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Vol.4 ガンバ大阪/MF遠藤保仁

  • 2019.08.20

    Vol.4 ガンバ大阪/MF遠藤保仁

みんな、昔はサッカー少年だった

■ 日本人初の公式戦1000試合出場を達成。その偉業を支えたのは『頭』。

その人は、1000試合目もいつも通りの雰囲気を漂わせて、ピッチに登場した。
ガンバ大阪の遠藤保仁だ。J1リーグ21節『ヴィッセル神戸VSガンバ大阪』戦。中盤のアンカーにポジションを取ると、ゲームの流れ、相手の立ち位置を見極めて細かくポジション修正を図りながら、前線へパスを配る。相手にプレッシャーをかけられても焦らない、慌てない。かと思えば、瞬時にスピードを上げてボールを奪う。残念ながらそのプレーを勝利には繋げることができず、2−2の引き分けで終えたが、試合後はいつものように表情を変えることもなく、ゆっくりとした口調で戦いを振り返る。『偉業』の達成にも冷静で、静かに感謝の思いを口にした。
「素直に、嬉しく思います。長くやってこれたから実現できた。家族や仲間、スタッフなど、いろんな方にサポートしてもらってこその数字なので、感謝しています」
驚くべきは、1000試合の殆どを先発出場で戦ってきたことだ。キャリアを長く続ければ、共に仕事をする監督の数も多くなり、ともすれば監督の嗜好するサッカースタイルに合わないことを理由に起用を見送られることがあっても不思議ではない。だが、遠藤は所属チームでも、日本代表でも、常に「必要な選手」とされてきた。それぞれの監督が嗜好するサッカースタイルが違ったにもかかわらず、だ。1000試合のうち、J1リーグの621試合で仕事をした監督は横浜フリューゲルス時代のカルロス・レシャックに始まって現在の宮本恒靖まで10人を超え、日本人最多出場記録を持つ日本代表の152試合では、ジーコ、イビチャ・オシム、岡田武史、アルベルト・ザッケローニ、ハビエル・アギーレらとともに3度のワールドカップを戦っている。その事実が、彼のキャリアを雄弁に物語っていると言っていい。
だが意外にも遠藤は「監督が代わっても、プレースタイルを変えようと思ったことはなかった」と言い切る。理由がまた遠藤らしくて痛快だ。
「もちろん、サッカーにおいて選手は監督に『使われる側』の立場なので、監督が嗜好するサッカーに寄せようとはするし、最低限の約束事も守ります。でも、自分のプレースタイルを変えてそれらに取り組もうとは思わない。言うなれば、監督の理想とするサッカーを実現するために、自分のプレースタイルでできることを考える、みたいな。もっと言えばプレースタイルは変えずに『こいつをここに置いておけば間違いないだろう』『使うしかないか』と思わせられるような…少し上からの言い方になるけど「『僕の考えの方が良くないですか?』ってことをプレーで示すことを意識する。だって、自分は自分でしかないのに、ただ監督のいいなりに、そのポジションで求められる役割を「こなす」だけの選手になってしまったら、僕ではなく他の誰か、でもいいはずだから」
そして、その時の武器にしてきたのが、幼少の頃から培い、大切にしてきた「頭」だと言う。言葉を続ける。
「これはプロ1年目に実感したことでもあるけど、周りをしっかり見て、頭を使ってプレーできればどの監督の元でも生きる術を見つけられるはずだし、高いレベルの中に置かれても遅れをとらずに、楽にプレーできる。この頭…つまり考えてプレーできるサッカーIQこそが、僕の1000試合を支えてきた最大の武器だと思う」

その言葉に、彼がかつて語った子供時代の話が蘇る。鹿児島県桜島町(現・鹿児島市)に生まれ、桜島町立桜州小学校に通っていた彼が同校の少年団でサッカーをしていた頃の話だ。
「幼少の頃も、小学生になってからもいつも言われ続けていたのが『身体より頭が疲れる選手になれ』ってことだった。監督からは毎日のように『周りを見ろ』『頭を使いなさい』と言われていたから、常にキョロキョロと頭を動かして、誰がどこにいるのかを確認しながらプレーしていた」
その『最大の武器』はJリーグが発足していなかった時代から、すでに育まれていた。

