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Vol.7 ジュビロ磐田/FW大久保嘉人

  • 2019.11.20

    Vol.7 ジュビロ磐田/FW大久保嘉人

みんな、昔はサッカー少年だった

■ ほんの少しの『自信』が、サッカーを始めるきっかけに。

日本のトップリーグ、J1リーグを舞台に誰よりもたくさんのゴールを決めてきた。その数、184。2位の選手に20ゴール以上の差をつけた圧巻の数字だ。正真正銘の点取り屋。今では誰もが彼をそう称するが、意外にも高校2年生までは「くすぶりまくっていた」と笑う。

大久保嘉人。そのサッカー人生は福岡県で始まった。

本人によれば「単なる田舎者」。小学校低学年だった頃、サッカーを始めるまでの話だ。
その頃から運動神経は良く、足も速かった。マラソン大会でも1番だったが、自分に自信が持てるものは何もなく、唯一ハマったという一輪車に乗る練習に明け暮れた。
「小学1年生の時に友だちに誘われてサッカーの体験会に行ったけど、俺だけ全然ボールが蹴れなくて。それが嫌で、サッカーはすぐにやめた(笑)。自信を持てるものもなかったから前にグイグイ出て行くこともなかったなぁ。唯一、頑張ったのが一輪車。乗ろうとしたけどうまく乗れずにムキになり、1年くらい練習して乗れるようになったのは覚えてる。それなら、サッカーも練習したらよかったのに、って思うけど、周りの友だちはみんな上手にボールを蹴れるのに、自分だけうまくいかないのが子ども心に恥ずかしかったんやと思う」

サッカーを始めるまでは「自分に自信が持てるものが何もなかった」と振り返る幼少期。

一度は諦めたサッカーをやる気になったのは、そこからやや時間が過ぎた3年生の時だ。またしても周りの友だちに誘われて体験会に参加してみたら、最初のシュートがうまく足に当たってゴールにつながり、ほんの少し自信が持てた。

「小さい頃から合気道や野球といった習い事は結構していたけど、合気道は座っている時間が長くてつまらなかったからすぐにやめ、野球も楽しかったけどのめりこむほどでもなく…。そんな時にサッカーの体験会に行ってみたら、シュートが入って『俺もできるやん』と。それがきっかけで『サッカーをやる!』となったものの、お父さんに飽き性な性格を指摘されて『お前は何かを始めても長続きしない。サッカーを始めたいなら6年生まで続けろ』と言われ、卒業まで頑張ると約束して、苅田サッカースポーツ少年団(以下、苅田SS)に入りました」

苅田SSではスピードとドリブルを武器にした
『仕掛け』が武器だった。

本人曰く「理由はわからない」そうだが、加入して間もない頃に、3年生ながらいきなり背番号『10』を託され、6年生の大会に出場した。
その頃から足の速さには自信があり、同学年が相手なら俊足を活かしたドリブルでの仕掛けも思うようにできたが、6年生が相手となればそうはいかない。ボールを持った途端に体格差で上回るお兄ちゃん選手に何度も吹っ飛ばされた。それでも、臆することはなかった。

「同学年の中でも一二を争うくらい体が小さかったから、体の大きな選手にぶつかっていく怖さもあったけど、それ以上に『何くそ』という気持ちの方が大きかった。たま〜に、体をぶつけられても倒れず持ちこたえてスルスルっと抜けられたけど、基本的にはいつも吹っ飛ばされてたね。それでも当時は『仕掛ける』のが楽しかった」

小学4年生。体は小さかったが、気持ちは強く、
何度で倒されても、相手に向かっていった。

といっても「吹っ飛ばされてばかり」なのが嫌になって、小学4年生の時に一度だけ、サッカーをやめようとしたことはある。ただ、父との約束が頭にあったため、しばらくは家族に黙って練習をサボった。
「試合ならまだしも、練習でも…1:1の練習をすると、上級生が決まって俺を指名するんよね。俺が相手なら競り勝てて楽しいから。でも、俺はつまらんから嫌になって。やめると言ったら怒られそうで毎日、練習に行くフリをして家を出て、練習が終わるくらいの時間に帰ってた。でも、すぐにバレて、怒られ…その頃には遊びにも飽き始めていたからちょうどいいかと思ってサッカーに戻った」

