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三浦泰年×FW藤本憲明(ヴィッセル神戸)<前編>

  • 2020.03.05

    三浦泰年×FW藤本憲明(ヴィッセル神戸)<前編>

REIBOLAスペシャル対談

現役サッカー選手と元サッカー選手によるREIBOLAスペシャル対談。
今回のゲストは、鹿児島ユナイテッドFC在籍時代に師弟関係にあった、三浦泰年氏と藤本憲明選手。
鹿児島を離れてからは、それぞれ違う道を歩んできた二人が、三浦氏の古巣でもあるヴィッセル神戸のクラブハウスで再会。
鹿児島時代の懐かしい話や藤本選手の波乱万丈のサッカー人生についてなど、ざっくばらんに胸の内を明かしました。

(取材日/2020.02.25)

三浦泰年(以下、三浦) 今回は僕の希望でノリを対談相手に指名させてもらいました。
藤本憲明(以下、藤本) 光栄です。ありがとうございます! ブラジルにはもう行かれないんですか?
三浦 また来月から行く予定だよ。
藤本 向こうではどんな仕事をしているんですか? 1月末に沖縄キャンプでお会いした時はSCコリンチャンス・パウリスタU-23に帯同していましたよね?
三浦 本来は、コリンチャンスを来日させたドリームストックという会社とJクラブの間に入って橋渡し的な役割をする予定だったんだけど、結果的にコーチをやっていたよ(笑)。
藤本 年末はブラジルで監督をしていましたよね?
三浦 セルジッペ州に籍を置く、ソコーロというクラブのU-20チームの監督ね。コパ・サンパウロという大会に出場するから監督をして欲しいと言われたんだけど、ブラジルで日本人が監督をするのって…分かりやすく言うと、日本の国技である相撲や柔道の監督を海外の人間に任せるようなものだからね。少しでもクラブのオーナーがネガティブに感じているのならやめておこうと思ったんだけど、オーナーも「ぜひやって欲しい」と言ってくれたから引き受けた。でもその大会限りの契約だったから、今後はまたブラジルと日本をつなぐサッカーのコンサルティングみたいな仕事がメインになると思う。去年も結局1年のうち7か月半をブラジルで過ごしたけど、今年も似たような感じになるんじゃないかな。

三浦 泰年

藤本 日本ではもう監督をしないんですか?
三浦 いや、いずれまた機会があればとは思っているけど、今はブラジルでたくさん試合を観ていろんなことを学びつつ、海外から日本のサッカーを見つめ直すことで自分のサッカー感に刺激を入れていこうと思っているんだ。…って俺のことより今日はノリの話を聞きに来たんだよ! お互いに17年限りで鹿児島ユナイテッドFCを離れた後もたまに連絡は取っていたし、この間も沖縄で顔を合わせたばかりだから新鮮味に欠けるけど(笑)。
藤本 サッカーダイジェストで連載しているコラム『情熱地泰』も読んでいますよ! でも、あのトップ画面に使用している写真って古くないですか(笑)? 髪型からして結構前の写真だと思うんですけど…。
三浦 わかってないな〜。そこにロマンがあるんだよ! でも嬉しいよ。今でも俺のことを気にかけてくれて。J1の選手になっちゃったからてっきり忘れられたかと…。
藤本 いやいや、忘れるわけないじゃないですか!
三浦 確かに、ノリはそういうタイプじゃないな。今日のヴィッセル神戸の練習を見ていても、グラウンドに入ってきた時の感じから、練習中の様子、出て行く姿まで、以前のままだな〜と思って見ていたよ。選手の中には、JFL、J3、J2、J1とステージがランクアップしていくにつれて、態度が少し大きくなってしまう選手もいるけど、ノリには全くそれを感じなかった。でもノリのキャリアを考えたら、変わらないのが不思議なくらいだけどね。だってJFLからスタートして、今やJ1クラブのヴィッセルで、チームの初戴冠となった天皇杯の決勝でゴールを決めちゃう男だよ。遅ればせながら、天皇杯優勝、おめでとう。