三兄弟の三男として生まれた遠藤は、
二人の兄に憧れて大きくなった。 ©11aside

■ 二人の兄に憧れた幼少時代。点取り屋から、点を取らせる側へ。

6歳と4歳上の二人の兄を追いかけて、幼少の頃から当たり前のようにサッカーを始めた。土地柄もあり、遊び道具はいつもサッカーボール。家にいるときも、外にいても遠藤のそばにはボールがあった。二人の兄は常に遠藤の『お手本』で、まだ小さくて一緒にボールを蹴れない時はその傍らでじっと兄のプレーを観察し、一緒にボールを蹴れるようになると、体格差のある兄からなんとかボールを奪おうと必死になった。

「小学3年生になるまで少年団には入れなかったから、自宅の庭や公園、通学路でいつもボールを蹴っていました。朝起きて、学校に行くまでの短い時間も、兄貴たちと庭でミニゲームをしたし、兄貴たちが学校から帰ってくるまでは、一人で家のカーテン向かってボールを蹴って待っていました。カーテンっていい感じでボールを吸収してくれるじゃないですか? それを見ながら僕もカーテンのような強さとしなやかさでトラップができるようになりたいな、って思っていた。昔も今も、僕にとっては二人の兄がヒーローで、憧れの存在でした」
幼少の頃に特に楽しさを見出したのは「蹴ること」だ。本人曰く「サッカーのためにというより、単純に蹴るという動作が好きだった」らしく、育った環境も味方にして、とにかくいろんなものを蹴りまくった。
「学校までの通学路も車や人がほとんど通らない山道で…さすがにボールは蹴れなかったから、その辺に転がっている小石や缶をボールに見立てて蹴りながら登校して…。いびつな形の石や缶をどうやって蹴ったら自分の進みたい方向にスムーズに進めるのか、とか、回転の仕方を観察して、道からそれた石をどう蹴れば元に戻せるのかを考えるのがすごく楽しかった」
憧れの兄と初めて同じチームでプレーしたのは、小学3年生のときだ。次男でのちにJリーガーとなった彰弘とともに6年生チームに入れてもらった遠藤は、明らかに体格では見劣りしたが、かと言ってコテンパンにやられた印象もなかったと振り返る。
「小学生の時なんて『デカいもん勝ち』みたいなところもあるから、体格も足の速さも、なにもかも格段な差があったけど、そこについては最初からどこか諦めていたような気がする(笑)。でも、その頃から妙にテクニックには自信があったからか『やられっぱなしだから嫌だ!』なんてことは全く思わなくて。同学年と試合をするとき以上に楽しくて、これもしてみよう! あれもしてみよう! ってチャレンジしまくっていました。しかも、うまくいかなくても…ってか、ダメだったことが殆どだった気がするけど、諦めが悪いのか、負けず嫌いなのか、できるまで何回でもやり続けていました」

9歳の元日。
中央の遠藤を挟んで右隣が長男の拓哉、
左隣が元Jリーガーで次男の彰弘と。 ©11aside

桜島中学に進学すると、そのプレースタイルにやや変化が生まれ、小学生の時の『点取り屋』から、足元の技術と『パス』を強みにアシストする側にまわることが増えた。その中で自然と生かされたのが、頭を使ったプレーだ。FWとしてプレーしていたとき以上に、中盤ではキョロキョロと頭を動かして周りを確認してプレーすることの効果を実感した。
「当時の桜島中にはうまい選手が多く、自分が考えてプレーすれば確実に得点に結びつくという成功体験もあったからか、中学生になると中盤をうろちょろしながら、自分で状況判断をして前に、後ろにと動くようになった。しかも最初は味方の2〜3人だけを見てプレーしていたのが、いつの間にか3〜4人が視界に入るようになり、そうこうしているうちに、味方だけではなくて相手選手も含めて常に7〜8人を見ながらプレーできるようになって…と、より広範囲でいろんなことを確認しながらプレーできるようになると、より頭を使ってプレーするのが楽しくなった。ただ…周りをうまく使えば試合中、自分が楽をできるとも知ったことで、サボることも覚えてしまったけど(笑)」
また、ピッチでは常に、監督から『自由』を与えられていたこともプレーのアイデアを膨らませるきっかけになったと振り返る。事実、当時は中学生ながら、やや大人びたプレーをすることも多かったが、それを監督に咎められたことは一度もなかった。
「6つ年上の兄・拓也のプレーを真似て、いろんな箇所でボールを蹴る、といったチャレンジは常にしていたし、試合中でも右のアウトサイドでパスを出したり、自分なりにいつもとは違う組み立て方を考えたり。いわゆる、『遊び心』をもったプレーをすることが多かったけど、それをやめろといわれたことは一度もない。もちろん、それは僕がそういうプレーをしたところでミスが少なかったからかも知れないけど、仮にあの時代に『遊び心』を封印させられていたら、今の自分のプレースタイルはなかったかもしれない」 

