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Vol.3 KASオイペン/FW豊川雄太

  • 2019.07.22

    Vol.3 KASオイペン/FW豊川雄太

みんな、昔はサッカー少年だった

■ 指導者との出会いがサッカー熱に拍車をかけ、人間性を磨く。

幼い頃から体を動かすのが大好きだった。特に体育指導に熱心な第二さくら体育幼稚園に通うようになってからは、跳び箱や鉄棒、マット運動、マラソンなど1年を通して目一杯動き回り、午後はそのまま園のスポーツクラブでサッカーを楽しんだ。
「4つ上の兄の影響で園のスポーツクラブに入り、毎日、午後はずっとサッカーをしていました。それをきっかけにサッカーが好きになり、小学3年生までは同クラブでプレーしましたが、当時から点を取ることが楽しく、熊本県内の幼稚園チームが集まって試合をするサッカーフェスティバルでもよく点を決めていました」
小学4年生で熊本ユナイテッドSCに加入すると指導者との出会いからより一層、サッカーに熱を注ぐようになり、そのシュート力に磨きをかけた。
「小野コーチというめちゃめちゃサッカーが巧いコーチに憧れて、プロになりたいと思う以上に、小野コーチみたいになりたい、って思っていました。チーム練習が終わってからも毎日、夜の10時くらいまでシュート練習をしたり、フリーキックの蹴り方を教わって…当時はヨーロッパのサッカーを観るのが好きだったので、よく海外のいろんな選手のプレーを真似てボールを蹴りました」
中学生になっても同チームでプレーしていたが、1年生の途中で小野コーチが退団したのを機に豊川はFCKマリーゴールドにチームを移す。そこでもまた原弘明監督をはじめとする指導者との出会いに影響を受けた。
「原監督と出会えたおかげで今の僕があると言っても過言ではないくらい、人間性の部分でたくさんの影響を受けました。マリーゴールドに加入したばかりの頃の僕って、恥ずかしながら、お菓子を食べた後のゴミをその辺に捨てしちゃうとか、靴は脱ぎっ放しとか、だらしない子供だったんです(笑)。だから、マリーゴールドに通い始めた頃は、挨拶や言葉遣いに始まって、バックのチャックを締めろ、靴は向きを揃えて並べろ、バスを使ったら掃除しろ…と原監督によく怒られました。しかも、周りの選手は当たり前のようにやっていることが僕だけ出来ないとなると、明らかに自分が浮いてしまうような空気もあり…。それもあったのか、気がつけばいろんなことが当たり前にできるようになっていました」
この中学時代に苦しめられたのが、オスグットと呼ばれる成長痛だ。最初は痛みを我慢していたが、それが悪化につながって3〜4か月、ボールを蹴れなくなった。
「原監督に『今後のサッカー人生の方が長いんだから、今の時期に休むなんてどうってことない。まずはゆっくり治せ』って言ってもらい、ようやくボールを蹴ることを諦められました。なので、中学2年生の一時期はほとんどサッカーをせずに、毎日、水を汲んだり、用具を片付けたり、マネージャー的な仕事をしていたんです。なのに不思議と『サッカーがやれなくて辛い』という気持ちになった記憶がない。おそらく僕が落ち込まないように、原監督以下、周りのコーチ陣がうまくフォローしてくれていたんだと思います」
中学3年生になり、オスグットの痛みも消えて思う存分、ボールを蹴れるようになった豊川は頭角を表し始める。きっかけは、中学3年生時に始まった、中体連の上位4チームと、クラブチームの上位4チームによる熊本県内のリーグ戦だ。その初代王者に輝く中で、点取り屋としての責任が芽生えた。
「中学1年生の頃は一時期、ボランチをやったりしたんですけど、同大会で『俺が点を取って、チームを勝たせなきゃいけない』みたいな思いが芽生えるようになって。ボールを持ったら積極的にゴールを目指すことが増え、点も取れるようになった。といっても、チームではエースでも、熊本県選抜などに行くと『中の上』くらいの立ち位置で、大して目立つこともなく…。でも、いつも『自分よりすごい選手がたくさんいる』と思っていたことで頑張れました」