藤本 憲明

藤本 ありがとうございます。決勝の舞台は、最高に楽しかったし、素直に嬉しかったです。試合は観てくれましたか?
三浦 その時はまだブラジルにいたから新国立競技場には足を運べなかったけど、もちろん応援はしていたよ。ヴィッセルは僕にとっても古巣だし、現クラブオーナーの三木谷浩史さんが代表取締役社長を務めていた株式会社クリムゾンフットボールクラブがヴィッセルの営業権を取得した04年にチーム統括部長をさせてもらった縁もあるからね。そこから新たなヴィッセルの歴史が始まって以来、初の『タイトル』だと考えたら感慨深いよ。
藤本 当時のことで印象に残っていることはありますか?
三浦 ユニフォームの色を変えて、エンブレムを一新すると発表したらものすごいバッシングを受けたこと(笑)。「なんで、白黒じゃダメなんだ!」「なんで、この色なんだ!」ってサポーターからいろんな言葉を投げられたよ。
藤本 そんな歴史があったとは知らなかったです。
三浦 あれからもう15年以上経ったからね。そのことを知っている人もだんだん減ってきているんだろうけど、それはある意味、今のエンブレムやチームカラーが定着したことの証でもあるから、それはそれで嬉しいね。
藤本 そういう歴史もあって、今のユニフォームにようやく星が1つ付いたと考えると、なんか重みを感じますね。
三浦 正直、三木谷さんがオーナーになって、たくさんのお金を遣ってきたはずだし、それゆえに「何年かかっているんだ!」と言う人もいるけど、俺は勝てない間もずっと変わらずにお金を投資し続けた事実を素直にすごいなって思うけどね。それにアンドレス・イニエスタやダビド・ビジャらビッグネームに加えて、昨年夏にトーマス・フェルマーレンや酒井高徳らが加わったのも大きかったんだろうけど、やっぱりチームって目には見えない歴史に支えられている部分も必ずあるから。長い時間をかけて積み上げてきた力がようやく天皇杯で正しく発揮されたんだと思う。しかも、個人的にはそこにかつて一緒に仕事をしたノリが加わって、わずか半年後には初タイトルに貢献しているわけだから、こんなに嬉しいことはないよ。と言ってもそれはもう過去の話であって、きっとノリも、ヴィッセルもすでに気持ちは今シーズンの戦いに切り替わっているはずだけど。
藤本 もちろんです。今年はチームとしても、個人としても初めて戦うAFCチャンピオンズリーグ(ACL)の戦いもあり、試合数は最大で60試合と言われていますから。常にチームとしての結果を意識しながらそこに力になっていける自分でいたいと思っています。
三浦 沖縄キャンプの時はまだケガのリハビリ中だったけど、もうすっかり大丈夫なんだよな?
藤本 大丈夫です! 元気いっぱいです。
三浦 ノリはいつもそう言うからね(笑)。だから監督の立場からすると、ケガをしていることも忘れてつい使いたくなっちゃう。
藤本 一緒に仕事をした17年もたくさん試合に使ってもらいました!

