■ 体力を持て余した幼少時代。
『じゃんけん』に負けてGKに。
幼少の頃から抜群の運動神経を持ち合わせていた。野球、水泳、バスケット、バトミントン。クラスでは何をやっても一番だった。
「同じ年の子の3倍以上、動いているんじゃないかってくらい、エネルギーが有り余っていた」
そう言って笑うのは母・妙子さんだ。幼少期はその持て余す体力を発散させるために水泳、マット運動、トランポリンに始まり、ピアノや習字まで、ありとあらゆる習い事に通った。サッカーもその1つで、小学1年生の時に地元の日吉台ウイングスに加入すると、足の速さも手伝ってすぐに点取り屋として活躍を見せた。かと言って、東口がすぐにサッカーにのめり込むことはなく、サッカーをしながらも野球好きの父とキャッチボールに講じることも多く、バッティングセンターにも足繁く通った。また水泳も、小学2年生から『選手コース』に昇格するとすぐに頭角を表したが、高学年になるにつれサッカーと水泳の大会の日程が重なることが増えたため、小学5年生で水泳をやめ、サッカーだけに熱を注ぐようになった。
フィールドプレーヤーからゴールキーパーに転向したのは4年生のとき。所属していた日吉台ウイングスが松原FCと合併してFCオウルズになったのがきっかけだ。『じゃんけん』が始まりだった。
「最初はじゃんけんに負けてGKをすることになったけど、いざやってみたら、面白いな、と。当時は同学年の中では背が大きい方で、ボール扱いも巧かったからだと思いますが、コーチ陣に絶賛され余計に調子に乗りました(笑)。ただ、当時はチームがそこそこ強くて、一方的に攻める展開になることが多かったんですよね。おかげで、試合になると殆どボールが飛んでこない。それがつまらなくて監督に『面白くないから次の試合はGKではなくFWをさせてください』って言いに行ったこともありました」
夜、ベッドで眠りにつく前に、ガンバ大阪のユニフォームを着てGKとして活躍している自分の姿を妄想するようになったのもこの頃だ。当時はサッカーに対して目標を描くでもなく、父親とガンバの試合観戦に出掛けても、試合中に寝てしまうような子供だったが、なぜかベッドに入ると未来の自分の姿が頭に浮かび、幸せな気分で眠りについた。
「野心も目標もなかった僕が、なんでそんな妄想をしたのかは謎だし、ましてやそれが現実になるなんて、夢にも思わなかった」
■ ガンバ大阪ジュニアユースチームに加入するも、身長が伸び悩む。
ガンバジュニアユースへの加入は、中学生になるにあたってFCオウルズのコーチに連れられ、同チームの練習に参加したのがきっかけだ。実は時を同じくして、セレッソ大阪アカデミーのスカウトをしていた故・久高友雄氏にも熱心に声を掛けられ、その人柄にも惹かれて気持ちが揺れたが、ガンバなら自宅のある高槻市から通いやすいと加入を決めた。同期には家長昭博(川崎フロンターレ)や本田圭佑(メルボルン・ビクトリーFC)らがいて、しかも、同じGKには「将来の日本代表」と期待されていたライバルがいたため、1年生時は全く試合に絡めなかったが、そのライバルが中学2年生時にラグビーに転向。さらに一歳上のGKがケガをしたことで、急遽、中学2年生時から試合に出場する機会が増える。だが、当時の東口は身長が伸び悩んでいた時期。ともすればフィールドプレーヤーよりも背が低く、試合に出ても自信のなさがミスに繋がって失点することも多かったと聞く。それでも前線の攻撃力に助けられた。
「いわば『棚ぼた式』に巡ってきたスタメンの座で、実力で手にしたものではなかったですからね。アキ(家長)や圭佑(本田)がいたので、前は点を取れるんですけど、僕自身はミスを連発してチームに迷惑をかけるばかりで…それによって自信をなくし、それがまたプレーに出てしまうという悪循環を繰り返していました。実際、僕のせいで負けた試合もあったと思います。3年生になってもそれは変わらず、身長が163〜4センチから伸びないことにも焦りを感じて、全然サッカーを楽しめませんでした。いや…正確には、初めてGKコーチの元で学ぶことができ、クロスボールの対応力など身につけられたことも多かったので、練習はすごく楽しかったんです。でも試合になると全然ダメで…どこまでも本番に弱かった。だからユースチームにも絶対に昇格できないと思っていました」
