COLUMN

REIBOLA TOP > コラム > Vol.3 Jリーグ復帰の決断②

Vol.3 Jリーグ復帰の決断②

  • 2020.05.20

    Vol.3 Jリーグ復帰の決断②

発源力

診断が、3週間から6〜8週になった中で芽生え始めたメディカルへの不信感…。その中で唯一の砦となったのが「何件回っても同じ検査、診断しか出ないし、意味がないな」と思っていた病院回りの中で、最後の最後に「若い時に日本で医学を学んだ」というドクターに出会えたことでした。そのドクターがチームドクターに「日本の医療はすごい。僕は実際に日本で勉強をしたからそれが分かる。彼を今すぐ日本に帰して治療させるべきだ」と進言してくれたことで、ようやく帰国の許可が降り、僕は12月の末からに2週間、日本に戻ることができました。と同時にその足で訪れたJISS(国立スポーツ科学センター)で検査を受けた結果、痛みの原因が明らかになったことも少し気持ちを軽くしてくれました。
その際に言われたのは「もともと源は足首が人よりかなり柔らかい。それによって他の選手なら靭帯が断裂するくらい足首をひねっていたのに、靭帯が大きく伸びただけで済んだのだろう。ただ激しくひねったことで、足首を取り巻く骨の組織が大きく崩れてしまっている。レントゲンでも距骨などが変形しているのが分かる」ということでした。それを受け「2週間でやれる範囲のことをやってみよう」とで治療とリハビリを行い、一旦は約束通りに2週間でフランスに戻りました。
ただ、原因がわかり、リハビリの方法が明らかになったものの2週間では完治には程遠く…。かつトゥールーズにはJISSのような治療のための施設や器具がない状況から再度「完治するまで日本で治療させてほしい」とクラブにお願いしたものの認められず。そこで日本で行なっていた毎日9〜13時、14〜17時のリハビリスケジュール、使った器具名の正式名称まで事細かく報告し「これだけの治療をできる環境はないだろう?」と尋ねても、「ここでもできる」の一点張りでした。「なら、その器具を今、見せてください」と言うと「今はない」と。そうした不毛なやりとりに完全に気持ちが切れ、このまま足首の痛みが長引けば、サッカー人生そのものに影響が出てしまうと判断した僕は、仲介人に連絡をして「日本に帰ります。治療のためだけではなく日本でプレーできるクラブを探してください」とお願いし、まずは自分の中でのJリーグ復帰を決断しました。フランス国内の他クラブや他国への移籍も考えましたが、半年近くプレーしていない状況や、メディカル体制が整っているとは限らないことへの不安から、まずは足首を完治させてピッチで活躍できる自分を取り戻し、サッカー人生を立て直したいと思ったからです。
その際の仲介人とのやりとりは今でも覚えています。それまでの過程も事細かく報告し、仲介人もリハビリについてクラブとの交渉を何度も行ってくれていた状況もあって、僕が帰国の意思を伝えると「源の思いを汲む。本当に悔いはないな?」。再度念押しされた僕が「ないです。帰ります」と答えると、「わかった。じゃあ、移籍先は決まってるよな」「はい、もちろんです」でした。
仲介人と僕との間ではクラブ名を出すまでもなく日本に戻るなら、その場所は1つだと考えていたからです。事実、その時はJリーグ復帰という言葉の先に、赤いユニフォームを着る自分しか想像していませんでした。(つづく)

  • 昌子 源Gen Shoji
  • Gen Shoji

    1992年12月11日生まれ。
    兵庫県出身。
    11年に米子北高校から鹿島アントラーズに加入。14年には自身初のJ1リーグフル出場を実現するなど主軸選手に成長を遂げ、16年のJ1リーグや天皇杯優勝、18年のAFCチャンピオンズリーグ制覇などに貢献した。
    18年12月にトゥールーズFCに完全移籍。すぐさまレギュラーに定着するも2シーズン目はケガに苦しみ長期の戦線離脱に。その状況を踏まえてJリーグへの復帰を決断し、20年から3シーズンはガンバ大阪で、23年は鹿島アントラーズでプレー。24年はFC町田ゼルビアに完全移籍となった。
    14年に日本代表に初選出。2018FIFAワールドカップ ロシア出場。

  • アカウント登録

  • 新規会員登録の際は「プライバシーポリシー」を必ずお読みいただき、ご同意の上本登録へお進みください。

ガンバ大阪・半田陸が戦列復帰へ。
「強化した肉体とプレーがどんなふうにリンクするのか、すごく楽しみ」