三浦 カターレ富山の監督だった16年にJ3リーグで鹿児島とも対戦していたからね。ノリのことは鹿児島のエースっていう認識はあったし、J3リーグの得点王にもなったから、17年も鹿児島にいてくれるのかな〜と心配だったよ。だから監督就任が決まってすぐにノリに電話したよね?
藤本 はい。確か、鹿児島に移動してこられる前のタイミングだったと思います。
三浦 その時は、いつもの調子で「はい! 待っていますから〜!」みたいに言ってくれたけど、内心では「他のクラブに引き抜かれてもおかしくないな」と心配しながら鹿児島に移動した覚えがあるよ。監督の立場で言うと、前の年に15得点を挙げて得点王になった選手に抜けられるのはどう考えても痛いから。でもその一方で、15得点以上の数字を出せる選手にしたいなってとも思っていたから、そのためには…たくさん試合に使おうと考えていた。点の取り方なんて教えられるものではないけど、当時の鹿児島では明らかに抜けた存在だったから、その力を正しく発揮できるようにチームを作れば、あとは才能でなんとかするだろう、って。
藤本 全32試合のうち、30試合で先発させてもらったはずです。
三浦 起用しなかった残りの2試合は…仮病だっけ?
藤本 おたふく風邪と出場停止が1回です。でも最初のキャンプから波乱の幕開けでしたよね。指宿と奄美大島でキャンプをしたら最初から最後までずっと雨で。風も強いし、グラウンドコンディションも良くなくて、ポゼッションの練習をしても全くボールが回らず、みんながイライラしていたし、ヤスさんもきっと心の中では怒っていたはず…。
三浦 何言ってんの? 俺、怒ったことなんて一度もないよ。
藤本 ええっ!! めちゃめちゃ怖かったじゃないですか! 
三浦 そうだっけ? 自分では初めてJクラブの監督を預かったギラヴァンツ北九州時代に比べたらめちゃめちゃ優しくなったと思っていたんだけどな〜。
藤本 ただ、練習ではガッと気持ちも入るので怖かったけど、練習前後やオフのところでは穏やかで、いろんなコミュニケーションも取れるし、話しやすかったです。キャンプ中も一緒に温泉に入りましたよね。あれは結構、驚きました。
三浦 え? そうなの?
藤本 監督と一緒に温泉に入ったのは後にも先にも鹿児島の時だけです。
三浦 マジで?! 北九州時代も選手と一緒に入っていたよ。
藤本 裸の付き合いってやつですか?
三浦 いや、温泉は気持ちいいから好きなだけ。
藤本 (笑)。でもその時にいろんな話をしてくれたのを覚えています。ヤスさんが静岡学園高校時代に素行の悪かった先輩がいて、その先輩より1500メートル走のタイムが遅い自分が許せず「こんな奴に負けてたまるか」と必死に走り込んだら、その先輩に1秒差で勝ったとか。
三浦 よく覚えてるね! 先輩が4分17秒で、俺が4分16秒で勝ったんだよ!
藤本 それを聞いて「そういうことよね」って妙に納得したんです。高校年代で足が速くなるなんてあまり聞かないけど、努力に限界はないと思ったというか。自分も前の年に得点王になれたとはいえ「15点しか取っていないのに得点王ってなんか不甲斐ないよな」って思っていただけに、その話を聞いて俺もまだまだや、って思ったのを覚えています。
三浦 なんかよく分からない説明だけどとりあえずやる気になったのならよかった(笑)。でも基本的にノリはそういう根本的な負けん気の強さを備えた選手だったよね。J3リーグでの試合中に相手GKと接触して右目の瞼のあたりがぱっくり割れた時も次の試合に出ていたもんな。
藤本 ブラウブリッツ秋田戦(10節)ですね! あの試合、めちゃめちゃ鹿児島が攻めていてチャンスも作っていたので勝てそうだったのに、俺が右目の上を切って交代になった後にゴールを許して負けたんですよね。で、その次の試合は前日練習で復帰したばかりだったけど、特に問題なさそうだったからヤスさんに「いけます!」と言ったら出してもらえました。しかも、2点取りましたしね。
三浦 出場停止とか明らかに無理なケガなら開き直って他の選手を使おう、って思ったはずだけど、そうじゃないならチームのエースだからね。監督としてはできる限り使いたいよね。
藤本 でも、俺が出なかった2試合はいずれも勝ちましたけどね(笑)。おたふく風邪で出られなかったカターレ富山戦(20節)も2-1で勝ち、出場停止だったFC琉球戦(23節)も1-0で勝った。
三浦 でも、休んだ後の試合では必ず点を取るんだよな。
藤本 確かに! 富山戦後の藤枝MYFC戦も、琉球戦後の秋田戦も取りました!
三浦 その辺がストライカーらしいというか。自分が出ていない試合でチームが勝っている事実にどこかで危機感を覚えていたんだろうな。
藤本 きっと暗黙のプレッシャーを感じていたんだと思います。いや、そんな複雑な感じでもなく…ただ、ただいつも点を決めたかっただけかも(笑)。ちなみに、そのシーズンで一番印象に残っているのは終盤にアウェイで戦った北九州戦(27節)です。あの試合のハーフタイム、俺、めちゃめちゃ怒られましたから。
三浦 そうだっけ?
藤本 いやもう、めちゃめちゃ怒られました。チームとしても全体的にフワっとしていて集中していなくて、イージーミスが続いて0−0で終えて。ハーフタイムにロッカーに戻ってシャワーを浴びに行こうとしたら、ヤスさんがキレすぎていてそんな空気ではなかった(笑)。多分、あのシーズンで一番、怒っていたと思います。で、結果的にシャワーも浴びられずにそのまま後半に入ったらハットトリックを決めることができ、アディショナルタイムには更に野嶽惇也(鹿児島)が追加点を奪って、4-0で勝ちました。
三浦 怒った価値があったってことだ(笑)。そういえば昔、カズ(三浦知良/横浜FC)が中学生だった時に、前半、カズがタラタラとプレーしていているのムカついて、ハーフタイムに「お前、ふざけんな!」って殴ったことがあったの。そしたら0−2で負けていたのに、後半、カズがハットトリックを決めて、逆転勝ちしたよ。
藤本 そういうことです!
三浦 その鹿児島時代も今も…この間の横浜FCとのJ1リーグの開幕戦を見ていても感じたけど、ノリって自分に全く得点の匂いがしないまま試合を終えたことってある? 横浜FC戦も、正直、ゲーム感はまだ戻りきっていないように感じたけど、それでも前半のうちに1〜2本、しっかりとミートしてシュートを打っていたでしょ? あんな風に鹿児島時代から必ず1試合に最低でも1つは決定的なシーンがある気がするんだよな。
藤本 確かに。ヴィッセルに移籍してからも、出場した試合で一度もシュートを打てずに終わった試合はほぼない気がする。
三浦 それってセンターフォワードとしてすごく大事なことだと思うよ。以前にカズが話していたけど「決定的なシーンを外してバッシングされるより、試合で一度も決定的なシーンを作れなかったことの方がショックだ」と。理由を聞いたら「チャンスさえあれば、次、決めればいいんだと思えるから」って。もちろん、サッカーだから一人でチャンスを作り出せるわけではないけど、その言葉から考えても、これまでノリが戦ってきたほとんどの試合で、最低でも1つは決定的なシーンがあるっていうのは今のキャリアに繋がる要素の1つだったんじゃないかと思う。そういえば、今でこそFWをしているけど青森山田高校時代はサイドバックをやっていたって本当?
藤本 はい。ガンバ大阪ジュニア、ジュニアユース時代はサイドハーフが多かったのに、青森山田に進学して、ある日の練習前に黒田剛監督に職員室に呼ばれ「サイドバックをやれ」と言われて、「試合に出たいしやるしかないな」と受け入れました。結果的にそれで3年間試合に出してもらえたので良かったです。
三浦 どんなタイプのサイドバック? 出されたボールに合わせて走り込むタイプか、ドリブルで自ら攻め上がっていくタイプか。
藤本 両方です。でも、あまり深く考えてプレーしていなかった気がする。ガンバアカデミーでサイドハーフをしていた頃からドリブルで仕掛けていくのは好きでしたけど。
三浦 FWをやるようになったのはいつ?
藤本 近畿大学時代です。でも卒業にあたっていくつかJクラブの練習に参加したけど獲得してもらえず、佐川印刷SC(14年に、佐川印刷京都SC、15年にSP京都FCにチーム名が変更)に加入しました。
三浦 佐川に加入したのは何年?
藤本 12年です。
三浦 じゃあ俺が北九州の監督になって2年目じゃん。なんで北九州のテストを受けに来なかったんだよ。その時に出会っていたらもっと早くプロになれていたかもしれないよ! …いや違うか。結果的にはそうやって佐川で揉まれた時間がノリを育てたのかも知れないしな。
藤本 仕事とサッカーの両立は大変でしたけどね。それを後々、鹿児島に加入してサッカーだけの生活になった時にめちゃめちゃ実感しました。