当時の東口を思い出し、「身体的な資質を総合的に判断して決めた」と話すのは、上野山信行氏(現ガンバ大阪取締役強化アカデミーアドバイザー)だ。彼のGKとしてのポテンシャルには魅力を感じながらも、苦渋の決断だったと振り返る。
「当時から試合を読む力や、フィールド選手のような視点で守れるセンス、足元の巧さなど、持っているポテンシャルは高かったとは思います。なので、この年代にありがちなメンタルが弱いとか、サボり癖があるとかなら、環境や指導者によって変えられる部分なので昇格させることも考えたと思います。でも東口くんの場合は、フィジカル的な物足りなさで、おまけにGKでしたから。ポジション柄、あまりにも小さかった彼をユースチームに昇格させることはできませんでした(上野山氏)」
とはいえ、東口のサッカーへの情熱が消えることはなかった。進学した京都の洛南高校は、ジュニアユース時代ほど環境面が恵まれておらず、GKコーチもいなかったが、その分、「自分で考えてプレーする」ことに繋げるなど環境悪をポジティブに受け止めて日々の練習に取り組んだ。加えて、ジュニアユース時代のようにフィールドにスペシャルな選手がいないことも、返って彼の責任感を強くした。
「GKコーチがいなかった分、自分でGK特集のDVDを観て必要だと感じたことをトレーニングに落とし込んだり、先輩のプレーを見て、自分なりに考えてプレーに生かすことを意識するようになった。またジュニアユース時代は、チーム自体が強かったので僕が少々ミスをしても、『フィールドがなんとかしてくれる』って思っていたけど、洛南は、後ろが頑張って踏ん張らないと大敗することもありうるようなチームでしたから。僕の中に『どれだけ崩されても、自分さえゴールを許さなければ負けることはない』って責任感が芽生えるようになり、それに伴ってプレーが変わっていく手応えも感じていました。結局、トレーニングって『やらされる』のではなく、自分で意図を感じて練習できるかが一番大事なんですよね。でなければ、ただの反復練習でしかない。…とか言いながらトレセンや選抜に選ばれることは皆無で、1選手としてはくすぶりまくっていたけど(笑)、それでもいつも『まだまだ、ここからだ』と思っていました」
■ 伝手を頼りに福井工業大学へ。
人生初の東海北信越選抜に選出。
その頃には入学時に162センチだった身長が一気に180センチに伸びたものの、個人的な評価を受けることもなく、チームとしても高校3年間は一度も全国大会に出場できないまま引退を迎え、進路に焦りを覚え始める。スポーツ推薦で関西の強豪大学に進む道も探ったが、実績からしてそれも叶わない。また関東の大学への進学は「お前の性格からして、遊ぶだけだ」と両親に反対され、日に日に選択肢がなくなっていく。そんな中で最後の最後に、監督の伝手を頼りにたどり着いたのが、福井県の福井工業大学への進学だった。
「福井工大のサッカー部は監督はいるけど試合にしか来ないし、練習も雑草だらけの粘土質の土のグラウンドで、選手だけでやっているような、サークルみたいなチームでした。でも選手はそれぞれに目標を持ってプレーしていたし、僕自身もそんな仲間に刺激を受け、高校時代と同様に『自分さえゴールを決められなければ負けない』的な意識でプレーしていたように思います。それが成長に繋がったのか、大学2年の終わりには、北信越地区からは毎回、1割程度しか選出されない東海北信越選抜に選ばれるというミラクルが起きました」
