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Vol.6 京都サンガF.C./MF藤本淳吾

  • 2019.10.21

    Vol.6 京都サンガF.C./MF藤本淳吾

みんな、昔はサッカー少年だった

■ ラモン・ディアスの『左足』に憧れた少年時代。

左足から繰り広げられるパスやドリブル、そしてキック。06年にプロサッカー選手としてのキャリアをスタートさせてから今日まで、高い技術とアイデア豊富なプレーで攻撃を彩ってきた藤本淳吾だが、意外にも子供の頃は「平凡な選手だった」と振り返る。生まれ持っての運動神経の良さと正確な『キック』には自信があったものの、それ以外にこれといった特徴はなかったそうだ。
「親父が日本鋼管サッカー部(JSL)の選手で、引退後も同チームのマネージャーをしていたことから、小さい頃から親父にくっついて試合を観に行き、よく選手の皆さんに遊んでもらっていました。その流れで当たり前のようにサッカーを始め、幼稚園のときに日産自動車サッカー部(横浜マリノスの前身、現横浜F・マリノス)のスクールに加入しました。特徴といえば左利きだったことくらいで、小学2年生時に横浜マリノスプライマリーに加入してからも、周りと比べて特に目立っていた記憶はありません。ただ、サッカーは楽しいな! と思っていたことだけは間違いないです」

横浜マリノスプライマリー時代、
上段一番左で優勝盾を持っているのが本人。
下段左から二番目には藤本が憧れた
ラモン・ディアスの息子の姿も。

小学3年生の時にJリーグが開幕。当時、夢中になったのは横浜マリノスでプレーしていたラモン・ディアスだ。同じ左利きの元アルゼンチン代表FWに釘付けになった。
「Jリーグの試合でボールボーイをしたり、旗を振って歩いたりしていたので、よくスタジアムで試合を観戦したんですけど、ラモン・ディアスばかり見ていました。彼って本当に左足しか使わないんですが、ドリブルで切り返して、相手DFの嫌なところにボールを通したり、逆サイドに展開したり、左足からのループシュートも正確で…。『あんな風にプレーしたい! 僕もマリノスでプレーするんだ』と思っていました」

横浜マリノスプライマリー時代は、
横浜マリノスのJリーグのホームゲームで
旗を振って歩き『プロ』への思いを熱くした。

横浜マリノスへの強い憧れから、中学生になるにあたって、同ジュニアユースのセレクションに参加。晴れて憧れのチームの一員になれたものの、監督やコーチに求められることが増え、それが自身の描くプレーと異なることも多かったからだろう。藤本は胸に溜まっていく葛藤をうまく消化できなくなっていく。
「ジュニアユース時代はサイドハーフをしていたんですけど、当時のコーチに『味方がボールを持ったら、サイドに開け』って言われて…。僕自身は開いているつもりだったのに、コーチは『タッチラインまであと一歩、いけるだろう。ラインまでしっかり開け』と。それが、どうしても納得できなかったんです(笑)。一応、僕なりに、タッチラインと自分との間に一歩分、スペースを残しておけば縦にも突破できるのに、という理由もあったんですけど、それをうまく言葉で説明できなくて。今になって思えば、とりあえずコーチの言う通りにタッチラインのところまで開いた上で、自分の思うポジションをとればよかったんですけど、そんな知恵もなかったからそのポジショニングを繰り返し注意された。それが嫌でだんだんサッカーに集中できなくなってしまい、明らかに成長していない自分も感じていたら、中学2年生になるにあたって契約解除になったというか…。当時は毎年、1学年上がるたびに同学年から5人ずつ削られることになっていたんですけど、その5人に入ってしまい、マリノスを離れなければいけなくなりました」
この事実は藤本にとって初めて味わう大きな挫折に。表向きは強がっていたものの衝撃は大きく、「じゃあ、どこでサッカーをすればいいの?」という思いと自分に対する苛立ちから、やめて1週間は一切、ボールを触ることなくゲームセンターなどで友だちと遊んでいたそうだ。だが、それを心から楽しいと感じたことはなく、自然と「サッカーがしたい」という思いに駆られたことで、父の元チームメイトが監督を務める横浜栄FCに加入した。
「ジュニアユースはやめても、マリノスへの思い、憧れは根強かったし、勉強が好きではなかった分、『推薦で高校に行けるようにしよう』と思っていたので、とりあえずサッカーを頑張ろうと思っていました。そういう意味では中学生時代はまだサッカーへの意識も高くなかったし、ただサッカーが好きだから続けたい、みたいな感じだったと思います。それを如実に示しているのが、ぽっちゃりしていた体型(笑)。そんな状態だったので、高校を選ぶ時も全国大会にいける可能性があるチームより、あくまで推薦でいける高校を優先して、桐光学園高校への進学を決めました」

