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Vol.8 タイ女子代表GKコーチ/轟奈都子

  • 2021.02.17

    Vol.8 タイ女子代表GKコーチ/轟奈都子

PASSION 彼女たちのフィールド

アヤックスやバルセロナをはじめとするクラブチームからオランダやポーランドといった代表チームまで、幅広く指導にあたったフランス・フックJFA GKプロジェクトアドバイザーは、JFAのインタビューで「優秀なGKを育てる上では、環境も一つのポイントになるのでは。」と質問され「重要なのはやはり指導者です。優れた指導者がいれば、ピッチの善し悪しを問わず、優れた選手が生まれます。」と答えている。
今回、ご紹介する轟奈都子さんは日本の女性GKコーチの草分けの一人。アルビレックス新潟レディースのGKコーチ、セレッソ大阪堺レディースのGKコーチ、そしてJFAで若年層のGK発掘・育成を担当し、JFAナショナルトレセンコーチ女子担当GKサブチーフコーチを務めた。つい先日、2021年1月に、タイ女子代表とUー20タイ女子代表のGKコーチに就任することが発表された。轟奈都子さんが、現役時代に、GKコーチからどのような指導を受け、引退後は、GKコーチとして何を目指し、どのような想いで海外に活躍の場を求めたのかを伺った。

轟 私が現役の頃と比べると、今は、GKに求められる役割が数段は増えています。注目も集まるようになっています。今の選手たちは大変だと思いますね(笑)。

ー轟さんがGKを始めるきっかけは何だったのですか?

轟 サッカーを始めたのは小学校6年生です。当時では珍しく、女子のサッカー部がある小学校でした。私は友達に誘われて入部しました。最初の試合でGKの選手が体調不良で来られなくなりました。サッカーを始めたばかりでポジションがなかった私がGKをやることになりました。グラウンダーのボールをトンネルして失点する等、上手くプレーできなくて悔しかったです。でも試合後に「初めてにしてはできるやん」と、コーチやチームメイトが言ってくれました。だから、そこから練習して、GKとしてプレーするようになりました。中学生のときはサッカーをできる環境がなくて、高校1年生からサッカーを再開することになりました。最初はフィールドプレーヤーとして練習していたのですが、また、最初の試合でGKの方が来られなくなりました。代わりのGKは、少しでもGKを経験していた人がやる方が良いだろうということになって、また、私がGKをやることになりました。そこから、ずっとGKをやっています。

ーGKに「いつGKに転向しましたか?」とお話を聞くことが多いですが、今のお話を聞くと、轟さんはGKでしか試合に出場していないということですか?

轟 そうです! 確かに、そう言われてみたらそうですね(笑)。

ーGK以外をやりたいと思った事はありますか?

轟 GKを上手くなりたいという気持ちが強かったので、GK以外のポジションをやりたいと思ったことはないですね。私の所属していた交野(かたの)FCで、高校の3年間を成長させてもらいました。交野FCには社会人、シニアのチームもあったので、いろいろな経験をさせていただきました。

ー高校を卒業されて、1996年に企業チームでLリーグ(現・プレナスなでしこリーグ)の松下電器 パナソニック バンビーナに加入されますね。

轟 セレクションを受けて加入しました。企業チームだったので、午前中に仕事をして昼からトレーニングをさせていただく恵まれた環境でサッカーをできました。日本女子代表選手の門原かおる選手、埴田真紀選手、それに中国女子代表選手のGKがいて、とてもレベルが高いチームでした。

ー1996年は女子サッカーが初めてオリンピックの種目になった年で中国女子代表は準優勝。強かった時期ですね。また、Lリーグが盛り上がっている時期でもありました。例えば1995年に各クラブのイメージソングが発売されました。和田アキ子さん、マルシアさん、早見優さん、三浦理恵子さん、生稲晃子さん等、当時のそうそうたる顔ぶれがイメージソングを歌っていました。轟さんも大きな夢を抱いて加入されたのではないですか?

轟 これまでとは全く違う環境で、必死に練習していました。Lリーグは私が入る前から盛り上がっていて、私のチームにもイメージソングがありました。でも、それよりも、周りのレベルが高すぎたので、私は、ただ必死にやっていた記憶です。周りのことや先のことは考えられなかったです。「練習についていけなかったらサッカーをできなくなる」と思ってやっていました。私は松下電器 パナソニック バンビーナに入るまで、きちんと専門家から指導を受けてGKのトレーニングを積んでいたわけではないので、我流でめちゃくちゃだったと思います。松下電器 パナソニック バンビーナでは、最初はGKトレーニングを見てくださるコーチと先輩に教えてもらいながら練習しました。何年か後にGKコーチが就任されて、より専門的なトレーニングを積ませてもらいました。

ーご自分が上手くなっていく実感はありましたか?