しかもこの選出は彼のサッカー人生で大きな転機となる。同選抜チームのコーチをしていた新潟経営大学コーチ・赤松誠氏に出会ったことで、同大学への編入に至ったからだ。ちょうどその頃、福井工大サッカー部は監督の退任が決定し、クラブの先行きが不透明という状態にあったが、それに伴う不安を払拭するために、また赤松氏への信頼もあって編入を決断した。
「北信越で福井工大と新潟経営大はライバル関係にあったので、正直、悩みました。ただせっかく選抜にも選ばれて、ここからギアを上げて、という時でしたからね。自分の可能性を広げるためにも、環境が整っている新潟経営大に行ってみようと考えました」
そこからはいろんなことが一気に動き、東口は両校のスムーズな対応にも助けられながら07年3月の編入試験を受験し、新潟経営大に転入する。その大学生活は、工業大学から経営大学への転入による単位所得にこそ苦労したが、サッカーでは新潟経営大学の杉山学監督や先述の赤松コーチの尽力もあり、大学のみならずアルビレックス新潟でも鍛えられながらメキメキと才能を伸ばしていく。その証拠に、3年生時にはユニバーシアード日本代表にも選出。また新潟のJリーグ特別指定選手に認定される。それに合わせて一時は諦めかた『プロサッカー選手』への欲も再燃した。当時の東口の様子を、新潟経営大の恩師、杉山監督が振り返る。
「当時の順昭は、『福井工大のGKは悪くないよね』という程度で、北信越の中でもずば抜けて目立っていたわけではなかったんです。ただ、日本人らしからぬポテンシャルを備えていたので、もしかしたら化けるかも知れないな、と。その思いから、新潟のスカウトをされていた鈴木健仁さん(現アビスパ福岡強化部長)に相談し、同クラブの協力を得て、GKコーチのいる環境で彼を育ててもらうことにしました。結果的に、そこでみっちりと鍛えられたことが彼の成長に拍車をかけたんだと思います(杉山監督)」
■ アルビレックス新潟でプロキャリアをスタート。相次ぐ大ケガに苦しむ。
そんな彼をJクラブのスカウトが放っておくはずはなく、大学4年生になると、新潟のみならず、かつての古巣、ガンバやヴィッセル神戸からもオファーが届く。その中から東口が最終的に選んだのは、新潟だった。
「4年生の頭にJクラブからのオファーが届き始めてから進路を決めるまでの半年間は散々悩みました。地元のガンバを選ぼうとしていた時期があったのも正直なところです。でも、杉山監督に『これまでどうやって自分のサッカー人生が拓けてきたのか、よく考えて決めろ』とアドバイスをもらい、新潟に行こうと決めた。今の自分があるのは『新潟』という土壌に育てられたおかげだと考えても、恩返しをしようという思いが強くなり、腹を決めました」
そうして09年に念願のプロサッカー選手になった東口だが、プロになってからのキャリアは順風満帆に進んできたわけでは決してない。プロ2年目にはレギュラーの座をものにし、活躍を見せた一方で7月のベガルタ仙台戦で左眼窩壁骨折及び鼻骨骨折で全治3か月の大怪我。復帰をした翌年も、再びレギュラーに定着した矢先の8月に右膝前十字靭帯損傷で長期離脱を余儀なくされた。
さらに12年には、戦列復帰から約半年後の練習試合で再び右膝前十字靭帯を断裂。度重なる大怪我に心が折れてもおかしくない状況だったが、不屈の精神でケガと向き合い、東口は13年7月に再び守護神として返り咲く。そこから安定したパフォーマンスを示し続けると、同年末にはガンバからオファーが届き、「成長には欠かせないチャレンジ」だと移籍を決めた。
「新潟はいろんな意味で、すごく居心地が良かったけど、新しい場所で、自分の手で一から評価を積み上げ、ポジションを掴むチャレンジをしなければ選手として、レベルアップできないと考えました」
■ ガンバ大阪に移籍し三冠を実現。
日本代表に返り咲く。