■ 初めての日本代表。そして『世界』。

桐光学園サッカー部に加入して意外だったのは、想像していた以上にチームのレベルが高かったことだ。「最近は選手権に出場していないし、さほどレベルは高くないはず」とタカをくくっていたが現実は違い、上級生にはマリノスのジュニアユースからユースに昇格できずに所属していた選手もいるなどレベルは高く、1年生の時は全く試合に絡めなかった。
「公式戦前になると、僕らは18〜20人くらいで行われるAチームの練習を、ボールボーイのように周りで見ていて、それが終わって初めて自分たちの練習ができるという感じでした。それでも一応はAチームにいたけど、試合に出場できる感じは全くなかった」
幸いしたのは、当時の神奈川県には公式戦への出場機会に恵まれない1年生を対象に、市選抜の大会が存在したこと。藤本も川崎市選抜の一人として同大会に参加し、定期的に試合経験を積み上げたそうだ。しかもそこでのプレーがU-16日本代表の監督をしていた田嶋幸三(現日本サッカー協会会長)の目に留まり、同代表メンバーに抜擢された。
「記憶が曖昧ですけど、田嶋さんが『左利きでサイドができる選手』を探していたことから僕の名前が挙がり、市選抜の大会を見に来てくださって、U-16の合宿に選ばれたのがスタートだったと思います。僕が早生まれだったことも幸いしました。と言っても代表には同じ左サイドハーフに高木和正(カマタマーレ讃岐)がいたし、まさか世界大会にも出られるとは思っていなかったのですが、高木が怪我をしたこともあって僕が選ばれ、01年のU-17世界選手権トリニダード・ドバコ大会(現U-17ワールドカップ)に出場しました。そしたら、一気に自分の目線が上がったというか。国の代表として同世代の仲間と世界を戦う経験をしたことで、自分の中で何かが大きく動いた。実際、帰国後、高校で練習をしていても『今のプレーは切り返して抜けたけど、外国人DFなら足を伸ばせば届いたよな』とか、自然と高いレベルを想像してプレーできるようになった。加えて、当時、桐光の監督をしていた佐熊裕和に技術の部分で…それこそボールの止め方、動き方を徹底して教え込まれたのも良かったんだと思います。あの時期に学んだことは今でも自分のベースに残っています」

U-17日本代表やユニバーシアード代表で日の丸を背負った経験は、藤本を大きく成長させた。

実は、U-17世界選手権への出場に際して藤本は衝撃的な体験をもう一つしている。01年9月11日に起きたアメリカ同時多発テロ事件だ。この少し前、同大会への出場に向けてニューヨーク経由で現地入りをしていた彼は、現地に到着後に事件の話を耳にする。結果的に開催が危ぶまれたものの試合は予定通りに行われることになり、腕には喪章を巻き、キックオフ前に黙祷をして試合を戦った。
「偶然にも僕たちの初戦の相手はアメリカで…母国や家族を心配しながら試合をするアメリカの選手たちを見て、本当にいろんなことを感じました。また僕らは帰りもニューヨーク経由の移動だったので、ほんの数日の間にワールドトレードセンターのツインタワーがある風景とない風景を空の上から見て…テロの怖さを間近で感じ、自分たちの置かれている今だとか、平和とか、いろんなことを考えさせられました」

