サッカーの才能は、すぐさま開花した。大津高校で初めてGKとしてプレーし、高校在学中に日本女子代表に選出。それからはシンデレラストーリーのように、日本女子サッカー界のトップへと駆け上がっていく。世界の舞台も経験し、坂田恵氏は名実ともに日本を代表するGKとなった。しかし、サッカーへの情熱を注ぐも25歳で一度引退することに。
―今回はサッカー界における女性の方々のご活動について、お話を伺えればと思います。
坂田 坂田と申します。よろしくお願いします。
―まず、現在の活動内容について、教えてください。
坂田 今は広島文教大学附属高校の教員として働いています。そこのサッカー部でコーチも務めています。
―高校サッカー部の監督として指導されているというお話も聞いたのですが、現在はコーチなのですね。
坂田 はい。一時期、2年半ぐらいは監督を務めていたこともあったのですが、今はコーチに戻りました(笑)。あと、保健体育の教員なので、生徒たちの授業もメインに見ています。
―授業と部活動の両方を見られているのですね。
坂田 はい、そうです。
―では、1日のスケジュールの流れも教えていただけますか?
坂田 朝は7時30分くらいに学校に行きます。曜日によって違うのですが、基本的にはうちの高校は50分間の授業が6時間目、あるいは7時間目までありまして、授業が終わったあとに部活動を行っています。月曜、水曜、金曜は、その後にU-15(15歳以下)の子どもたちを対象にしたクラブチームの指導をしています。
―ご多忙な毎日ですね。U-15のクラブチームは、お一人でご指導されているのですか?
坂田 いえ、私のほかにも、広島文教大学附属高校サッカー部の監督、広島文教大学サッカー部の監督と3人でU-15のクラブチームを運営しています。うちの高校は大学の附属校なので、大学のサッカー部の監督とも連携を取っています。
―U-15のクラブチームは、どのような選手たちが通っているのですか?
坂田 そちらは、いわゆるクラブチームなので、入会希望者はみんな受け入れています。U-15のクラブチームを始動させたのが2020年のことなので、選手はまだ4人しかいませんが、みんな一生懸命にサッカーを頑張っていますよ。
―なるほど。高校のサッカー部の話に戻りますが、1週間の部活動のスケジュールも教えていただけますか?
坂田 高校のサッカー部は、月曜日以外は活動しています。火曜日から金曜日まで練習をして、土日はたいてい、対外試合が入ってくるといった感じです。
―高校のサッカー部とU-15のクラブチームとで、監督との役割分担はないのでしょうか。
坂田 そうですね。基本的にはどちらも2人そろって見ている感じです。というのも、私のメインの指導対象はゴールキーパーなのですが、そこから波及して今はディフェンス面のコーチみたいな感じで守備を専門に指導しており、監督と話し合いながら選手たちに教えています。
―GK専門コーチというわけではないのですね。
坂田 そうです。ゴールキーパーに特化しているわけではありません。チームの全体的な指導は監督がやっていまして、私はディフェンスに関しても、オフェンスに関しても細かいところを指導している感じです。監督と2人でチームを作っている実感はあります。
―二人三脚で指導をされている感じでしょうか。
坂田 はい。そんな感じですかね(笑)。
―坂田さんご自身がプレーで選手たちに見せることもあるのですか?
坂田 本来はそうしたいのですが、私はもう足を痛めてしまって、ボールを蹴れないんです。だから、例えば監督の隣で何やらボソボソとしゃべりながら(笑)、選手たちの情報を共有しながら指導しています。
―広島文教大学附属高校サッカー部での活動はいつからスタートさせたのですか?
坂田 広島文教大学附属高校サッカー部は2000年に創部したので、チームとしては約22年の歴史があります。そのなかで、私がこの学校に来てからは、今年で12年目になります。
―そもそも、広島文教大学附属高校の教員になったきっかけはどんなことでしたか?
坂田 まず、私はそれまでにナショナルトレセンコーチを含め、日本全国のいろいろなところでサッカーを教えていました。ただ、私は今年で51歳になるのですが、40歳近くになってきた頃に、「そろそろ仕事を安定させたいな」と。その当時からプロの女性のサッカー指導者として生活していくことはなかなか難しくて、生活面を先に安定させたいとも考えていました。そんなときにご縁をいただいて、広島文教大学附属高校で働かせていただくようになったという経緯です。
―その「ご縁」とは?