14年。ガンバに籍を移し、子供の頃に妄想した自身の姿にたどり着いてからの毎日は特筆するまでもないだろう。
同年には、彼の人生で初めての『タイトル』であり、クラブにとっても史上初となる『三冠』獲得に大きく貢献すると、同11月には約3年ぶりに日本代表に招集される。そこからは守護神として圧巻のパフォーマンスを示しながらガンバのゴールマウスに立ち続け、18年には自身にとって初めてとなるワールドカップ・ロシア大会の切符を掴んだ。直前の4月には試合中に味方選手と接触し、右頬骨と右眼窩底を骨折するというアクシデントに見舞われたが「やれることは全部やる」と復帰に全身全霊を捧げて取り組んだ結果、約1か月で戦列に復帰。完全復活をアピールした上での日本代表選出だった。
「こうやって考えると、僕って本当にケガが多いんです。これはおそらく、子供の頃に食が細かったことも影響しているかも。というのも、当時は食べることに全然興味がなかったんです。いわゆるゴールデンエイジと呼ばれる時期にもっと食べていたら、きっと靭帯や筋肉も強くなったはずだし、骨格だって違っていたはずですが、当時の僕は『出されたから仕方なく食べる』くらいの感じで、おかわりなんかしたこともなかった(笑)。でも、プロになり、新潟に加入してみたら、同期の鈴木大輔(浦和レッズ)がめちゃめちゃ食べていて、『そうか』と。そこから僕も『食』への意識が強くなった気がします。だってあいつの骨格って、めちゃめちゃしっかりしているじゃないですか?!それもあって今、小学1年生の息子にはとにかくたくさん食べさせています。『もう、お腹いっぱい』って言われても『いや、そこからのもう一口が強さに変わる!』って半ば無理やり(笑)。でもそれが将来、体にとってすごく大事な力になるのを分かっているから妥協はしない。で、その横で僕も今更ながら、めちゃめちゃ食べています(笑)。まだまだ現役を頑張りたいから」
そんな彼がこの先のサッカー人生に描くのは『ガンバでのタイトル』だ。14年に三冠を獲得した時は、自分のことを考えるのに精一杯で、周りに引っ張られるばかりだったが32歳になった今は違う。ピッチの内外で「自分がチームを勝たせる」存在になることを意識しながら、高みを目指している。
「自分の中で目標の1つだったW杯に出場して改めて思ったんです。試合に出なきゃ意味がないと。あの舞台は特別なものだったけど、僕は1試合もピッチに立てなくて…でも、それじゃあ試合に出ていた選手より、学べることは間違いなく少ないし、何より自分が楽しくない。だからこそ今はチームで1から出直す決意でやっています。他の日本代表選手のように、コンスタントにチームを勝利に導けるような、絶対的な存在になって初めて、日本代表のピッチを任される選手になれると思うから」
思えば、昨年末の『2018Jリーグアウォーズ』においてJリーグ優秀選手に選出された東口は、懐かしの仲間と嬉しい瞬間を共に過ごした。アカデミー同期の家長昭博がMVPを受賞し、そんな彼に海外でのプレーを続ける本田圭佑が祝福のビデオメッセージを贈ったのだ。その様子を舞台下から微笑ましく見守り、拍手を贈った東口は、ジュニアユース時代を思い返し、密かに胸を熱くしたそうだ。と同時に、改めて自分に言い聞かせたと言う。
「まだまだ、ここから」。
全くの無名選手だったあの頃の自分と同じように。
<PROFILE>
東口順昭(ひがしぐち・まさあき)
1986年5月12日生まれ。大阪府高槻市出身。
ガンバ大阪ジュニアユースから洛南高校、福井工業大学に進学し、3年次に新潟経営大学に転入。08年にはアルビレックス新潟の特別指定選手になり、翌年同クラブでプロキャリアをスタートした。14年にガンバ大阪に完全移籍を果たすと『三冠』に貢献。日本代表にも復帰し、18年には自身初のワールドカップ・ロシア大会に出場した。今年3月にJ1リーグでの250試合出場を達成。
text by Misa Takamura