轟 GKコーチに見てもらえるようになってから、より自分が大きく成長したと実感がありました。(我流と比べて)全部違います(笑)。キャッチ一つをとっても、ボールを掴むための手の形とか細かいところまで指導していただいたので、専門的に教えてもらえることはありがたいと思っていました。

ーバブルが崩壊し日本経済が低迷機に入り2000年に松下電器が撤退。松下電器 パナソニック バンビーナは企業チームから市民クラブに変わりスペランツァF.C.高槻へ。選手の立場で変わって困ったことはありますか?

轟 それまでは「午前中に仕事をして午後から練習」だったのが「フルタイム働いて夜に練習」に変わりました。グラウンドも芝のグラウンドから土のグラウンドになりました。とはいえ、いつも同じ練習グラウンドを用意していただいたのはありがたかったです。チームによっては日替わりで異なるグラウンドを点々としなければならない環境に変わったケースもあるので、私たちは恵まれていました。それからGKコーチに来てもらうことが難しくなりました。私の以前のGKコーチが、別の中学生の男の子のチームで指導されていました。そのGKコーチや中学生のチーム、スペランツァF.C.高槻のご厚意により、私は、その、中学生の男の子のチームの練習に週に数日は参加して練習できることになりました。スペランツァF.C.高槻は、選手のことを考えてくださる理解あるチームでした。環境がガラリと変わっても、選手の多くが上手くなりたい想いを持ってサッカーと向き合っていた良いチームでした。

ー2004年にアルビレックス新潟レディースに移籍されます。2007年にプレナスなでしこリーグ1部に昇格されますね。

轟 当時のアルビレックス新潟レディースは1部昇格を目指していたチームだったので、スタッフも選手も、目標に向かって作り上げていく想いに満ちていました。地域の皆さんがすごく応援してくださっていることを感じました。

ー今までは先輩やGKコーチから学びながらプレーされていたのですが、新潟に行って若い選手から頼られる立場に変わったと思うのですがいかがですか?

轟 客観的に見ればそうかもしれませんが、私自身はやることが変わることなく、チームに貢献したいと思っていました。

ープレナスなでしこリーグ1部に昇格し、翌年の2008年に1部残留を果たして引退されました。なぜ、このタイミングで引退になったのでしょうか?

轟 今、振り返ってみると、自分でも、なんでそこまで自分を追い込んでいたのだろうと思うのですが、あの年はメンタル的にいっぱいいっぱいでした。「これ以上、自分を追い込んでプレーを続けるのは無理だから引退しよう」と決めました。

ーここからは、GKコーチの仕事について伺います。

轟 アルビレックス新潟レディース、セレッソ大阪堺レディースでGKコーチを務め、JFAでは女子GKを担当していました。全国で女子GK選手の発掘、トレセン活動、研修会をしていました。

ーGKコーチの仕事とは、どのような仕事でしょうか?

轟 GKをやっている選手はGKコーチの大切さを実感していると思います。技術、戦術に加えてメンタル面でもGKコーチがいるかどうかは、選手にとって大きいと思います。その大切な仕事を「選手と一緒に積み上げていく」重要な仕事だと思います。

ー「選手と一緒に積み上げていく」という表現が、私の中にあるGKコーチ像とピタリとハマりました。GK3人とGKコーチが1つのチームでやっているような感じがします。

轟 GKには特殊なところがあり「GKチーム」の一体感が必要だと思います。だから、選手に寄り添いながら、選手と一緒に成長したいと常に思っています。

ーGKコーチになるのに必要な要素はありますか?

轟 GKコーチに限らず、どの仕事をやるにしても「情熱と覚悟」が必要だと思います。

ーGKコーチをやって良かったと思ったことはありますか?

轟 関わらせてもらった選手が成長している姿を見るのは嬉しいです。今までできていなかったことをできるようになった選手が嬉しそうな充実した顔をしているのを見ると嬉しいです。JFAでは中学生年代のGK育成に関わらせていただいたので、成長した選手たちがU-16、U-17、U-19、U-20の日本女子代表選手として活躍している姿を見られることが増えてきたのがとても嬉しいですね。

ー轟さんが、以前にセレッソ大阪堺レディースのGKコーチをされていたときに、福永絵梨香選手が大阪市立男女共同参画センターの男女共同参画情報誌「クレオ」に掲載されたインタビュー記事で「轟奈都子さんがゴールキーパーコーチをされているのが入団の決め手となりました。」と言われていました。こうした声についていかがですか?

