COLUMN

REIBOLA TOP > コラム > Vol.90 移籍の決断。「生きている感覚」を取り戻したい。

Vol.90 移籍の決断。「生きている感覚」を取り戻したい。

  • 2023.12.26

    Vol.90 移籍の決断。「生きている感覚」を取り戻したい。

発源力

©KASHIMA ANTLERS

昨日のリリースで発表された通り、FC町田ゼルビアに移籍することになりました。今回の発源力では僕を支え、応援してくれている皆さんに、自分の口からきちんと今回の決断に至った経緯、考えを伝えたいと思います。この1年、ここで書き記してきたことと重複する部分もあるかもしれませんが、読んでもらえると嬉しいです。

正直、今シーズンは僕のサッカーキャリアにおいて、群を抜いてたくさんの悔しさと苦しさを味わった1年でした。クラブの思い、大樹さん(岩政前監督)の思いに応えようと強い気持ちを持って鹿島に復帰したにも関わらず、ほとんどの試合をピッチの外から見守る結果に終わり、自分に対する情けなさも重なって、息苦しさを覚えるような毎日でした。
もちろん、どんな状況に置かれようと「鹿島のために」という思いで戦ったことに嘘はないです。むしろ、試合に出られない状況が続くほど、何が「鹿島のために」なるのか、模索した1年だったとも言えます。ただ、考えれば考えるほど「試合に出ないと何も伝えられない」「チーム状況を変えることはできない」という思いも自分の中でより強くなっていったのも事実です。この世界はピッチでの結果が全てで、年上か年下か、どんなキャリアを歩んできたのかは関係ありません。だからこそ、ピッチに立てていない自分が、胸にある思いを言葉で伝えようとするたびに「僕が言っても響かないんじゃないか。伝わらないんじゃないか」という思いは大きくなっていったし、何より、考えを言葉に変えることに僕自身が怖さを覚えるような感覚もありました。これは、自分のパフォーマンスが思うように上がっていかなかったのもあります。

思えば、僕はこれまでのプロキャリアにおいて、プロになりたての10代だった頃を除いて、ほとんどの公式戦で先発のピッチに立ってきました。近年はケガで離脱を余儀なくされた時期もありましたが、ケガ以外の理由でメンバーを外れることはほぼありませんでした。それらのシーズンと今年を比べた時に、改めて痛感したのが『試合に出続けないと、作れないコンディションがある』ということでした。もちろん、それを感じ始めてからは意識的にプラスアルファのトレーニングを積み上げてきたし、試合で感じられない『強度』を他のトレーニングで補おうという試みも続けてきました。でも、それでコンディションを高い状態で維持できるかといえば決してそうではなく…トレーニングを1週間積み上げても、公式戦1試合で得られるコンディションには遥かに及ばないと言っても過言ではないほど、コンスタントに公式戦を戦っていないことの影響を日に日に強く感じるようになりました。J1リーグでプレーするセンターバックの中では、途中から試合に出してもらうことは多かったと思いますが、途中出場=試合展開に応じてチームの戦い方や自分に求められる役割が変わる、となれば、結果的にリーグ戦34試合中21試合に出場したと言っても、その数字に見合うコンディションは得られなかったし、悔しいですが、それによるパフォーマンスの低下も認めざるを得ませんでした。

そうした状況を自覚する中で、『移籍』の二文字が浮かぶようになったのは、シーズン終盤です。前述したように、自分が試合に出られない状況でも「鹿島のために」という思いで戦い続けてきたことに嘘はないですが、それと同時に自分がここにいることは果たして本当に鹿島のためになっているのか。プロサッカー選手として試合に出られていない状況に納得していいのか、という疑問も浮かぶようになりました。特に、31歳という年齢を考えれば、尚更です。僕は基本的にサッカー選手に年齢は関係ない、数字の大小でプレーするわけではないと今も思っていますが、その一方で現実的に考えて、30代前半で試合に出られないことと、30代後半で試合に出られないことの意味は大きく違うとも思っています。実際、仮に自分が30代後半で今の状況に置かれていたなら…鹿島というクラブへの愛着や、今年の初めにはここで引退することも描きながら復帰したことを考えても、移籍という言葉すら浮かばなかった気もしています。