小学5年生の時にJリーグが開幕。大久保も「プロサッカー選手になりたい」という思いを強くしながらサッカーに夢中になった。憧れたのはブラジル代表のFW ロマーリオ。彼が6年生の時に開催された94年のワールドカップ・アメリカ大会では、小柄な体を巧みに使ってドリブル、シュート、フェイントと多彩な才能を示すスーパースターに自分を重ね、部屋には彼のポスターを貼って夢を膨らませた。と言っても、映像でよく観たのは、ロマーリオではなかったが。

「アメリカW杯をお父さんとテレビ観戦し、ロマーリオのプレーを観ながら『俺みたいに背が小さいのに、この選手はすごいね』って話していたのに、ロマーリオのビデオがなかったのか、お父さんが買ってきたのはマラドーナのビデオで(笑)。でも、マラドーナも小柄だし、巧かったから面白くて、ずっと観てた。6年生になっても相変わらず体は小さかったけどチームで一番点も取っていたし、自信満々でプレーしていたら…初めて選ばれたナショナルトレセンで『なんやこれ?』と。そこに集まっていた選手がみんな、同じ歳とは思えないくらい体も大きいし、巧いし、速くて『ああ、こういう奴らがプロになるんやな』と衝撃を受けた」

といっても、その衝撃が、意識や行動の変化に繋がることはほぼなかった。自分より巧い選手のプレーを盗もう、学ぼうという考えもなく、体の小ささを自覚しながらも「お菓子ばっかり食べてた」と笑う。
「今の時代は子供の頃から食育に力を入れるのが当たり前になりつつあるけど、俺が子供の頃はそういった情報もなかったから。体を大きくするには、牛乳だ! みたいな話は聞いたことがあるけど、2歳の時に中耳炎にかかり、医者に牛乳を飲むのを止められていたしね。ちなみに中耳炎が理由でプールにも入れなかったし、殴られたらすぐに鼓膜が破れるから、うちの両親はいつも監督に『右耳が弱いので殴るなら左側を殴ってください』ってお願いしてた(笑)」

苅田SSの卒団式では、
照れながらも両親に感謝の気持ちを伝えた。

■ 国見高校2年生の時にチャンスを掴み、レギュラーに定着。

本当の意味で自分への『焦り』や『危機感』を備えるようになったのは、長崎県の国見中学校に入学してからだ。苅田SSの監督に「国見に行ったらどうだ?」と持ちかけられ、父にも「1%でもプロになれる可能性があるなら、かけてみろ」と背中を押されて、渋々ながら親元を離れた。

「友だちと離れたくなかったから地元の中学に行きたかったけど、『プロ』と言われて、それなら行くかと。でも、親元を離れた長崎での生活は大変で…。寝泊まりだけはできる…言い方は悪いけど、ものすごくボロい下宿が学校の近くにたくさんあって。1年の時はそこに住んでいたけど、床がコンクリートじゃないから雨が降ったらビチャビチャになってた(笑)。食事だけは大家さんの家で美味しいご飯を食べさせてもらっていたけど、掃除や洗濯など身の回りのことは全部下宿生だけでやって…今になって思えば、すごい生活をしていたなって思う。サッカーも…正直、苅田SSは福岡県では強かったから長崎に行っても楽勝だろうと思っていたら、地元の奴らがめちゃめちゃ巧くて。聞けば、長崎は県ぐるみでサッカーを強化する体制があったから小学生のうちに基礎技術が叩き込まれているらしく、最初はついていくのに必死だった」

親元を離れて住んでいた国見中学時代の下宿。
洗濯、掃除と全て自分たちでやっていた。

小学生時代が、走力を鍛えるトレーニングやいろんなパターンでのシュート練習、ミニゲームなどで基礎技術や体力を備えた時間なら、国見中学時代はチーム戦術を学んだ時間だ。国見高校の監督を兼任していた小嶺忠敏監督や同校が海外から招聘していた外国人スタッフらに教えられた連携の中での崩しや、組織としての戦いは彼にとって目新しく、刺激的だった。

国見中学3年生の時に出場した
九州中学校サッカー新人大会にて。

とはいえ、高校進学にあたっては当初、地元の福岡へ戻ることを考えていたそうだ。それもあって福岡県の強豪、東福岡高校の願書を取り寄せるも、学力レベルが達していないことを知り、断念。結果的に、大久保は推薦枠で国見高校に進学した。
ただし、県外から集まってくるハイレベルな選手との競争には勝てず、1年生時はBチームはおろか、Cチームでプレーしていたことも。同級生で、のちにプロサッカー選手となる松橋章太らは1年の時からAチームに駆り出されたが、大久保は試合になるといつもスタンドでメガホンを持ち、仲間に声援を送った。
そんな彼にチャンスが巡ってきたのは2年生になってすぐの新人戦だ。大会直前に、アンダー世代の代表にも選ばれていた2列目の先輩選手が諸事情でサッカー部を退部。それによって急遽、トップ下のポジションが空き、コーチに声を掛けられた。
「このポジション、できるか?」
「やったことはないですけど、やってみます」
その際、「これが最後のチャンスだと思え」と言い渡された。