桐光学園高校3年生時に戦った、全国高校サッカー選手権大会、神奈川県二次予選にて。
当時も『左足』が武器に。

■ 子供の時の記憶から繋がった、筑波大学へ。

そんな風に、心身両面で様々な経験をしながら高校3年間を過ごした藤本は、3年生最後の大会、選手権の神奈川県予選もライバル、桐蔭学園に敗れて高校生活を終える。その上で、次なる舞台に選んだのは筑波大学。マリノスからのオファーも含め、いくつかのJクラブから声をかけられたが、最終的には父にも相談して大学進学を選んだ。
「高校3年の時に、一度マリノスの練習に参加したんですけど、当時のマリノスは前年度にJ1リーグ戦の1stステージで優勝していたし、シュンさん(中村俊輔/横浜FC)や能活さん(川口能活)ら錚々たる顔ぶれが揃っていて、とにかく巧いな、と。そのことを親父に話して『今の自分では、マリノスにいくという夢は叶っても3年で消えちゃうかもしれない』という結論になり、それなら大学4年間でしっかりと自分を磨いた上でプロの道を探ろうという話になった。当時は大学からJクラブに加入して活躍していた選手が多かったのもありました」
その上で筑波大学を選んだのは、幼少の時に嬉しい体験をしていたからだ。当時、父に連れられて関東大学リーグの試合を観戦に行った藤本は試合後、偶然、足元に転がってきたボールを拾って遊んでいた時に、ある大学生に声をかけられたという。
「そのボール、お兄ちゃんたちのだから返して」
「え〜。もっと遊びたい」
「サッカーやってるの? なら、そのボールをあげるよ」
「いいの?! ありがとう」
そのあと、父に「筑波大学の選手だよ」と教えられた藤本は、その場で父に告げたそうだ。
「僕も大きくなったら、筑波大学に行く!」
高校生になり、大学への進学を考え始めた中でその名を思い出した彼は、筑波大学への進学を希望。結果的に、学力面で定められた評定平均をクリアしていたこと、代表選出などの基準を満たしていたことから、スポーツ推薦で同大学へ進学した。

■ 『プロ』を意識して、常に目線は高く。

筑波大学では1年生の時から左サイドハーフとしてレギュラーに定着。仲間にも恵まれ、毎年のようにタイトル争いに絡み、3、4年生時には関東大学リーグを制覇するなど、数々の結果を掴み取る。また個人としても3、4年生時に同リーグのアシスト王とベストイレブンを獲得。05年にはユニバーシアード代表として『10』を背負い、大会MVP、得点王に輝くなど大活躍を見せた。

筑波大学時代は1つ年上の先輩でのちに清水エスパルスのチームメイトとなる兵働昭弘(上段左から2人目)らと、
数々のタイトルを手にした。

「筑波は毎年5人、スポーツ推薦で選手を獲得していたことから1つ上の兵働(昭弘)くんなど、各学年にうまい選手が揃っていて、すごくレベルが高かったし、その中でサッカーをするのがめちゃめちゃ楽しかった。また、ドリブルをはじめ、左サイドハーフでのプレーの感覚を掴むなどサッカーの技術を磨きながら、頭を使ってプレーすることを覚えたのもこの頃だったと思います。当時は清水エスパルスでプレーしていた三都主アレサンドロの左サイドからの仕掛けを参考にしていました」
また藤本にとって大きかったのは、2、3年生時の指導者との出会いだ。彼の2年生時に監督に就任した木山隆之(現モンテディオ山形監督)や西ケ谷隆之コーチ(松本山雅F.C.U-18監督)ら、元Jリーガーである彼らに受けた指導は、その成長に拍車をかけた。
「1年生の時に大学サッカーのレベル、質などを体感し、2年生になってからは、プロを経験した木山さんと西ケ谷さんが『ここからプロになるにはどうすればいいのか』を明確に教えてくれました。どんな試合、プレーに対しても『大学生に通用するくらいのプレーで満足していてプロになれると思う? プロならそれくらいできて当たり前だよ』と、常に目線を上げられる指導をしてくれたから、意識高くやり続けられたんだと思います」
その中では大学4年生時に清水の強化指定選手に。6月にはナビスコカップ(現ルヴァンカップ)でJリーグデビューを果たす。大学卒業にあたってはその清水も含め、10クラブを超えるJクラブからオファーを受けたが藤本が選んだのは清水だった。

筑波大学時代は圧巻の存在感を示したことから、
卒業に際してはたくさんのJクラブが
争奪戦を繰り広げた。

「10月の時点で4クラブくらいに絞り込み、特別指定で練習にも参加していた清水を除く、全チームに練習参加をしたんです。その中で監督の熱を一番感じたのが、清水の健太さん(長谷川/現FC東京監督)でした。健太さんは特別指定で練習参加した時もすごく熱を持って指導してくれたし、最終日に挨拶に行ったら昼飯に誘ってくれて『一緒にやろうぜ』と言ってくれて…。その威圧感に圧倒されて思わず『はい!』って言っちゃったんです(笑)。でも、当時の清水は残留争いをしていましたからね。それを踏まえて勇気を振り絞って『清水がJ2に降格してしまったら考えさせてください。大卒は寿命も短いからできればJ1でやりたいです』と伝えたんです。そしたら『ここから2つ、残留に向けた直接対決の連戦が終わったら電話する。それから決めろ』と言われ、僕も『残ったら清水に行きます』と言って別れたんです。そしたら、実際にその2試合を連勝して残留を決めたあと健太さんから電話がかかってきたので、お世話になります、と伝えました」