中盤として覚醒し、『アシストする側』にまわることが増えた桜島中学時代。 ©11aside

■ 単身で乗り込んだ2度のブラジル。『パス』により磨きをかけて、プロへ。

二人の兄と同じ、鹿児島実業高校に進学してからは1年時から頭角を現した。といっても、入学したばかりの頃は、中学生と高校生のスピードや体の強さの違いに「サッカー人生で初めて戸惑った」ことも。また小・中学生時代以上に頭の回転の速さを求められることが増え、練習が終わると頭と身体がグッタリ…なんてこともよくあったそうだ。それでも、次第に慣れ始めるとボランチとして存在感を示せるようになり、先輩に混ざってコンスタントにピッチに立った。
そんな彼が学生時代のターニングポイントだと振り返るのが、鹿児島実業高校でコーチをしていたブラジル人のカルロスとの出会いだ。遠藤が高校1年、2年時の春休みを利用して、ブラジルのサンパウロ州リーグ2部のイトゥアーノに3週間、3部のサンベントスロカーダに3週間ほど短期留学をしていたのは有名な話だが「おそらく、一人で行かせろと松澤隆司監督に助言したのもカルロスだったはず」と遠藤。だが、結果的に単身、ブラジルに乗り込んだ経験は、かけがえのない時間になった。
「出発のときも旅行会社の人がエアチケットを持って成田空港にきて『これに乗って、ロサンゼルスで乗り換えてください』って教えられただけだからね。あとは『今、カルロスコーチがブラジルに帰国しているので何かあったら彼に連絡をするように』と。今思ったら、我ながらよく行ったな、と(笑)。携帯電話もなかった時代で、簡単に情報を手に入れられなかったから逆に良かったのかも。知っていたらビビったかもしれないから。しかも現地に着いてからも通訳もいないから何が何だか、って感じで(笑)。でも、プロチームだからチームメイトは大人ばかりで、子供の僕をすんなり受け入れてくれたし、何より体格の違う大人と一緒にプレーするのが毎日楽しくて仕方なかった。言葉がわからないから、ほぼ泊まっていたホテルから遊びに出ることもなくて、毎日練習して、ホテルに帰って、寝て、起きての繰り返しで…1日の過ごし方としては鹿児島にいる時とあまり変わらなかったし、食事も…格別美味しいとは思わなかったけど食べられないものもなかったしね。またプロのハングリーさに触れられたのも良かったことの1つ。選手の誰もが『上のリーグにいくんだ』って欲が強く、結果を出せなければ即クビという状況だったから『結果』に対してもものすごくシビアで、向上心もあった。と言っても、僕はまだ高校生で、ただただ楽しくサッカーをしていただけだったけど、今になって思うと、そういう世界に触れた経験が、のちの自分に与えた影響はあったと思う」
そんな風に環境に与えられる刺激のみならず、チームでもカルロスコーチからはたくさんの刺激を受けた。中でも氏が練習や試合で遠藤に出した数多くの要求は彼の意識に刺激を与えたそうだ。
「特に印象に残っているのが、僕だけ『1試合に100回パスを出せ』と言われ、毎試合、パスの回数とミスの回数を数えられていたこと。ガンバが以前…08年前後にめちゃめちゃ攻撃的なサッカーをしていた時代でさえ、僕のパス数は80〜90回だったと考えても、100回触ることがどれだけ大変かは想像できると思う。でも、そうやってカウントされることで、僕の負けず嫌いが発動して、より多くボールを触ろうと意識したし、ミスにも敏感になった。ミスをすれば、当然、その回数は減ってしまうから。今になって思えば、その積み重ねがプレーの正確性に対する拘りに変わっていったところもあったと思う」
その言葉にもあるように、サッカーでは常に『負けず嫌い』な性格が顔を出してきたが、サッカー以外のことには面白いくらい競争には興味がなかったそうだ。遠藤曰く「足は速かったから本気を出せば一番になる自信もあった」が、校内のマラソン大会などではほぼビリに近かったと笑う。
「駅伝部の友だちは決まって監督から『●位以内で必ずゴールしろ』とプレッシャーをかけられていたように、サッカー部も一応、松澤監督からは似たようなことを言われていたけど、そんなのはお構いなしで、僕は毎回、ほぼビリに近い順位だったと思う。だってそこで一番になったからといってサッカーが巧くなるわけじゃないから(笑)。それに頑張りすぎて体力を消耗すると、そのあとのサッカーの練習に響くのも嫌だったしね。むしろ体力は温存してサッカーを頑張れるようにしておこうと思っていた。これはサッカー部内で行われていたタイム走なども同じで…このタイムまでにゴールしなさい、と言われると、チームメイトの中には張り切ってタイムより5〜6秒早くゴールするやつもいたけど、僕は決まってほぼ設定タイム通り。そこで一番になろうなんて考えたこともなかった。なぜなら、僕が手に入れたいのはマラソン大会での称号ではなく、サッカーでの結果だったから。そういう意味では僕の負けず嫌いってサッカーに対してだけのもの。それ以外のところでは…何に負けてもぜんぜん気にならない」