「高校入学にあたり小嶺先生から『できないことをやらなくていい。長所を伸ばせ』って言われていたから、いつもドリブルからのシュートをひたすら練習していて。個人の課題に取り組む朝練でも、そればっかり。そしたらチャンスが来た。しかも最後だと言われたから必死で…。初めて自分からコーチの元に何度も足を運び、どういう動きをしたらいいのかを教えてもらって試合に臨んだら…相手が弱いチームだったのもあるけど、俺が4点取って、6−0で勝った。それで自信がついたのか、直後の『FBS杯 高校サッカーチャンピオン大会』でも得点王になったしね。しかも、それをセレッソ大阪のスカウトの方が見にきてくれていて『順調にいけば、セレッソにきてほしい。頑張れ』と言ってもらい、俄然やる気(笑)。2年生の冬に戦った、高校サッカー選手権大会前には小嶺先生にプロ入りの意思を聞かれて『来年1年あるからまだわからないけど、目指そうと思うし、オファーがきたら行きたいです』と答えました」

彼の言葉にある『ドリブルからのシュート練習』だが、当時、大久保が重きを置いていたのは、子供の時から得意だった『ドリブル』だ。ただ、仕掛けて終わるのでは面白くないとの考えから、その延長線上で『シュート』を打つことが増え、そこに正確性を求めるようになったと言う。

「国見のグラウンドは広かったから、シュートを外したら、かなり先まで自分でボールを拾いに行かなくちゃ行けなくて(笑)。それが嫌で、シュートを打つ時にはいつも足のどこで蹴ったらどんな回転がかかり、どんな軌道で飛ぶのかを考えながら打ってた。あとはとにかくシュートを打つまでの過程で倒れないこと。コーチにも『簡単に倒されているようでは上には行けない』と言われたことから、この頃は、体のぶつけ方をすごく工夫していた気がする。体の大きな相手にまともに真正面からぶつかるのではなく、下からぶつかるとか、敢えて一度は吹っ飛ばされたフリをして相手に油断させて、でも倒れないようガッと踏ん張って持ち直し、ドリブルでつっかけてゴールを取るとか。小さな体でも競り勝てる方法をいつも考えてた」

そうした個人での結果がチームの結果に結びついていったことも大久保の『自信』をさらに膨らませた。現に、高校3年生時の2000年には、夏のインターハイに始まって、国体、選手権と『高校三冠』を実現。大久保もインターハイと選手権の両方で大会得点王に輝く。それ以外にも練習試合や夏の遠征を含め「負けた記憶がない」くらい、勝ちまくった。

高校2年生からレギュラーに定着した国見高校では『高校三冠』を実現。大久保と抱き合っているのは同級生の松橋章大。

そんな彼をJクラブが放っておかないはずがなく、高校卒業にあたっては高校2年時に声をかけられたセレッソはもちろん、鹿島アントラーズを除く全J1クラブからオファーが届いた。その中で大久保が選んだのは、セレッソ。地元アビスパ福岡への加入が濃厚と見られていただけに、福岡市内のホテルで行われた会見は驚きに包まれた。

「最終的には強化指定選手になっていたアビスパと、自分と同じように体が小さくてプレースタイルも似ている森島さん(寛晃/セレッソ大阪代表取締役社長)のいるセレッソの二択で考えていて。俺としては、国見のグラウンドにもサポーターが『ようこそ、アビスパへ!』みたいな横断幕を張ってくれていたしアビスパに傾いていたんやけど、前日になってなんか違う、と。当時のセレッソには代表クラスの選手も多かったし、その中で揉まれたら一気に花開くかも、って考え出したらセレッソに行きたい気持ちが止まらなくなって親に『やっぱりセレッソに行きたくなったけどどうしたらいいと思う?』と相談したら…。そこで『今更、それはダメだ』と言われたら諦めようと思っていたのに『そう思うなら自分で小嶺先生に言え』と。で、会見当日、先生の車でホテルに向かっている時に勇気を振り絞って気持ちを伝えたら一言、『おお、そうか』とあっさり(笑)。『この先の人生の方が長い。お前が決めたならそれでいい』とも言ってもらって、会見で『セレッソに決めました』と伝えたら、まぁ、すごいどよめきでした。毎日のように足を運んでくれていたアビスパのスカウトの方には申し訳なかったし、きっと監督や親も方々に気を使って、心苦しい思いをしたはずやけど、周りがそうやってわがままを聞き入れてくれたおかげで自分の思うスタートを切れた」