子供の頃から体を動かすのが大好きで、第二さくら体育幼稚園では様々なスポーツを楽しんだ。

■ シュート練習に明け暮れた高校時代を経て、鹿島アントラーズへ。

高校は県内の強豪校、熊本県立大津高校に進学したが、そこも一筋縄ではいかず、サッカー推薦で入学を決められる『前期テスト』から漏れた豊川は、学力とサッカーの両方で合否が決まる『後期テスト』を受けて入学を決めた。
「同期の植田直通(サークル・ブルッヘ)は、中学時代は全くの無名だったのに、前期テストで受かったんです。その彼を含めて同期は7人、前期テストで入部が決まっていたので、正直『後期テスト』を受けるべきかは迷いました。だって、その時点で二番手ですって言われているようなものだから。でも、その頃には自分の中で『プロサッカー選手』という目標が明確になっていたし、熊本県からプロを目指すなら、とか、全国にアピールするには選手権に出場するしかないし、その可能性が高いのはやっぱり大津だと思い、後期テストを受けることにしました。でも二番手からのスタートになったことで、最初から必死でサッカーに向き合うことが出来ました」
その言葉通り、当時はチームの練習以外にも時間が許す限り、練習に打ち込んだ。毎日の居残り練習は当たり前で、それ以外にも、帰宅途中に小学校の校庭に照明が灯っているのを見つけると、立ち寄ってシュート練習に汗を流した。
「1年生の時はベンチには入れていたので2年生になったら試合に出れるだろうとタカをくくっていたら、最初は全く試合に絡めなかったんです。それが悔しくて、自分のストロングポイントを伸ばそうと、とにかく練習をしました。後になって大津のコーチに『今の時代でも、あの時のお前くらいシュート練習をしている奴はいない』と言われたくらいです。その中でようやく夏のインターハイを前に試合に出られるようになり、平岡先生に『10番をつけるか?』と言ってもらった。僕がすごく仲の良かった先輩がつけていた番号だったので、すごく悩んだけど、最終的にはつけると決めてレギュラーにも定着しました。ただ、その時は、選手権の熊本県予選の準決勝でルーテル学院高校に負けて全国大会に出られなかったんです。1つ上の先輩にはすごく良くしてもらっただけに先輩の力になれなかった自分を不甲斐なく感じたのを覚えています」
その屈辱を晴らすべく、3年生になると『エース』としての自覚がより強くなり、その責任感が得点に直結することが増える。同年夏に戦ったV・ファーレン長崎との天皇杯では鎖骨を骨折。2〜3ヶ月の離脱を余儀なくされたが、それでも『プリンスリーグ九州2012』ではリーグ4位となる16得点を量産した。また鎖骨骨折から復帰直後の『高円宮杯JFAサッカープレミアリーグ参入戦』でも『ハットトリック』でプレミアリーグ昇格に貢献した。

熊本ユナイテッドSC時代は好きな海外の選手のプレーを真似てよくボールを蹴った。

「鎖骨を折るまで、打てば入る、という感じで面白いように点が取れていたんです。プリンスでもケガで離脱するまでは首位を走っていたくらいでした。でも、大して落ち込むこともなく、自分自身は『やれることをやろう』とポジティブでした。チームが全国への切符さえ掴んでくれたら、そこには間に合うと思っていたので、必死にチームメイトを応援していました」
結果的に豊川自身も、県予選の準決勝から戦列に復帰した中で、大津高は全国大会出場を決める。だが、全国の1回戦、の旭川実業高校(北海道)戦はPK戦の末に敗れ、まさかの敗退。しかも5人目のキッカーに立ち、失敗に終わったのは苦い記憶だ。
「僕自身、県予選は殆ど力になれずにたどり着いた全国だっただけに、自分が外して負けたという事実はかなり辛く、相当、泣きました。PKを外してその場から動けずにいたら植田が慰めにきてくれたのを鮮明に覚えています」
卒業後には、その植田と共に鹿島アントラーズに加入することが決まっていた。と言っても、豊川によれば「あいつのおかげで鹿島に獲得してもらえた」と笑って振り返る。
「もともと僕はプロ志望だったんですが、どこで行き違ったのか平岡監督は僕が大学に進学すると思っていたらしくて。でも夏の進路相談でプロ希望の意思を伝えたら、『もっと早く言えよ!』と(笑)。でも、その後すぐにJクラブへの練習参加の話を持って来てくださって『熊本の赤のチームと、茨城の赤のチーム、どっちの練習に参加したい?』って聞かれたんです。でも…正直、僕は茨城の赤が分からずに『水戸ですか?』と聞いたら『違うよ、鹿島だよ!』と(笑)。だって、そんな状態からまさか鹿島の練習に参加できるとは思わないじゃないですか?! でも、聞いたところによると当時、植田狙いでJクラブのスカウト陣がたくさん大津の試合を視察に来ていて…その時に僕がプリンスリーグやプレミア参入戦で点を量産していたのを覚えていてくれたらしいんです。その流れで鹿島への練習参加が可能になり、最終的には植田とセットで獲ってくれた。多分、僕は植田のおまけだったと思いますけど(笑)、僕としては、鹿島に行けるなら、全然いいと思っていました」
そう思ったのは、鹿島の練習に参加して、クラブの伝統や名だたる選手のプレーに惹かれたからだ。柴崎岳(ヘタフェCF)や、土居聖真、大迫勇也(ヴェルダー・ブレーメン)らには食事に連れていってもらい、小笠原満男や岩政大樹らには紅白戦で刺激を受け、昌子源(トゥールースFC)には「ひたすら、面白い話を聞かせてもらった」と振り返る。中でも本山雅志(ギラヴァンツ北九州)には憧れを強くした。
「僕よりかなり年上なのに僕みたいなクソガキにもめちゃめちゃ優しくて。わざわざ僕のところに来てくれて『本山です。よろしくお願いします』って握手を求めてくれた。練習中もすごくいろんなアドバイスをくれて…その人間性に感銘を受け、僕も本山さんみたいになりたいと鹿島への思いが強くなった」

