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Vol.24 M&H conditioning room トレーナー/松井史江

  • 2021.11.03

    Vol.24 M&H conditioning room トレーナー/松井史江

PASSION 彼女たちのフィールド

大学時代にサッカーの世界へと導かれ、足でボールと戯れることの楽しみを覚えた。フットサル、ビーチサッカー、ブラインドサッカーにも携わるなど、松井史江氏の新たな人生が幕を開けた。度重なるケガにより選手としての第一線を退いたが、それでも次なる道を示してくれたのもサッカーだった。沖縄の離島を拠点に、競技者を支えるトレーナーとして活動する。

―まず、トレーナーになった経緯を教えてください。

松井 日本女子体育大学を卒業する前に旭国際バニーズ(現バニーズ京都SC)というなでしこリーグのチームで1年ちょっとプレーしたのですが、そこでヒザのケガを負ってしまい、選手を引退しました。そこから勉強をしてトレーナーになったという経緯です。

―旭国際バニーズに在籍していた当時はどのような生活を送っていたのですか?

松井 トップチームの選手は日中に練習ができたりして、すごく恵まれた環境でした。ケガをしてしまうとプレーできないので、バニーズの親会社である旭国際開発という会社のなかで電話番とか、できることをやっていましたね。また、その会社がゴルフ場なども経営していて、サテライトチームの選手は朝早くからキャディの仕事をして、夜に練習をするという感じの生活を送っていたと思います。

―その旭国際バニーズにはどんなきっかけで加入したのですか?

松井 私は大学時代にフットサルもちょっとやっていたのですが、そこで指導をしていた人がそのチームの監督になり、それで誘っていただきました。実は、私はサッカーを始めたのは大学からなのですが、テストを受けて、なんとか旭国際バニーズに入ることができました。

―サッカーを始めてからわずか数年でなでしこリーグにたどり着いたのですね。それまでは何のスポーツに取り組んでいたのですか?

松井 高校生のときまではソフトボールをやっていました。本当は大学でもソフトボール部に入るつもりでいたのですが、体育会系特有の雰囲気が自分はあまり合わないと思い、入部しませんでした(笑)。でも、体育大学に行ったので、何かスポーツをやらなければいけない。そう考えていたときに大学のサッカー同好会を見学したら、まだ発展途上のチームだったので「自分にもできるかなあ」と思ったし、何より本当に楽しそうだったので、そこで大学からサッカーを始めることになりました。

―サッカーではどのポジションでプレーしていましたか?

松井 最初はフォワードだったのですが、だんだんと後ろのほうになっていきました。ボランチをやったり、センターバックをやったり、サイドバックをやったり。そのあたりが主戦場でした。

―その後はケガをきっかけに引退したのですね。

松井 大学3年のときにまず右ヒザをケガして、社会人になってからは逆の左足のヒザを……。両足の前十字靱帯と半月板、内側をやってしまい、前十字靱帯のときには音も聞こえて「普通じゃないな」と。それでちょっと心が折れました。

―社会人になってからのケガというのは、大学を卒業して直後のことですか?

松井 はい、卒業してからあっという間にケガをしてしまいました。「とりあえず手術をしなくては」ということで手術をして、その後に阪神大震災が起きてしまって……。兵庫県宝塚市を拠点としていたチームもなかなか復興が進まず、自分もこんな状態だったので「もう、どうしようか」と考え、「思い切って次の道に行こうかな」と引退を決断しました。

―松井さんがケガを負うなか、チームの活動自体も難しい状況だったのですね。

松井 震災のときは大変でしたね。近くの宝塚小学校に避難して、チームのみんなで救護活動をしたりしていました。私も2回目のケガをして(ケガの箇所が)前十字靱帯だとわかってからは「辞めたい」「もう無理だ」というように復帰することにネガティブな感情を抱いていました。その頃はトレーナーの方がチームにいなかったので、復帰するために独学でリハビリをしなければならなくて大変だったので。

―実際にサッカー選手を辞めようと思ったとき、次はどんな道へ進もうと考えたのですか?

松井 やっぱり、ケガの経験を何か良い方に転換できるように、と考えていました。もともと大学時代からもスポーツの現場で働きたいと志望していたので。すると、手術をしてくれたドクターの仁賀(定雄)先生が「現場で仕事をしたいんだったら、トレーナーっていう役割もあるよ」と教えてくれたんです。浦和レッズのメディカルスタッフも務めた先生からそのように言ってもらい、「トレーナーの勉強をしてみよう」という思いになりました。本当にありがたかったです。

―その後はどのようにトレーナーの勉強に勤しんだのですか?

松井 鍼灸マッサージ師になるための専門学校に3年間通って免許を取得しました。“ケガをしないための体づくり”というものに興味があったし、今でもフットサルやビーチサッカーをやっていて「もっとうまくなりたい」とか「もっと強くなりたい」ってどうしても思ってしまうような性格なので、当時からそのような勉強をすることはまったく苦ではありませんでした。

―鍼灸マッサージ師の免許を取得した後は、すぐにチームのトレーナーになれたのですか?