ですが、31歳の自分はそうは思えず…12月に入ってからは、特に「このままで鹿島を去るわけにはいかない」という思いと、「試合に出て自分の力を証明したい。ピッチの上でしか感じられない喜怒哀楽の中に身を置いてプロサッカー選手として『生きている』感覚を取り戻したい」という思いが、自分の中で戦っているような時間が続きました。その中で「どんなに鹿島に思い入れがあっても、在籍しているだけで満足するのは自分じゃない」「仮に優勝争いをしていたとしても、そこでプレーしていなければ自分の価値を見出せない」という思いが強くなっていきました。
もっとも現実的に、鹿島との契約を残していたことを考えれば、自分の意思でどうにかなる話ではなかったため、シーズン終了後は今の僕を鹿島は本当に必要だと思ってくれているのか、クラブとも何度か直接話をする機会を設けていただきました。ですが結論から言って、クラブにも僕の年齢や現状を考慮して背中を押していただき、クラブ間同士の合意のもとで町田への移籍が成立しました。

もちろん、これに対して賛否があるのは理解しています。正式に発表される前後から、僕のSNSにもいろんなダイレクトメールが届いています。「どこに行っても応援します」というような温かい言葉もあれば「何しに鹿島に帰ってきた?」「足手まといのベテランはいらん」というような言葉も投げかけられました。全ての方に僕の考えやプロサッカー選手にとっての1年、1試合の重みを理解してもらうのは不可能だと考えても、それぞれが鹿島や僕を思った言葉としてしっかり受け止めてもいます。
ただ、これだけは伝えておきたいのは、今年1年、鹿島の力になれなかったし、結果的に鹿島を離れる決断はしたけれど、僕の中にある鹿島愛は今も、この先も変わらないということです。

僕は鹿島にプロサッカー選手としての基盤を作っていただき、この世界で戦っていける選手に育ててもらいました。ここでたくさんの喜び、悔しさを味わって、成長させてもらいました。その鹿島に5年ぶりに復帰した今シーズンは、久しぶりに鹿島特有の雰囲気、サポーターの熱量、スタジアムやクラブハウス、クラブに流れる空気に触れてすごく幸せだったし、やっぱり僕には鹿島のDNAが流れていると実感することも多かったです。
そして、その鹿島で育てられた僕だから、今回の決断ができたんじゃないかと思う自分もいます。どこでプレーしようとも、鹿島で育んでもらったマインドは、この先も僕がプロサッカー選手として戦っていく上での武器になると信じているし、その武器を胸にピッチで戦い続ける姿を示すことが、鹿島に関わる皆さんへの恩返しになるとも思っています。またスタジアムで会いましょう。

  • 昌子 源Gen Shoji
  • Gen Shoji

    1992年12月11日生まれ。
    兵庫県出身。
    11年に米子北高校から鹿島アントラーズに加入。14年には自身初のJ1リーグフル出場を実現するなど主軸選手に成長を遂げ、16年のJ1リーグや天皇杯優勝、18年のAFCチャンピオンズリーグ制覇などに貢献した。
    18年12月にトゥールーズFCに完全移籍。すぐさまレギュラーに定着するも2シーズン目はケガに苦しみ長期の戦線離脱に。その状況を踏まえてJリーグへの復帰を決断し、20年から3シーズンはガンバ大阪で、23年は鹿島アントラーズでプレー。24年はFC町田ゼルビアに完全移籍となった。
    14年に日本代表に初選出。2018FIFAワールドカップ ロシア出場。

  • アカウント登録

  • 新規会員登録の際は「プライバシーポリシー」を必ずお読みいただき、ご同意の上本登録へお進みください。

Vol.92 2024シーズン、始動。