鹿児島実業高校時代。
右隣にはカルロスコーチの姿も。 ©11aside

そんな学生時代を経て、98年、横浜フリューゲルスでスタートしたプロサッカー選手としてのキャリアは今年で22年目を迎えた。冒頭に書いた通り、戦った公式戦は実に1000試合。Jリーグで、日本代表で長きにわたって第一線を走り続けてきた。
その戦いの軌跡を振り返り、「キャリアを語る上でキーになった試合」だと話すのが、プロ1年目のJ1リーグ、横浜マリノスと戦った開幕戦だ。当時のレシャック監督にいきなりのスタメンに抜擢され、錚々たるメンバーを押しのけ先発のピッチに立った遠藤はそこで感じたプロのレベル、スピード、選手のクオリティが自身の基準となり、そこに相応しい自分になるために努力を重ねられたと振り返る。

「プロ1年目の開幕戦でプロの本気を体感し、試合に出ることの必要性を体感し、Jリーグの凄さを味わって、自分がまだまだやらなきゃいけないと肌身で感じられた。そこからはずっと自分に対する『もっと、もっと』の連続で、よりレベルの高い試合を戦いたい、サッカーって楽しい、って思いに背中を押されて気がつけば今のキャリアになっていた。その間、後悔がなかったといえば嘘になる。っていうかサッカーはミスが起きるスポーツだと考えれば、後悔だらけかもしれない。『あの時、あのパスが通っていたら』『あそこで決めていたら勝てたかも』ってね。でも、その後悔があるから知恵もつき、体がいろんなことを覚え、失敗を何度も繰り返して『プレーの幅』になってきた。いつまでたっても、どれだけ経験を積んでも、その追求に終わりがないから、サッカーはやめられない」
穏やかで、ゆったりとした空気を漂わせながら作り上げてきたキャリアがこの先どこに向かうのか、今はまだ彼にもわからない。ただいくつになっても、ピッチに立ち続ける限り、そこにはサッカーを楽しむ遠藤保仁の姿がきっとある。

<PROFILE>
遠藤保仁(えんどう・やすひと)
1980年1月28日生。178センチ、75キロ。
鹿児島実業高校卒業後、98年に横浜フリューゲルスに加入。Jリーグ開幕戦でプロデビューを飾る。同年のチーム消滅を受け、翌年、京都サンガF.C.に移籍した。その後、01年にガンバ大阪に移籍し不動のボランチとして活躍。05年のJリーグ初優勝に始まり、08年のACL制覇など、数々のタイトル獲得に貢献した。また日本代表としても06年のドイツ大会を皮切りに3度のW杯を経験。日本代表出場歴はアジア最多の152試合を数える。また09年にはアジア年間最優秀選手賞に、14年はJリーグMVPに輝くなど個人賞も多数。Jリーグベストイレブンには歴代最多の12回選出されている。

text by Misa Takamura

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