松井 その学校を卒業してから、大学のサッカー部の後輩が在籍していた「YKK東北女子サッカー部フラッパーズ」というチームに挨拶に行って、「(スタッフに)空きが出たらいつでも仕事に行きますので呼んでください!」って話したところ、トレーナーの活動をさせてもらえることになりました。それから5年間、東北の宮城県でトレーナーとして働きました。YKKフラッパーズはその後、丸山桂里奈さんらも在籍した東京電力女子サッカー部マリーゼに移管して、今ではそこでプレーしていた選手の多くがWEリーグのマイナビ仙台レディースで戦っています。私はその前身のYKKフラッパーズで5年間トレーナーを務めた後、東京に戻って、整形外科で勤務しました。

―整形外科での仕事はどうでしたか?

松井 忙しかったです。しばらくはなでしこジャパンの活動にも携わっていたので。

―なでしこジャパンに携わるようになったきっかけは?

松井 その整形外科の先生は以前にフットサル日本代表のドクターを務めるなど日本サッカー協会ともつながりがあったそうなのですが、協会がなでしこジャパンのトレーナーを探していたときに私の名前が挙がったそうです。

―なでしこジャパンではどのような役割を務めたのでしょうか?

松井 最初はフィジカルコーチとトレーナーを兼任するような立場でした。でも、なでしこジャパンがメジャーになっていくとフィジカルコーチはまた違った人が担当し、私はメディカル担当オンリーになりました。

―他にもどこかのチームでトレーナーを務めたのでしょうか?

松井 なでしこジャパンが終わってから東京国際大学でトレーナーをやりました。あと、フットサルの数チームからも任せてもらいました。

―その後、沖縄県の宮古島に移住します。

松井 なでしこジャパンが2016年のリオデジャネイロオリンピックに行けなくて、代表チームは解散し、そのタイミングで私もなでしこジャパンから退くことになりました。そのときに少し時間ができて、宮古島に住んでPT(理学療法士)の仕事をしていた春日うつぎさんのところに何回か遊びに行き、その際に宮古島の人たちと知り合いになっていきました。春日うつぎさんとはYKK東北フラッパーズ時代に選手とトレーナーの間柄で、彼女も早くに膝のケガで引退して、その後、宮古島で働いていたんです。その後、私が移住したときに、春日うつぎさんに協力してもらい、ともに宮古島で「M&H conditioning room」を開業しました。彼女のことをヘッドと呼んでいて、私のあだ名がメイなので、ヘッドのHとメイのMでM&Hと名付けたんです。彼女のおかげで施設や周囲の人とのつながりも出来て無事に開業できたので、とても感謝しています。

―M&H conditioning roomでは現在、どのような活動をしているのですか?

松井 普段はそこでトレーナーとして仕事をしています。例えば体に不具合が出ている人の治療をしたり、特に不調にならない人にも普段のコンディションをよくするためのトレーニングやケアをしたり、そういったことをメインにやっています。

―主にどのような人が来院されるのでしょうか?

松井 たぶん“島だから”なのかもしれないのですが、例えばサーフィンやっている人とか、サッカーやっている人とか、そのようにスポーツをやっている人がよく来てもらっています。コンディションづくりのために活用してもらっている感じですね。

―M&H conditioning room での1日のスケジュールはどのようなものですか?

松井 朝はだいたい9時か9時半ぐらいから始まり、夜は遅くても8時半ぐらいまで。予約制なので、予約が入らないときはすぐ近くのビーチで自分のトレーニングをしたりもしています。私は仲間と数人でビーチサッカーをやっているので、その練習だったり(笑)。

―なるほど(笑)。他にも何か活動をしているのですか?

松井 今は女子のフットサルとブラインドサッカーの日本代表チーム、男子の育成年代のブラインドサッカー代表チームにも携わっています。フィジカルコーチも兼任のメディカルトレーナーといった立ち位置です。M&H conditioning roomの仕事とその3つの活動を掛け持ちしながら、宮古島と代表合宿のある東京を行ったり来たりしている感じです。

―では、常に宮古島で活動しているわけではないのですね。

松井 そうですね。コロナ禍の前は月に一度の頻度で、合宿のたびに東京に行っていました。また、その合宿の合間には時間を見つけて、宮古島に来る前に東京で働いていた整形外科でも非常勤のような形で仕事をさせてもらっていました。今もフットサルやブラインドサッカーの代表活動のときにその整形外科へ行きたいんですけれど、私は宮古島に住んでいる身なので、いろいろな人と接することを控えています。今は合宿が終わったらすぐに宮古島へ帰るようにしています。

―とはいえ、とてもご多忙のように感じます。

松井 自分にとってやりたいことはやれていると感じています。ただ、フットサルもブラインドサッカーもこのコロナ禍でなかなか大会もなくて、すごく不完全な感じの代表活動がずっと続いています。一方で最近携わるようになったブラインドサッカーの育成年代の男子代表は2024年にフランス・パリで開催されるパラリンピックを目指すチームなので、その候補選手と関わることはまたちょっと違った感じなのですが。監督やコーチからも「彼らが将来、もっと飛躍できるように」と言われていますので。

―仕事上で大切にしていることはどんなことですか?