点取り屋としての自覚が芽生えた中学3年生以来、「点を取ってチームを勝たせる」ことを
自身の使命としてきた。

■ 「チャレンジし続ける自分」を求めた初の海外で『ハットトリック』の衝撃。

鹿島への加入を決めた時から「1年目は自分の土台を作る時間」だと決めていた。もちろん、公式戦に出場できれば理想だと思っていたが、それが叶わなくてもまずはプロとして戦っていくためのベースになる体、プレーの基盤を作ることを自分に求めた。
「結果的に1年目は出場できなかったけど、苦しいとは思わなかったです。というか、そんなことを考える暇がないくらい毎日、周りのレベルに食らいついていくのに必死でした。高校時代とは全てにおいて次元が違い、『来るチームを間違えた』と思ったこともあったくらいです。でも、少しずつプレースピードに慣れて、少しずつ自分を出せるようになり、それが2年目の開幕スタメンに繋がったんだと思います」
その言葉通り14年の開幕戦はスタメンに抜てき。白星発進に貢献すると、3節・サガン鳥栖とのアウェイ戦では家族や恩師も多数駆けつける中、J1初ゴールを叩き込む。その後、一時期は出番を失ったものの、終盤は再び試合に絡む中でシーズンを終了。だが、15年は再び試合から遠ざかることが増え、その状況も受けて16年には自身にとって初めてとなる期限付き移籍を決断した。鹿島で築いた土台をもとに試合の中で課題を見つけたいと思ったことや、目前に迫っていたリオ五輪の舞台に立つには試合経験を積む必要を感じていたこと。そして、鹿島時代にお世話になった岩政が在籍していたことが決め手になった。
「大樹さん(岩政)とは鹿島で1年しか一緒にプレーしていないんですが、紅白戦で対峙するたびに、いろんなアドバイスをもらいました。紅白戦で僕がいい動き出しをすると『いいぞ、そういう動きを繰り返せ』と声をかけてくれることもあったし、DFが嫌だと思うポジショニングや動き出しについても、たくさんのことを教えてくれました。その大樹さんがいることから岡山への移籍を決めましたが、ステージがJ2になることへの不安は全くなかったです。と言っても、岡山での1年目はほぼ途中出場でしたが、チームとしても途中から僕が出て点を取るという流れがハマっていたし、それでリーグ戦でも10得点を取れたのでいいか、という感じでした」
その中では、目標の1つに掲げていたリオ五輪メンバーから落選するという経験もしたが、不思議なことに落ち込むことはなかったそうだ。その証拠に、メンバー発表の翌日に戦ったJ2リーグ21節の清水エスパルス戦では1ゴール1アシストの活躍を見せた。
「清水戦で結果を出せたことで、自分でも切り替えられているなって思いました。実は長澤徹監督にメンバー発表直後に呼ばれて『おめでとう!』って言われたんです。『お前のサッカー人生を後になって振り返ったら、きっと『おめでとう』と言えるくらいのバネになるぞ』って。『おめでとう』と言ってくれたのは長澤監督だけでしたが、あの人らしいなって思ってすごく嬉しかった」
それが本当の意味で自身のバネになったと感じたのは、岡山への期限付き移籍を終え、初めての海外、KASオイペン(ベルギー)に移籍してからだ。小学生の頃から海外への憧れは強く、オファーにはほぼ即決でチャレンジを決めた。
「国やレベル、チームに関係なく、ただただ、自分がプロサッカー選手として成長することだけを考えた決断でした。英語も全く話せなかったけど、一度きりの人生だし、結果的に失敗に終わってもチャレンジし続ける自分でいたいな、と。と言っても最初は全然試合に出られなかったんですけどね(苦笑)。ただ、考えてみたら僕は子供の頃からずっとそうだったので。最初はいつもうまくいかなくて、壁にぶち当たって、乗り越えようと頑張って、ようやくそこでご褒美をちょっともらえるという繰り返しだった。だからこそ、気持ちを切らさずに練習でアピールすることだけを考えていました」