坂田 話すと長くなるのですが……(笑)。私はもともと、九州の熊本県出身でして、指導者として九州に戻ったときに、鹿児島県にある鳳凰高校女子サッカー部の監督と九州トレセンで出会いました。その鳳凰高校の監督が、今のうちの学校の監督と同い年ですごく仲が良くて。その当時、U-18(18歳以下)女子サッカーの全国大会が冬に九州をメインに開催されていて、その大会に集まるチームのゴールキーパーに指導する機会を、その鳳凰高校の先生から与えていただいたんです。そのとき、参加していたのが鳳凰高校と北海道文教大学明清高校と、そして広島文教大学附属高校でした。
―そのときに広島文教大学附属高校サッカー部と出会ったのですね。
坂田 そうですね。ただ、正直に言うと、当初は鳳凰高校で働かせていただきたい思いがあったのです。でも、その当時は教員という仕事はとても大変だろうと思っていて、志望していなかったところもありました。でも、違う仕事をずっと探していても、なかなか見つけることができず……。そんなとき、広島文教大学附属高校の現監督に、「仕事、ないですかね?」って聞いたところ、たまたま保健体育の教員枠が空いていたようで、採用していただきました。
―タイミングもよかったのですね。教員免許はそのときに取得したのですか?
坂田 いえ、私はもともと保健体育の教員になりたくて、日本体育大学で学んでいたので、教員免許は学生時代に取得していました。
―実は大学生のときから教員を目指していたのですね。ただ、高校生の頃から日本代表に選出されるほど、女子サッカー選手として活躍されています。
坂田 はい。実は、私がサッカーを始めたのは高校時代でした。地元の大津高校に入学し、たまたま授業でサッカーをやったのがきっかけです。そしたら高校3年生の終わりくらいのときに日本代表に選んでいただきました。でも、当時の日本代表には監督とコーチ、トレーナーしかスタッフがいなくて、ゴールキーパーはその3人の誰かに代わる代わるボールを蹴ってもらっていた感じです。だから、学校でも代表チームでも、きちんとゴールキーパーの指導を受けたことがなかったんです。そんななか、初めて女子ワールドカップに参加できることになり、その直前に岡山で合宿したとき、初めてゴールキーパーコーチという職業の人と出会いました。関わったのはそのキャンプだけだったのですが、私は「こんな職業があるんだ」と思って、そのときから指導者に興味を抱き、教員を目指そうと思ったんです。それで、高校卒業後は日本体育大学に進学しました。
―大学時代は教員を目指しながらも、やはり選手としての経歴が目を引きます。日本体育大学在学中に日本女子サッカーリーグの日産FCレディースに加入しました。
坂田 そうですね。加入したときは大学生でした。高校3年生のときに日本代表に入り、そのときの代表監督が日産との関係性も持つ人物だったので、「関東の大学に進むのならば、大学サッカー部ではなく、日産に所属してプレーしたほうがいい」とのアドバイスを受けました。あの当時はまだ大学の女子サッカー部のレベルはあまり高くなかったし、監督としても大学のサッカー部に所属すると日程的に代表活動に呼びづらくなるという思いもあったのだと思います。その日本女子サッカーリーグができたのも、私が高校3年生の年というように、創設間もなかったので、そのリーグでプレーするために日産に行きました。
―選手としてのキャリアを振り返ると、その後はプリマハムFCくノ一でもプレーします。
坂田 そうですね。そのときのプリマハムは、リーグ戦で全勝優勝してしまうくらい、本当に強いチームでした。日本代表や中国代表、カナダ代表の選手たちが所属していて、日本代表に選ばれている選手もレギュラーではなかったほど、すごい選手が集まっていました。私がプリマハムに加入したときは、ちょうどなでしこリーグの前身のLリーグがスタートして、有名歌手がイメージソングを歌っていたり、すごく女子サッカー界全体の盛り上がりも感じていました。
―プリマハム時代はプロ選手として活動していたのですか?
坂田 その当時は女子サッカーに「プロ」はいなかったので、私も登録上はアマチュア選手でした。ただ、プリマハムでは「年俸」という形で給与をいただきながら、プレーしていました。加入1年目は午前中だけ仕事をして、それからサッカーをする感じだったのですが、2年目からはもう仕事をすることはなく、サッカーに専念という生活でした。
―では、プリマハムでの2年目からは、実質的にプロ選手というような形だったのですね。プリマハム時代には、アトランタオリンピックの日本代表候補まで上り詰めています。
坂田 そうですね。最終的には行けませんでしたが、アトランタオリンピックの最終選考までは残りました。
―アトランタオリンピックのバックアップメンバーには入ったのですか?