■ 清水エスパルスで始まったプロ生活。プレッシャーをはねのけるために求めた『結果』。

06年、プロサッカー選手としてキャリアをスタートさせた藤本は、1年目から清水の『10』を託され開幕スタメンを飾る。伝統のある清水のエースナンバーを背負う重圧は想像以上だったが、結果を出すことでそれを跳ね除けようと考えていたそうだ。
「マスコミの前では『静岡出身でもない僕にとってノボリさん(澤登正朗)のつけていた10番はプレッシャーだけど、これを力に変えていきます』みたいに言っていましたけど、内心はやばい、と(笑)。街を歩いていても声をかけられるし、いろんな意味で世界がガラリと変わり、1つ1つのプレーの重みや責任感をめちゃめちゃ感じていた。そしたら2節のホーム開幕戦で点を取れたこともあって、うまく波に乗ることができ、結果的にその年は、ケガをした時期を除く28試合に先発して8得点と数字を残せた。またチームとしても前年度を大きく上回る4位でシーズンを終えられたことで初めて重圧から抜け出せました」
その後も、目を見張る活躍を見せてきた。2年目の07年には自身の誕生日に日本代表デビューを果たすと、同年の『2007 JOMOオールスターサッカー』にはJ-WEST、J-EASTの両軍をあわせて最高得票数(358,659票)を集めて出場する。キャリアハイの13得点を挙げた10年には自身初のJリーグベストイレブンにも選出された。
それは11年に名古屋グランパスに移籍してからも変わらず、常にチームの中心選手として活躍を見せながら、11、12年には再び日本代表に復帰。30歳の時には幼少の頃から憧れたマリノスへの移籍を決めた。
「プロとしてのキャリアを重ねながら、うっすらと30歳でマリノスに帰る自分を描いていて。といっても、人生は理想通りに進むわけではないから、そうなればいいな、くらいに思っていたら現実になった。そう考えてもすごく幸せなサッカー人生を送れてきたなって思います。もちろんそれは、清水時代の兵働くんやトシさん(斉藤俊秀)、モリさん(森岡隆三)、ユキさん(佐藤由紀彦)、キタジさん(北嶋秀朗)らに始まって、名古屋、マリノス、ガンバ大阪と、常にたくさんの刺激をくれるチームメイトや指導者の方と出会えたからで…。どのチームでもサッカーを楽しめて、もっともっと、と欲を持ってサッカーをしてこれたから、こうして今もサッカー選手でいられるんだと思う」

そう話す彼は、35歳になった今年の7月に京都サンガF.C.への期限付き移籍を実現し、自身にとって初めてのステージとなるJ2リーグを戦っている。加入してすぐにケガを負うなどアクシデントにも見舞われたが今は戦列にも復帰。仲間とともにJ1リーグ昇格を目指している。
「これまで所属したJ1クラブに比べたら、球際や1つ1つのプレーの質に違いはあるし、基本的なところで経験値が足りないなって思うことはあります。でもそのために僕を呼んでもらったはずなので。ここからさらに正念場の戦いが続く中でしっかりとチームの戦力になっていけるように、プレーの質を落とさずにやっていこうと思っています」
その中で描くのは『タイトル』だ。
個人的には華々しいサッカーキャリアを築いてきた藤本だが、実は『タイトル』には縁遠く、これまで所属したどのチームでも国内タイトルを獲得したことがない。そのことは京都に身を置くにあたっても、また自身のサッカー人生で考えても必ず実現したいことの1つだと言う。
「だって…切磋琢磨して戦ってきた仲間とのビールかけですよ。絶対、楽しいに決まっているじゃないですか! それを残りのキャリアでどうしても味わいたい」
その思いが、35歳になった今も彼を走らせている。

<PROFILE>
藤本淳吾(ふじもと・じゅんご)
1984年3月24日生。173センチ、69キロ。
幼少の頃は横浜マリノスプライマリーで育ち、中学生になるにあたって同ジュニアユースに加入。中学2年生の時に横浜栄FCに籍を移す。桐光学園高校を卒業後は筑波大学に進学。1年生時からレギュラーとして活躍し、大学4年間は数々の個人賞を受賞しながらタイトル獲得に貢献した。06年、清水エスパルスに加入。1年目から『10』を背負って活躍を見せ、07年に日本代表デビュー。11年からは名古屋グランパス、14年からは横浜Fマリノス、16年からはガンバ大阪とビッグクラブを渡り歩き、今年7月から京都サンガF.C.へ期限付き中。

text by Misa Takamura

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