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J1リーグ28節のベガルタ仙台戦でJ1リーグ通算200試合出場を達成しました。まずは、いつも支えてくれている家族、ともに戦ってくれたチームメイト、スタッフ、体のことをケアしてくれたメディカルスタッフ、応援してくれているサポーターの皆さんに感謝します。
もっとも、仙台戦が200試合目だと聞いて最初に思ったのは「少なっ!」ってことでした(笑)。もともと数字は気にしたことがないし、出場試合数は1分でも、90分でも同じ1試合にカウントされると考えれば、あまり参考にはならないなと思っている自分もいますが、にしても今年でプロ10年目に突入していると考えれば、物足りない数字だなと。ヤットさん(遠藤保仁)の600試合達成とか、鹿島アントラーズ時代にも満男さん(小笠原)やソガさん(曽ヶ端隼)の500試合出場達成を目の前で見てきたせいか、改めて「自分はあの領域に達するにはまだまだやな」と突きつけられた感さえあります。
そういえば、鹿島時代は100試合刻みで、記念の盾をクラブからいただくことになっていて、誰かが節目の試合を迎えるたびに、チーム関係者全員が集まって社長から盾を受け取る儀式がありました。それに従って、僕も16年には100試合出場記念の豪華な盾をいただいてすごく嬉しかったのを覚えています。
そんな風に、いろんな選手が節目の試合で盾を受け取る姿を見てきた中で、驚いたのは500試合達成の際に満男さんやソガさんがもらった盾が、それまでの100〜400までとは全く異なるゴージャスさだったこと。しかもケースから違っていて…僕がいただいた盾も立派なケースに入れてもらっていましたが、満男さんたちの500試合の盾は「何かの取引に行くの?」というくらいの豪勢なアタッシュケースに入れられていました。
その時は、ただただそのゴージャスぶりに気を取られていましたが、こうして自分が10年で200試合という数字にたどり着いてみて、改めて500という数字がどれだけ凄いことなのかを実感しています。ヤットさんに至ってはそれをさらに上回る600で…もはや同じプロサッカー選手という括りで話していいとは思っていません(笑)。
ただ、そうした偉大な選手たちが、400、500とキャリアを積み上げながら第一線で戦ってきた姿をそばで見られたことは間違いなく僕に取っても財産になっているし、今でも彼らの姿を思い出して自分に檄を飛ばすこともあります。と同時に、数字を重ねるほど、僕が偉大な先輩方の姿を見て学び、力にしてきたように、僕も後輩たちにとってそういう存在でありたいと強く思っている自分がいます。
200試合の全てを覚えているわけではないですが、過去を振り返った時に決まって蘇ってくるのは、自分のミスで失点した試合、負けた試合ばかりです。おそらく勝敗の内訳としては、勝っている試合の方が多いはずなのに、そういう試合は意外と覚えていません(笑)。でも、だからこうして今も戦い続けられている気がします。ミスをして悔しかったから、負けて自分の力不足を突きつけられたから、もっと成長しなければいけないと思えたし、ミスをミスで終わらせない選手になろうと次の試合に向かっていけた。そういえば、この200試合を語る上で、プロ1年目の天皇杯3回戦・カターレ富山戦はキーになった試合の1つです。
この年、10月の天皇杯2回戦・筑波大学戦でプロデビューをした僕は、富山戦を控えメンバーとしてスタートしました。ところが20分にセンターバックの中田浩二さんが負傷交代となり急遽、ピッチに立つチャンスが巡ってきました。交代を告げられた時、靴紐を結ばずに試合の動向を見ていた僕は、まずオリヴェイラ監督にそのことを指摘されめちゃめちゃ怒られました。基本、当時も今も、控え選手のほとんどが、前半は靴紐を結ばずに試合を見ていますが、僕がどんな時も必ず靴紐を結んでいるのは、その時の教訓からです(笑)。
話を戻します。試合の展開は、僕が出場した直後に、興梠慎三さんが先制点を奪ったのですが、42分にセットプレーから失点。しかも僕がマークについていた選手に振り切られて決められてしまいました。その後も膠着した展開となり、なかなか追加点を奪えないまま試合が進み、82分で僕は交代を告げられました。人生初の『インアウト』です。当時の監督だったオリヴェイラ監督にも特に声をかけられるでもなくベンチに戻り、悔しくて白いタオルを頭からかぶって半泣き状態だったのを覚えています。
試合はそのまま90分を終え、延長戦に入ってオリヴェイラ監督が3枚目の交代カードを切ったことで、他の控えメンバーもベンチに戻ってきて試合を見ていたのですが、満男さんが何を言うでもなく隣に座り、僕の頭をポンポンと叩いてくれて、そのまま試合が終わるまでずっと横にいてくれました。その時のことを後日、僕が取材で話したことをきっかけに、記者の方が満男さんに真意を聞き出してくれたところ、こんな言葉が返ってきたそうです。
「源の気持ちは痛いほどわかる。俺も若い時に代表戦で開始16分で交代させられたことも、『インアウト』も経験してる。でもそういうことを乗り越えて今の自分があると思っている。源にもあの経験からなにくそと思って這い上がってもらいたい。あいつは将来必ずこのクラブを背負う選手になるはずだから」
結局、試合は延長戦でタクさん(野沢拓也)がゴールを決めて勝つことができましたが、僕の中ではめちゃめちゃ悔しい記憶として残り、でも満男さんの想いをすごく嬉しく受け止めたし、その悔しさをバネに前を向くことができました。あの経験は今でも自分の『原点』です。特にキャリアを積んだ今は、自分の姿だけではなく、満男さんの姿もセットで『原点』になっています。200試合という節目に、改めてその悔しいプロ1年目の記憶を自分の胸に刻み、しっかり前を向いて進んでいこうと思っています。
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昌子 源Gen Shoji
1992年12月11日生まれ。
兵庫県出身。
11年に米子北高校から鹿島アントラーズに加入。14年には自身初のJ1リーグフル出場を実現するなど主軸選手に成長を遂げ、16年のJ1リーグや天皇杯優勝、18年のAFCチャンピオンズリーグ制覇などに貢献した。
18年12月に完全移籍が発表されたトゥールーズFCでもすぐさまレギュラーに定着したが、2シーズン目はケガに苦しみ、長期の戦線離脱に。その状況を踏まえてJリーグへの復帰を決断し、20年2月にガンバ大阪に完全移籍。3シーズンを戦ったのち、22年12月8日に古巣・鹿島への移籍が発表された。
日本代表にも14年に初選出。18年のワールドカップ・ロシア大会でもレギュラーとして活躍した。