轟 このように思ってもらえたのは、すごく嬉しいことです。でも、それも、私自身がこれまで出会った指導者や選手の皆さんのおかげでもあります。私の指導は、指導者の皆さんから学ばせていただいたことでもあるし、選手たちからも学ばせてもらっている。そうした経験が、その(福永絵梨香選手の)言葉につながっていると思うので嬉しいですし、ありがたいです。

ーさて、次の挑戦は海外が舞台となりました。どのような想いでタイ女子代表とUー20タイ女子代表のGKコーチに就任することになったのですか?

轟 JFAでは普及や選手の発掘・育成で充実したお仕事をさせていただいていました。ただ試合で勝負する場面がない仕事なので、いつか、もう一度(アルビレックス新潟レディースやセレッソ大阪堺レディースでGKコーチをしていたときのように)試合に向けて勝負する場所で指導したい想いがありました。そのようななか今回、すごく有難いお話しをいただき、タイ女子代表とU-20タイ女子代表のGKコーチをやらせていただくことになりました。
チームの仕事、ナショナルトレセンコーチの仕事、両方に良いところがあります。チームの仕事は、ずっと同じ選手とトレーニングを積み上げていくことができます。日々の積み上げに加えて、試合に向かって仕上げていく指導をできます。ナショナルトレセンコーチの仕事の魅力は、たくさんの選手や指導者の方たちと関わらせてもらえるところです。関わらせてもらった選手たちが成長し活躍してくれることが嬉しいですね。2つの仕事は違うタイプで、それぞれの魅力があります。どちらも、やりがいのある楽しい仕事だと思います。

ーアルビレックス新潟レディースの後輩にあたる大友麻衣子さんがチャイニーズタイペイ(台湾)女子代表のGKコーチをされています。女性のGKコーチはまだまだ少ない印象がありますが、大友さんのように既に海外に進出されるコーチもいらっしゃいますね。

轟 大友さんは私がGKコーチを初めてやらせてもらったとき最初の選手です。私がまだGKコーチとしての力がないときに一緒にトレーニングさせてもらいました。選手から色々なことを学ばせてもらいました。女性のGKコーチは、まだまだ数が少ないのでもっともっと数を増やしたいと強く感じています。チームにとってGKというポジションは重要なので、GKの指導者も大切です。ぜひ仲間を増やしていきたいです。大友さんも台湾で頑張っているので嬉しいですし、良い刺激を受けていますね。

ー大友さんは、女性GKコーチの轟さんの指導を受けてGKコーチになっておられるのでGKコーチの第二世代。もうすぐ第三世代が登場する時代に入っているのですね。

轟 自分の教えた選手がGKコーチで活躍してくれているのは、ホント嬉しいですね。

ーGK3人とGKコーチの「GKチーム」と同じように、GKコーチの連携があるのではないですか?

轟 あります。気軽に情報交換や意見交換をできるようしたいと思い、女性のGKコーチのLINEグループを2020年に作りました。横の繋がりをより大事にしながら、さらに仲間を増やし、向上したいです。

ーご自身の今後の目標はありますか?

轟 タイ女子代表では2023年のFIFA女子ワールドカップに出場することが目標です。そして自分が関わらせてもらう選手たちが、少しでも成長できるように自分自身が成長していく。それとGKコーチの仲間を増やしていきたいですね。

<プロフィール>
轟 奈都子 (とどろき・なつこ)
1977年大阪府出身。
地元の小学校でGKとしてサッカーを始め、高校1年生から交野FCでプレー。松下電器 パナソニック バンビーナ、スペランツァ高槻F.C.、アルビレックス新潟レディースでプレーしなでしこリーグ通算158試合出場0得点。2008年よりアルビレックス新潟レディースでGKコーチをスタート。セレッソ大阪堺レディースGKコーチ、日本サッカー協会ナショナルトレセンコーチ女子担当GKサブチーフコーチを経てタイ女子代表とUー20タイ女子代表のGKコーチに就任。日本サッカー協会公認ゴールキーパーレベル3

text by 石井和裕(WE Love 女子サッカーマガジン)

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