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Vol.33 スペランツァ大阪トレーナー/中島彩香

  • 2022.08.10

    Vol.33 スペランツァ大阪トレーナー/中島彩香

PASSION 彼女たちのフィールド

高校時代に志望したスポーツトレーナーの道を突き進み、専門学校や整形外科、女子ハンドボールチームで多くの経験を積んできた。そして、念願だった“サッカーの仕事”にたどり着く。そこでは運営や広報といったフロント業務が主だったが、トレーナーとしての役割も与えられ、全力で向き合った。そんな中島彩香氏の歩んできた道のりを振り返る。

―まず、現在の活動内容について教えてください。

中島 現在はスペランツァ大阪というチームの広報担当とトレーナーを兼任しています。

―毎日、どのようなスケジュールで動いているのですか?

中島 チームが毎朝8時半から朝練を行っているので、私は7時半ぐらいに練習場に行ってトレーナーとして働き、練習が終わったあとの午後は事務所で広報の仕事に従事しています。事務所ではデスクワークという感じで仕事をし、このような流れで一日を過ごします。

―広報担当とトレーナーという2つの仕事のやりがいについてはいかがですか?

中島 それら2つの仕事にはまったく違う面があるので、それぞれについてお話をさせていただきます。広報という仕事に関しては、私自身、初めて携わりました。チームの選手だけではなく、サポーターの皆さんとの関わりも持つことができるのは広報ならではのことだと思うので、すごく楽しいです。トレーナーに関しては、私がもともと志望していた仕事です。ケガが治った選手が復帰して再びサッカーをしている姿を見ると、すごくうれしくなります。そういったことが、それぞれの仕事におけるやりがいです。

―トレーナーの仕事を目指したのはいつ頃からですか?

中島 高校生のときです。私は広島県の沼田高校でマネージャーとして女子サッカー部に所属していたのですが、女子サッカー部はあまりいい環境が整っていなくて、部員数も少ない状態で戦わなければいけませんでした。それに比べ、男子サッカー部は強かったのもあって、そちらにはトレーナーがついていたんです。女子サッカー部には月に1度くらい、トレーナーがお手伝いという形で関わってはくださっていました。けれど、私はむしろ女子サッカー部のほうにトレーナーが必要なんじゃないかとすごく感じていて。実際に私たち女子サッカー部は選手の体をケアしてくれるトレーナーを求めていました。だから、それがきっかけでトレーナーになりたいと思ったんです。必要とされる場所に行ってあげられるようなトレーナーになりたかったんです。

―では、高校時代にトレーナーの道へ進むことを決心したのですね。

中島 そうですね。その後の進路として専門学校への進学を決めるときには、もうトレーナーを目指すことを決めていました。トレーナーとしてサッカーチームに携われたらいいな、とも思い描いていました。

―トレーナーを目指すための専門学校に入ってからはいかがでしたか?

中島 トレーナーを目指す人がすごく多いなかで、実際にそういった仕事に就ける人って、もちろん実力も必ずあるのでしょうが、それに加えて運だったり、人とのつながりだったりも大事になると思うんです。その点で私はたぶんめちゃくちゃ運が良くて、こういう道に来られたのだと思っています。

―専門学校卒業後はハンドボールチームの広島メイプルレッズでトレーナーを務めることになりますが、どのような経緯があったのですか?

中島 まず、私たちは、その専門学校の一期生でした。先輩がいなかったので就職実績はない学校でしたが、私にとってはそれが好都合でもあったんです。学校側は全力で私の望む就職先へのアプローチをしてくれましたから。私はメディカル系のトレーナーになることに興味があったので、専門学校で勉強する傍ら、整形外科でも働いて、メディカルの部分を学ばせてもらいました。そして、その整形外科で働いていたときに、いろいろな競技を見させてもらい、そこの先輩トレーナーの方が私をハンドボールチームに紹介してくれたんです。

―まさにご縁ですね。

中島 はい、お声がけいただいて「もう、ぜひ!」という感じで返事をさせてもらいました。サッカーの現場以外も経験しないとダメだと思っていたところもあって、もうオファーに飛びつくようにして、ハンドボールチームの話を受けさせてもらいました。女子のハンドボールチームだったので、女性トレーナーはかなり重宝されるところでした。ただ、そのときは整形外科からの派遣という形だったんです。

―あくまで、所属は整形外科だったのですね。

中島 そうです。「整形外科の中島」としてチームに帯同していました。そうすると、もちろん選手のケガを治したり、一緒にトレーニングして選手が復帰すればやりがいを感じるところもあったのですが、どこか「チームの一員」という感覚は薄くて……。やはり、どうしても外部の人という形になってしまう。また、私は仕事としてやっていましたが、選手たちは仕事をしながら競技生活を送っていたので、ハンドボールをプレーすることでお金が発生しているわけではありません。なので、そういったところでちょっとしたギャップを感じ、なんか私だけ立場が違う人だな、と感じたりもしていました。

―難しいですね。実務としては、選手と関わりながらトレーナーの仕事一つひとつを習得していったのでしょうか?

