2019年11月中旬。アルビレックス新潟から契約満了を告げられた。35歳という年齢、シーズン公式戦出場数6試合。クラブの判断は妥当だと感じたし、もっと言うと、シーズン途中にはこうなる未来を覚悟していた自分がいた。
そしてそれが現実となった時、自分の中での選択肢は2つに絞られた。1つは自分を必要としてくれるチームを探し現役続行。もう1つは13年の現役生活に終止符を打つこと。すなわち引退。新潟に加入した時、漠然とながら「新潟が最後のチームになるだろうな」と考えていただけに、ついにこの瞬間がきたか。そんな気持ちだった。
ただ、クラブ側に今後の方向性について聞かれたとき、とっさに出た自分の答えは前者だった。まだまだ試合に出てチームに貢献できる自信もあったし、好きなサッカーを続けたいという思いも強く、その瞬間には引退する覚悟ができていなかったからだ。そのことを代理人にも伝え、次のチーム探しが始まった。
とはいえ、簡単に手を挙げてくれるチームはなく、すでに現役を引退している同級生や先輩・後輩、サッカー関係者の方々と会い、色々な話を聞き、引退後の人生をなんとなく考える、という日々が続いた。
そんな中、FC TIAMO枚方のゼネラルマネージャーに就任する事が決まっていた巻佑樹から「チームは決まった? ティアモに来ない?」と誘いがあった。関西サッカーリーグ1部に所属しJFL昇格を目指すチームで一緒に戦おう、と。名古屋グランパスに同期で加入した『親友』と呼べる彼からの誘いだということはもちろん、何より選手として自分を必要としてくれたことが素直に嬉しかった。ただ、その時点での思考が引退に傾いていたこともあり「少し考えさせてくれ」と、すぐに答えを出すことはできなかった。それが12月の下旬のこと。年明けの1月5日から10日までB級ライセンス前期養成講習会を受講予定だったので、その期間に自分と向き合って考え、遅くても受講期間中には返事をしようと思っていた。
すると今度は1月9日、佑樹から思いもよらない一言が飛び出した。
「監督は興味ない?」
「ティアモの監督をやらない?」
その瞬間、自分の脳が驚きと喜びを感じたのと同時にモチベーションが一気に上がった。
チームが決まらない日々を過ごしながら、選手を終えた後、自分が何をしたいのか、どこを目指すのか、今後のサッカー人生を考えていく中で出した答えが『クラブのトップチームに携わりタイトルを獲ること』だったからだ。
この『トップチームに携わる』とは、フロントの一員として選手の編成やチームを強化する立場になることと、監督としてチームを率いることの2つの意味を持つ。もちろん選手時代と同じく、クラブに必要としてもらわなければ就けない仕事だと理解していたが、正直、こんなにも早く、監督という仕事ができるチャンスが巡ってくるとは思ってもみなかった。
だからこそ、佑樹の質問に対する答えは、
「興味ありまくり!」
即答だった。まだ引退は決断していなかったとはいえ、監督としての話をもらった時点で心は決まっていた。
思い返せば現役時代もキャリアを重ねていく中、特に新潟で過ごした2年半では、戦術について考えたり、監督やコーチ、選手同士でピッチで起きた問題の解決策を見出すことに楽しさを感じるようになった。そのせいか、国内外の試合を見て、面白いと思った監督やその戦術、監督の言葉や、過去に一緒に仕事をした監督が行ったトレーニングなどを自然とノートにメモしていたこともあった。そんな風に13年間の現役生活でインプットした経験や知識を、今度は監督という立場でアウトプットできる、こんなやりがいのあるチャレンジを「やる」以外の答えは自分にはなかった。
もちろん、引き受けるからには結果にこだわって、チームのJFL昇格のために全てを注ぐ覚悟だが、一方で、監督という新たな立場でサッカーに携わることで自分が一人の人間としてどれだけ成長できるかも楽しみで仕方がない。
1月17日。正式に引退を発表し、僕はFC TIAMO枚方の監督としての第一歩を踏み出した。
小川 佳純Yoshizumi Ogawa
1984年8月25日生まれ。
東京都出身。
07年に明治大学より名古屋グランパスに加入。
08年に新監督に就任したドラガン・ストイコビッチにより中盤の右サイドのレギュラーに抜擢され、11得点11アシストを記録。Jリーグベストイレブンと新人王を獲得した。09年には、かつてストイコビッチも背負った背番号『10』を背負い、2010年のリーグ優勝に貢献。17年にはサガン鳥栖に、同年夏にアルビレックス新潟に移籍し、J1通算300試合出場を達成した。
20年1月に現役引退とFC TIAMO枚方の監督就任を発表し、指導者としてのキャリアをスタートさせた。