<PROFILE>
三浦泰年(みうら・やすとし)
1965年7月15日生まれ。静岡県出身。
静岡学園高校卒業後、サントスFC(ブラジル)へのサッカー留学を経て、86年に読売サッカークラブに加入。Jリーグ発足に伴い、92年に地元の清水エスパルスに移籍し初代キャプテンに就任した。その後、ヴェルディ川崎、アビスパ福岡、ヴィッセル神戸と渡り歩き、03年の引退と同時にヴィッセルのチーム統括部長に就任した。11年にギラヴァンツ北九州で指導者としてのキャリアをスタート。前年度はわずか1勝、最下位に低迷したチームを昇格争いに顔を出すまでに成長させ、12年も前年を上回る勝ち点を挙げるなど大きくチームを変化させた。その後、東京ヴェルディ、チェンマイFC(タイ)、カターレ富山の監督を経て、17年に鹿児島ユナイテッドFCの監督に就任。18年にはクラブ初のJ2昇格に導いた。現在は1年の半分以上をブラジルで過ごし、ブラジルと日本の架け橋となるビジネスを手がける。昨年はソコーロU-20の監督も務めた。元日本代表。

<PROFILE>
藤本憲明(ふじもと・のりあき)
1989年8月19日生まれ。大阪府出身。
ジュニアユース年代までガンバ大阪アカデミーで過ごした後、青森山田高校に進学しサイドバックとしてプレー。卒業後は関西に戻り、近畿大学でFWとして活躍した。卒業に際してはJクラブのテストも受けたがどこからも声がかからずプロを断念して佐川印刷SCに加入。仕事をしながら4シーズンをプレーしたのち、チームの解散を受けて、16年に初めてのJクラブ、鹿児島ユナイテッドFCに移籍した。その鹿児島では1年目からエースとして活躍。16年には15得点、17年には24得点を挙げて2年連続でJ3得点王に。18年には初めてのJ2クラブ、大分トリニータに移籍して12得点を挙げ、チームのJ1昇格に貢献した。19年も開幕戦から2ゴールを挙げる活躍を示し、21試合で8得点を挙げていたが、8月にヴィッセル神戸からのオファーを受けて完全移籍を決断。元日の天皇杯決勝ではゴールを挙げて初戴冠に貢献した。

text & photo by Misa Takamura

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