中島 そうですね。当時は私も現場経験があるわけではなかったので、本当に試行錯誤しながら、仕事をこなしていきました。実際にテーピング一つもそうですが、選手とコミュニケーションを取りながら、その積み重ねによる経験値を自分のものにしていったという感じですかね。

―ハンドボールチームとしての広島メイプルレッズで学んだことはどんなものでしたか?

中島 試合のとき、ハンドボールの現場トレーナーは限られた時間のなかで、すぐに判断をして、選手のケガに対応しなければいけません。それは経験としてかなり積ませていただいたと思っています。病院だと時間を使ってコミュニケーションを取り、状態を見ながら診断、治療していく流れですが、ハンドボールの試合では1分1秒を争うなかで対応しなければいけません。素早い判断や対応する経験はだいぶ積ませていただきました。

―そういった素早い判断力や対応力を身につけることも望んでいたところだったのですか?

中島 そこは、実際にチームに入って、やってみないとわからなかったことでした。

―広島メイプルレッズでは3年間を過ごし次の道を選びます。どのようなきっかけがあったのですか?

中島 ハンドボールでは、ありがたいことに日本代表のトレーナーとも知り合いになり、その方がやはり女性トレーナーということで私も重宝していただいて、代表合宿へのお誘いもいただきました。でも私はやはり、サッカーチームでトレーナーをやりたいという思いがありました。ハンドボールの世界ではいろいろな方々への恩も感じていたので、日本代表トレーナーになるのではなく、ここで一区切りつけてサッカーチームを目指そうと思ったんです。広島メイプルレッズを離れるとき、次の仕事が決まっていたわけではありませんでしたが、辞めることを決断しました。

―ハンドボール界でさらに地位を固めるよりも、サッカーチームのトレーナーを目指す思いが勝ったのですね。

中島 はい、その思いが強かったです。トレーナー人生というのもあまり長いものではないと考えているので、なるべく早くサッカーチームに行ければと思っていました。

―ハンドボールチームを離れてから、女子サッカークラブのスペランツァ大阪で働くことになります。

中島 幸いにもサッカー協会に知り合いがいまして、その人にトレーナーを募集しているチームがないか探してもらったんです。そしたら、今も働いているスペランツァが公募をしていたようで、お声がけいただき、運営担当という形で入社させていただきました。

―トレーナーではなく、運営担当だったのですか?

中島 はい。ハンドボールチーム時代のような外部トレーナーという立場でチームに関わることはもう考えていなくて、サッカー界に入れるのであればクラブのフロントスタッフとしての業務でもいいと思っていたんです。クラブからも面接のときに、「すでにトレーナーがいるので、今回は運営担当としての入社という形でもいいですか?」と聞かれ、私も「それでも大丈夫です」と答え、運営担当としてスペランツァに入ることになりました。ただ、そのときのチームのトレーナーが「ちょっと一人では難しい」ということで、シーズンの途中からはトレーナーとしてもチームに関わらせていただくことになったんです。

―サッカー業界の仕事は、そのときが初めてになりますか?

中島 実は高校生のときに、高校の女子の大会運営に携わっていました。私たちのチームが負けたあとに運営のお手伝いをする形でしたが(苦笑)。当時の女子サッカー部の先生が広島県サッカー協会の関係者でもあったので、そのつながりで私たち部員も運営に参加していたんです。ときにはサンフレッチェ広島の試合の記録員も経験しました。

―スペランツァ大阪加入する前から、サッカーの仕事経験は豊富だったのですね。スペランツァ大阪の運営の仕事はいかがでしたか?

中島 私が想像していたよりも、「選手やチームとかけ離れている立場だなあ」というのが最初の印象としてありました。選手たちと会うのも試合の日くらいでしたからね。

―運営の仕事は、現場のトレーナーの仕事とは真逆のように感じます。仕事に臨むうえで苦労もあったのではないですか?

中島 そうですかね、真逆とは思ってはいないです。いろいろなものの手綱をうまく裁くという意味では、どこか似ているのかなとも感じています。実際に「サッカーのコートって、もともとはラインが引かれていないんだ」というところから始まって、天候に左右されたりしながらライン引きの担当者とのやり取りをしたり、ホームタウンである大阪府高槻市の方々とのやり取りをしたり。私の知らないことばかりでしたが、あまりスタッフの人数が多くないこともあり、いい意味で自分流に働かせていただきました。

―では、運営の仕事においてもっともやりがいを感じた瞬間はどんなときでしたか?