■ 得点とともに積み上げてきた、自信。

01年に始まったプロサッカーキャリアは今年で19年目を迎えたが、今でも大久保は「セレッソでスタートを切れたから今の自分がある」と胸を張る。森島寛晃のプレーをいつも間近で感じられたこと。その森島を含めてたくさんの先輩選手に可愛がられ、いろんなアドバイスをもらえたこと。ハイレベルな選手が揃う環境に育てられて成長できたこと。どれもが財産だ。
そのセレッソを皮切りに、在籍したクラブは、期限付きも含めて現在のジュビロ磐田まで全部で7つ。中でも13年から在籍した川崎フロンターレでは、前人未到の『3年連続得点王』という偉業を達成した。

「フロンターレに移籍したときは31歳になっていて、ここで活躍できなければ終わりだと追い込まれていたから必死で…。加入したての頃は俺への信用もないから、パスもなかなか出てこなかったけど13年のJ1リーグ2節の大分トリニータ戦の後半で、左サイドからFWにポジションを移した中で点を取ってからやね。ボールが集まってくるようになり、得点も重ねられて『俺はまだやれる』という自信が持てたのは。そうなると1本のパスに対しての心の余裕も全然違ってきて、力みなくシュートを打てるから得点がどんどん増えて…。これは仲間に恵まれたのも大きい。当時のフロンターレは周りに能力の高い選手も多く、いいパスをたくさんもらえたから。それもあって試合中も、1本目のシュートはいつも相手の動きをみるために『ジャブ』のような感覚で打ち、そこでの相手の反応を見て2本目を打つみたいな余裕もあった。ただ、『得点王』は一度でいいから取りたいとは思っていたけど、まさか3年連続取れるとは思ってもみなかった」

点取り屋としての覚醒のきっかけになったこととして、大久保は05年から在籍した初めての海外、RCDマヨルカ(リーガ・エスパニョーラ)での時間を挙げる。ドリブラーだった彼がスタイルを変えるに至った大事な1年半だ。

「それまでの俺はドリブラーでガンガン仕掛ける選手だったけど、スペインでは俺レベルの選手なんてたくさんいたから。この程度では通用しないと思い知ったことで、自分が生きる術を考えるようになり、周りを見てプレーできるようになったし、パスを出すことを覚えたし、何よりプレー中の『スピードの緩め方』を学び、点を取るコツみたいなものも掴めた。あの経験がなければ、得点王もなかったし、当時のプレースタイルからもケガに苦しむことも多かったと思う」

そんな大久保は今シーズン、所属するジュビロ磐田がJ1リーグで最下位と苦しむ中、自身のJ1リーグへの出場も、18試合、時間にして912分にとどまっている(注:31節時点)。ゴール数でも、初めて『沈黙』を続けている状況だ。
だが、悲壮感はない。
「仮にシュートを打ちまくっていて、得点がゼロなら焦りも生まれていると思うけど、今年に関してはそうじゃないから点を取れないことへの焦りもないし、取れていない事実が自信を揺るがすこともない。そう思えるキャリアがあってよかった」

仲間がつないでくれたパスを、誰よりも多くゴールにおさめてきた大久保だからこそ言える言葉。『184ゴール』によって備わった揺るぎない自信は、今も大久保をギラつかせている。

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<PROFILE>
大久保嘉人(おおくぼ・よしと)
1982年6月9日生。170センチ、73キロ。
福岡県に生まれ、苅田サッカーカースポーツ少年団でサッカーを始め、中学生になると同時に長崎県の国見中学に進学する。強豪・国見高校時代は、2年生からレギュラーの座をものにし、3年生の時には高校三冠を実現。自身もインターハイ、全国高校サッカー選手権大会で得点王に輝いた。01年にセレッソ大阪でプロキャリアをスタート。海外も含めて、移籍を繰り返しながら13年から在籍した川崎フロンターレでは3年連続得点王に輝き、昨シーズンにはJリーグ史上2人目となるJリーグ通算200得点を達成した。

text by Misa Takamura

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