坂田 はい、入りました。でも、結局は日本代表の最終選考で外れてしまって、アトランタには行かず、宮崎での合宿地から荷物をまとめて帰りました。1998年フランスワールドカップでは三浦知良選手らが大会直前に日本代表から外れましたが、まさにそれと似たような感じで、最終キャンプ地から私を含めて3人くらい、荷物をまとめて帰ったんですよ。
―アトランタオリンピックに出場できなかったとはいえ、日本を代表する選手でしたが、1996年にプリマハムを辞めてしまいます。どのような事情があったのでしょうか。
坂田 プリマハムを辞めたのは、ちょうど、そのアトランタオリンピックの年でしたね。実は、私の親からはもともと「大学の4年間が終わったら地元に帰ってくるように」と言われていたんです。ただ、私が大学4年生のときに、アトランタオリンピックで女子サッカーが正式種目に決定し、当時の代表選手なのでオリンピックに行けるかもしれないと思ったから、どうしてもそこにはチャレンジしたかった。それで親と相談して「アトランタオリンピックが終わる25歳の年まで」という約束をして、大学卒業後も選手を続けることになったんです。でも、実際にはアトランタオリンピックに行くことはできず、プリマハムに帰ってきてから練習をしているときに前十字靭帯を切ってしまい、熊本に帰ることになりました。
―大ケガを負ったこともきっかけとなったのですね。
坂田 そうですね。自分のなかで“25歳まで”っていう親との約束もあったし、ケガを負って残りのシーズンもプレーできる状態ではない。それに、プリマハムでチームメートだった山郷のぞみ選手がすごく伸びてきていたのもあって、私はもうサッカー選手を辞めるタイミングなのかなって。チームの人たちにはだいぶ引き留められたけれど、決意を固めて辞めることになりました。
―それでも、その2年後に田崎ペルーレFCに加入し、現役復帰します。
坂田 はい。なので、最終的には田崎で引退することになります。プリマハムを辞めてから田崎に行くまでの2年間は、地元に帰っていました。
―プリマハムを辞めてからは、地元の熊本県でどのような活動をされていたのですか?
坂田 熊本に帰ってからは、大津高校の平岡和徳先生から「熊本に帰ってきているんだったら、うちのゴールキーパー陣を見てくれないか?」って声をかけてもらって、1年間ですけれど大津高校のゴールキーパーコーチを任せていただきました。
―母校である大津高校サッカー部を率いる平岡和徳先生からお誘いがあったのですね。
坂田 そうです。私が大学時代に教育実習で母校に行ったとき、平岡先生は熊本に戻ってこられていて、大津高校サッカー部の監督でした。それで、現役バリバリだった私は平岡先生に「男の子と一緒に練習させてください」ってお願いしたんです。そのときに受け入れてくださり、プリマハムを辞めてからもお誘いをいただきました。
―では、一度指導者の道を歩み出したのですね。
坂田 はい。プリマハムを辞めてからの1年間は、大津高校のゴールキーパーコーチを務めていました。ただ、女子サッカーが国体種目になるということで、国体に出場するために選手復帰することになったんです。指導業からは一度離れ、その次の年は大津高校に澤村公康さんというゴールキーパーコーチが来てくれたので、私は澤村コーチの練習メニューを高校生と一緒に受けていました。それがきっかけで「もう1回、女子サッカーチームでプレーしたい」って思うようになって、その後に田崎に復帰する流れになるのですが……、実はその田崎に加入するときに、私、実家を家出する形になるんです……(苦笑)。
<プロフィール>
坂田 恵(さかた・めぐみ)
1971年熊本県出身。熊本県立大津高等学校でGKとしてサッカーを始め、日本女子代表に招集される。日本体育大学在学中の1990年には日本女子サッカーリーグの日産FCレディースに加入。1994年にはプリマハムFCくノ一に移籍し、1995年の第7回日本女子サッカーリーグで優勝に貢献した。FIFA女子選手権(ワールドカップ)の日本女子代表メンバーにも2度選ばれ、1996年アトランタオリンピックではバックアップメンバーとなった。同年、一時的に引退するも、2年後の1999年に田崎ペルーレFCで現役復帰。2003年に再び引退し、現在は広島文教大学附属高等学校サッカー部のコーチを務める。