中島 もう何事もなく試合が無事に終わった瞬間は「よかったあ」って、毎試合のようにホッとしていましたね。運営責任者は公式記録にサインをするのですが、名前も載るので、かなりの責任を感じていました。だから、選手が出場試合数をカウントするように、私も運営責任者として担当した試合数を数えていました。まず、100試合を目指そうと思って、毎回サインしていましたね。実際のところ、100試合に達する前に運営の業務からは離れてしまったのですが。

―そのあとは、どのような役割を担当されたのですか?

中島 そのあと、1年間はトレーナーの仕事だけに専念することになりました。それからもトレーナーの仕事をメインで続けつつ、デスクワークも多少行っていましたが、あるとき正社員としてフロントスタッフの仕事を続けるか、契約スタッフとしてトレーナーの仕事に専念するか、その選択をしなければいけなくなったんです。私はなぜか安定の道を選んでしまって(笑)、それで次は広報業務を担当することになりました。でも、なんの巡り合わせか、また私に「トレーナーとしても手伝ってほしい」という声をかけてもらって、また二足の草鞋を履くことになったんです。

―やはりトレーナーの仕事とも縁があるのですね。広報の仕事では、どのような苦労がありましたか?

中島 今の時代は“SNSの時代”とも言われるくらい、やはりSNSが盛んですよね。でも、私自身はプライベートでは本当に発信するのが苦手なタイプで……。マメな人間ではないので、SNSで発信する業務にはかなり苦戦しました(苦笑)。ただ、毎日のように投稿していくと、そのぶんフォロワー数も伸びることに気づいたんです。さらに、投稿を見たファンの方々にリアクションもしていただけると、うれしくもなりますよね。そういったところがやりがいとして感じられるようになっていきました。

―SNSでは選手との企画も盛んに実施されたのではないですか?

中島 そうですね。ただ、私自身は変に気を使ってしまって、「これは選手にやらせすぎかなあ」とか「選手に協力を仰がなくてもできる方法はないかなあ」と考えることも多くありました。

―そのなかで試行錯誤もあったと思います。工夫を凝らしたなかで、うまくいったことは何ですか?

中島 昨シーズンのファン感謝イベントは、コロナ禍でもあるのでオンラインで録画配信をしたんです。シーズンを通して選手とファン・サポーターとがふれあう機会があまりなかったこともあり、それにはすごく反響があって良かったです。ファンの方々から「ありがとうございました」というようなメールやお手紙を個人的にいただけて感激しました。

―これから先は、どのようなチャレンジをしたいと考えていますか?

中島 今後については、実はまたトレーナー一本で働こうと考えています。もちろん、契約形態も変更するつもりでいます。

―次はトレーナー一本で働きたいというのは、ご自身の希望ですか?

中島 そうです。ありがたいことに、クラブから“相談”という形でお話をいただきました。私も「ぜひ、お願いします」という返事をさせていただきました。

―原点回帰ですかね。

中島 そうですね。またトレーナーという立場で勝負の世界に飛び込んじゃおうと思います(笑)。トレーナー専属という立場から一度離れたことで、見える世界は広がりました。だからこそ、また戻りたいという思いも大きくなったのかもしれません。

―では、今後のトレーナーとしての目標も聞かせてください。

中島 もちろん、日本代表のトレーナーになることにはすごく憧れているし、これからも目標として持っていたいところではあります。ただ私としては、それよりも自分がサポートさせていただくチームの選手が日本代表に選ばれたりするほうが、個人的にはうれしいです。選手には、なるべく長い競技人生を送ってほしい。そういった思いが根本にあってトレーナーを志したところもあるので、早く引退するような選手を少しでも減らしたいというのが、トレーナーとしての目標でもあります。

―今後のトレーナーとしての活躍を期待しています。ありがとうございました。

中島 はい、頑張りたいです。ありがとうございました。

<プロフィール>
中島 彩香(なかじま・さやか)

1991年広島県出身。広島市立沼田高校女子サッカー部に所属し、高校時代から大会運営などに携わる。卒業後はトレーナーになることを志し、広島リゾート&スポーツ専門学校へ進学。トレーナーとしてのノウハウを学ぶ傍ら、在学中に広島市内の整形外科にも勤務し、多くの知識や経験を得た。その後、女子ハンドボールチームの広島メイプルレッズで3年間にわたりトレーナーを務め、2017年にスペランツァ大阪入社。トレーナーの業務と並行して、フロントスタッフとして運営や広報業務もこなしてきた。

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