子供の頃も、今も「壁にぶち当たって、乗り越えようと頑張って、ようやくご褒美をちょっともらえる」のが自分だと笑う。

その積み重ねの中で豊川は2017-18シーズンの終盤、練習試合で得点を量産したことでベンチ入りのチャンスを掴む。しかも、27節のズルテ・ワレヘム戦でベルギー・ジュピラープロリーグデビューを果たすと、その試合から4試合目となった最終節REムスクロン戦では33分間の出場ながら、チームを残留に導く『ハットトリック』を決めた。
「クロード・マケレレ監督は、私生活や練習態度を含めて選手をよく観察している人で、僕の調子が上がってきたタイミングでポンと起用してくれました。しかも、チームにとっての大一番で3得点1アシストですからね。出来過ぎのご褒美でしたが、それで一気に信頼を得ることができました」
事実、オイペンでの2シーズン目となった2018-19シーズンも、豊川はケガで欠場した2試合を除く、ほとんどの試合に先発出場。プロになって初めて、フル稼動でシーズンを戦い抜いた。その中では FWとして開眼したことも多いと言う。
「海外でプレーしていると自分の体が決して大きくないと痛感しさせられますが、だからこそ、駆け引きをするとか、まともに当たっても勝てないからスピードで抜けるとか、効果的に背後を取ってボールを受けるなど、自分が前線でより活きる方法を考えるようになりました。しかも、オイペンは残留を争うチームで守勢に回る試合も多く、1試合の中で得点チャンスもそう多くはない。だからこそその1本を集中して決めるメンタルとか、我慢強さを身につけられたのは自分にとってすごくいい経験になった。あとは、難しく考えずにやれていることもいいのかもしれない。オイペンに移籍をする際に長澤監督にも言われたんです。『いろんなことが起きるだろうけど、とにかく難しく考えるな』と。考えてもいいことはないし、お前の場合は、考えられるタイプでもない、と(笑)。実際、その言葉を胸に、前に進むしかないと思って、毎日を必死に戦ってきたから今がある。未だに言葉は通じないけど、それもキャラクターで乗り越えられている気がしますしね (笑)。そう考えてもここに来てよかったと思っています」
と言っても、来シーズンの去就は現時点では未定だ。自身としては、昨シーズンの最終戦でハットトリックを達成した時のような、しびれる感覚をビッグマッチで経験したいと思っていることから、ベルギーリーグの上位チームや、違うリーグでのプレーも視野に入れていると言う。ただし、その先に描くものは何もない。昨シーズン、同じベルギーの地で活躍し、7月にボローニャFC(セリエA)への完全移籍が発表された冨安健洋(ボローニャFC)や植田直通らが日本代表入りを果たしていても、彼の頭の中には『日本代表』がよぎることもないそうだ。それよりもまずは、自分の成長のために、目の前のことにしっかり向き合い、壁にぶち当たっても前へ。それが自分らしくていい。

<PROFILE>
豊川雄太(とよかわ・ゆうた)
1994年9月9日生まれ。熊本県出身。
幼稚園生のときにサッカーを始め、高校サッカー選手権大会の常連校として知られる熊本県立大津高校に進学。13年に鹿島アントラーズに加入して3年間プレーしたのち、16年にファジアーノ岡山へ期限付き移籍。18年には念願の海外、KASオイペンに移籍した。同シーズンの終盤から出場チャンスをつかみ、最終節のSVズルテ・ワレヘム戦ではチームを残留に導く3ゴール1アシストの活躍を見せると、昨シーズンは1年間にわたってレギュラーとして活躍した。

text by Misa Takamura

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