松井 選手にはとにかくプレーできない時期をなくしてほしいから、その選手の体が強くなってケガをしづらくなるように取り組んでいます。それに、トレーナーとして、選手のメンタル面へのアプローチも結構重要だと思っています。選手の話をしっかりと聞いて、寄り添ってあげる。そして、良い方向へと導いてあげる。そのようなイメージで今までやってきました。

―経験を重ねるにつれて、松井さん自身の変化はありますか?

松井 聞き上手にはなってきたかなとは思いますけれど(笑)。でも、私は元からそんなタイプなのかもしれません。先頭に立って引っ張っていくタイプではないし、後ろからおしりを叩くようなタイプでもないけれど、誰かの隣で寄り添うような接し方は一番得意です。だから、トレーナーを経験してきても、結局自分自身はそんなに変わっていないのかもしれません。

―現在の宮古島での仕事や生活はいかがでしょうか?

松井 最近はM&H conditioning roomの知名度が上がって忙しくなってきているのですが、でも、基本的にはのんびりと仕事をしています。フットサルやブラインドサッカーの代表活動にも自由に参加できていますので。

―宮古島を拠点に活動することは当初から想定していましたか?

松井 いや、そもそも私は独立して一人でやることも全然考えていなかったので、宮古島に来ることなんてまったく想定していませんでした。整形外科の一員として、ずっとトレーナー活動をするものだと思っていましたので。自分で決断したことではありますが、やっぱり宮古島の人たちが温かいので、この決断に踏み切ったのだと思っています。

―宮古島の人たちはどのような感じですか?

松井 もう、家族みたいな感じですよ。いつも温かく接してくれています。

―なるほど。宮古島は素晴らしい場所ですよね。

松井 本当にいいところですね(笑)。

―そんな宮古島のスポーツ環境はどういった感じなのでしょうか?

松井 子どもの数はすごく多いので、男子はいろんなスポーツで小学生のチームがあり、コーチの人もいて、しっかり活動している印象を受けています。一方で、女子は受け皿が少なくて、小学生と中学生をまとめたチームになっています。あと、高校生は宮古高校にしかサッカー部がない状況で、サッカー環境についてはまだまだこれからというところだと思います。

―サッカー以外では、特にどのスポーツが盛んですか?

松井 バレーボールや野球をやっている子どももたくさんいますね。大人だとサーフィンやダイビングなど、マリンスポーツをやる人も多いです。

―そんな宮古島で、今後はどのように活動していきたいと考えていますか?

松井 宮古島の人たちがもっと生活しやすくなるように、運動する習慣をもうちょっと持ってもらえるように働きかけていきたいです。宮古島では歩くことが少ないので、そのためか体が結構大きい人だったり、病気になる人が多かったりもするんです。運動することで病気が未然に防がれたりもするので、だからそういった部分で私も力になりたい。また、そういった活動もしつつ、フットサルやブラインドサッカーの代表活動も引き続き頑張っていきたいです。フットサルの女子代表はワールドカップに向けてどうにかやっていけたらと思うし、ブラインドサッカーの女子代表や男子の育成年代もまだ発展途上なので、今後も尽力していきたいです。

―今後も宮古島を拠点に、日本代表と様々な活動をしていければということですね。

松井 そうですね。自分自身はケガをしなかったら、やっぱりずっとサッカー選手としてプレーしていたかった。それが叶わなかったからどこかに心残りもあるので、選手のみなさんにはそうならずに、もっと死ぬほどサッカーをしてほしい、ってよく思います。あと、付け加えるなら、私が今やっているビーチサッカーの日本女子代表をつくってもらって、そこでトレーナーをやってみたいです。まだ、チームも発足していないですけれど、それがトレーナーとしての最終的な目標ですね。

―ビーチサッカーの日本女子代表ですか。その夢が叶うことを楽しみにしています。いろんなお話を聞かせていただき、ありがとうございました。

松井 ありがとうございました。

<プロフィール>
松井 史江(まつい・ふみえ)

1971年神奈川県出身。日本女子体育大学時代にサッカーを始め、旭国際バニーズでもプレーした。引退後はトレーナーとなり、YKK東北フラッパーズで第2のキャリアをスタート。その後、調布市のくまざわ整形外科クリニックに勤務しながら、なでしこジャパンやファイルフォックス府中、府中アスレティックプリメイラ、バルドラール浦安ラスボニータス、東京国際大学でトレーナーを務め、現在は沖縄県宮古島市でM&H conditioning roomを開業しながらフットサルやブラインドサッカーの女子代表などにも帯同している。

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