立ち振る舞いをしてチームを、選手を引っ張っていたのか。それらを思い返すことも、理想の監督像を考える上ではとても役に立った。

まず、名古屋グランパスでのプロ1年目、2007年に一緒に仕事をしたオランダ人、セフ・フェルホーセン監督。サッカー人生で初めての外国籍監督は、僕のサッカー観に大きな影響を与えてくれた。
攻撃的なポジションでプレーしていた僕は当初、監督にアピールするために学生時代同様たくさん動き、どれだけ相手の背後にスプリントできるか、ばかりを考えていた。それが自分の売りであり、試合に出るための近道だと考えたからだ。だが、セフに言われたのは「動き過ぎるな」「止まれ」だった。1番大切なのは、正しいポジショニングと、正しいタイミングで動くことだ、と。無闇やたらに動くのは悪いプレーだと言われ、今までのサッカー観をひっくり返された。ただ、その理由をちゃんと説明してもらえたため、自分が正しいポジションを取ることによって相手を困らせ、味方を助けるのだとすぐに納得することができた。

プロ2年目には6年間、僕を試合に使い続けてくれた、ピクシーことドラガン・ストイコビッチ監督が就任した。間違いなく彼がいなければ、今の僕は存在していない。新人王やベストイレブンを獲ることもなかっただろう。
ピクシーはグランパスの監督に就任してすぐに「自分は優勝するために帰ってきた」と言い、万年中位だったクラブに『タイトル』という明確な目標を掲げた。どんなときも「NEVER GIVE UP!!」と言い続け、勝者のメンタリティーを植えつけた。ピッチ脇で激怒する姿を見たのも一度や二度ではなかったが、それも勝利への執念と彼が理想とする『美しいサッカー』への執着からくるものだったと理解している。
また、ミーティングがほとんどなく、対戦相手の分析を全くしなかったのも印象深い。これは、自分たちのサッカーをすれば必ず勝てるという確固たる自信があったからだ。そのピクシーの右腕にはボスコ・ジュロブスキー・コーチ(注:2016年夏からは半年間、監督として指揮を執った)がいて、彼が戦術面を細かく指導。セフ監督同様、正しいポジショニングと守備の決まりごとをはっきりさせただけではなく、選手をイジるなど情熱的かつ気さくな人柄でピクシーと選手の間を上手く繋ぐ役割を果たしていた。監督が強烈なカリスマ性でチームの先頭に立って個性溢れる選手を引っ張り、コーチが細かい部分の指導、修正を繰り返したことが2010年のリーグ初優勝にも繋がったのだと思う。

2014年は、プロ8年目にして初の日本人監督、西野朗監督(タイ代表監督)と仕事をした。ガンバ大阪時代の攻撃的なパスサッカーのイメージが強く、就任当初はショートパスで組み立てる戦術を試みるも上手くいかなかったが、結果が出ないと見るや永井謙佑(FC東京)や川又堅碁(ジェフ千葉)のスピードを活かしたサッカーにシフトチェンジ。チーム状況や戦力に応じて現実的に勝ち点を積み重ねる、臨機応変な戦い方を選んだのが印象的だった。また、前述の外国籍監督以上に選手個々と頻繁にコミュニケーションを取り、練習前後に選手を自分の元に呼んで会話をするシーンもよく目にした。僕も呼ばれて何度か話をしたが、特に印象に残っているのは「次の試合はバックアップで考えている。そのつもりで準備して欲しい」。要するに、スタメンから外されたのであまり良い思い出ではない(笑)。

サガン鳥栖のマッシモ・フィッカデンティ監督(名古屋監督)の妥協なきフィジカルトレーニングは、プロ13年で最もキツかった。だが、そのおかげで33歳になった僕のコンディションが再び上向きになったのは間違いない。戦術練習や対戦相手の分析、セットプレー対策の緻密さにおいても突出していた監督だった。
アルビレックス新潟で片渕浩一郎監督に受けた指導は、今、僕が指導者としてトレーニングをオーガナイズする上で、参考にしている部分が一番多い。ウォーミングアップからトレーニングまでしっかりした意図があり、チームの課題を改善できるトレーニングメニューが考えられていた。選手に掛ける言葉遣いや言葉選びも秀逸で、ミーティングやトレーニングの際の説明も端的で、とてもわかりやすかった。
そんな風に、僕が一緒に仕事をした監督も、それぞれ理想とするサッカー、チームづくりのプロセス、何を重んじるのかは違う。それこそ、百人いれば百通りの指導論が存在すると言っても過言ではない。しかも、どれが正解かという答えもない。その中で、僕がどんな監督を目指すのか。正直、今はまだボヤけている部分もたくさんあるが、現時点で明確になっているのは『選手を成長させ、チームを勝たせられる監督』になりたいということだ。そのために、様々な監督の元でプレーしてきたことで得た知識や経験、感じたことに自分なりの細かな肉づけをしながら監督業を進めていきたいと思っている。

  • 小川 佳純Yoshizumi Ogawa
  • Yoshizumi Ogawa

    1984年8月25日生まれ。
    東京都出身。
    07年に明治大学より名古屋グランパスに加入。
    08年に新監督に就任したドラガン・ストイコビッチにより中盤の右サイドのレギュラーに抜擢され、11得点11アシストを記録。Jリーグベストイレブンと新人王を獲得した。09年には、かつてストイコビッチも背負った背番号『10』を背負い、2010年のリーグ優勝に貢献。17年にはサガン鳥栖に、同年夏にアルビレックス新潟に移籍し、J1通算300試合出場を達成した。
    20年1月に現役引退とFC TIAMO枚方の監督就任を発表し、指導者としてのキャリアをスタートさせた。

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