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Vol.17 修徳FC コーチ/柿沢和美

  • 2021.07.07

    Vol.17 修徳FC コーチ/柿沢和美

PASSION 彼女たちのフィールド

Lリーグで活躍し、20代半ばで現役を引退してからは3児の子育てに奔走。友人の誘いで始めたママさんバレーがきっかけとなり、再びサッカーの世界へと舞い戻ることになった。今もなお、サッカーへの情熱は冷めることなく、選手、審判、そして指導者といくつもの顔を見せる。そんな柿沢和美氏は、サッカーと関わる幸福感に満ちあふれている。

―トライフットボールスクールの泉美幸さんからご紹介をいただきました。柿沢さんは幅広い分野でご活躍されているそうで、泉さんは「体がいくつあるのだろう?」と話していました。

柿沢 よく言われます(笑)。周りのみんなから「ちゃんと休めているの?」と聞かれたりもしますよ。泉さんとは、彼女が中学1年生のときからの長い付き合いです。Lリーグの始まりのときも同じチームでプレーして、その後スポンサーが変わった時も、チームが解散した後の鈴与清水FCラブリーレディースへも一緒に行きました。最後は、私の方が先に鈴与清水を辞めて、引退をしたんです。

―現役引退をされたのはいつでしたか?

柿沢 私26歳になる誕生日(12月14日)の前に辞めました。その年のリーグ戦が終わったタイミングで、ずっと母が体調を崩していたのに、それまで親に何もしてあげられなかったから、鈴与清水に「母の看病をしたいので」という理由で辞めさせてもらい、母の元へ帰りました。

―親孝行ですね。

柿沢 それまでは母の看病を姉に任せてばかりで、私はやりたいことをずっとやらせてもらっていて、帰ったときに病院に連れていくことくらいしかできていませんでした。それに、母親が生きているうちに結婚した姿とか、孫を見せたかった思いもあったんです。でも、結婚式は見せられましたが、初孫を出産する前に母が亡くなってしまって、長男の顔を見せることはできませんでした。

―それは心残りですね。その後は育児に専念を?

柿沢 3人の子どもに恵まれて、10年くらいは育児でバタバタでした。毎日があっという間で。その間は、あえてサッカーの情報はまったく入れませんでした。いろいろ知ったら、やりたくなっちゃうので(笑)。ただ、末っ子が2歳半くらいになったころに、友達からママさんバレーに誘われたんです。私も興味があったし、活動場所が近くの小学校の体育館だったので、3人の子どもを連れながら、参加するようになりました。それで年賀状に「バレーボールを始めました」って友達に知らせたら、昔の仲間のサッカーチームから勧誘されたんです。「サッカーを解禁していい?」って家族に聞いたら、夫も「いいんじゃない」と言ってくれて。また子ども3人を連れて、サッカーチームに入りました。やっぱり、やり始めたらもう止まらない(笑)。

―バレーボールの年賀状がきっかけとなり、サッカーに復帰。所属するサッカーチームのことについて教えてください。

柿沢 東京アルテミスSCというチームで、かれこれ10年以上になります。今もプレーしていて、復帰したときは10年くらいブランクがあったのですが、蹴り始めたら昔の感覚が戻ってきました。もう、楽しくて、楽しくて。オーバー30のカテゴリーで、何回か全国大会で優勝・準優勝もしています。日本一になったので、ユニフォームに星のマークもつけさせてもらっているんです。

―強豪ですね。どれくらいの頻度で活動していたのですか?

柿沢 平日は1回、練習に参加できればよくて、日曜日に試合へ行くというサイクルです。チームに入ったころは、平日の夜に並行してバレーボールもやっていましたので。

―やはりアクティブですね(笑)。

柿沢 もう毎日、予定が埋まっていますよ(笑)。

―サッカーやバレーボールの活動をするなか、出産後に仕事復帰したのはいつだったのですか?

柿沢 末っ子が小学1年生になったとき、スーパーでパートを始めました。それまでは、家で内職をしていたんですが、子どもも大きくなったし、外で働こうと。ブランク明けの働き始めだったので、友達が働いているところで採用してもらって、そこで3年間働きました。ただ、パートで働きながらも、サッカー関係の求人をずっと見ていたんです。

―スーパーでのパートから、どのようにサッカースクールにたどり着いたのですか?

柿沢 まず、スーパーのパートを辞めてからスポーツジムで働くようになりました。実はアルテミスの試合のときに前十字靭帯と半月板の大ケガをしてしまって、手術をして、ケガが治って復帰後もリハビリを続けなければいけませんでした。だから、自分でトレーニングもできるスポーツジムの求人を探して、採用してもらいました。そこで本格的にトレーニングしながら仕事をして。筋トレも大好きなので、トレーニングすることにもはまっていったんです。また、スポーツジムで働いていると、スポーツ関係の方々にお会いすることも多くて、いろいろな話を聞いて刺激を受けました。スポーツジムも何個かかけ持ちをして、そのままスポーツジムのインストラクターになるための勉強をしようかな、とも思ったのですが、やはりサッカーの指導がしたくて、いくつも求人に応募して面接してもらったのですが、その中でオブリガードサッカースクールがちょうど私みたいな年齢層の人を募集していたようで、採用していただきました。

―そこからサッカー指導者としての道に入ったのですね。

柿沢 東京アルテミスSCでまたサッカーをやるようになってから、サッカー経験のない方もいたので、自分が経験者として「こういうふうに蹴るといいよ」とアドバイスするようにもなっていました。みんながうまくなっていくのを見るのがすごくうれしくて。「できるようになったよ」とか、「分かりやすい」って言ってもらえると、やっぱりうれしいじゃないですか。例えばキックの方法でも、自分は言葉にして伝えることができました。私から学んで、うまくなっていくのを感じて、「教えるのが楽しいな」と思いました。だから、あわよくば「指導を仕事にできたらいいな」と考えるようになったんです。

―オブリガードサッカースクールで、一つの希望が叶ったのですね。

柿沢 採用してもらえてありがたかったです。スポーツジムの仕事をメインにしつつも、それが初めてサッカーの「コーチ」としての仕事でしたから。女子のクラスで指導をさせてもらいました。そしたら、スポーツジムで知り合った会員さんのなかに修徳FCで働いている方がいて、そちらのチームにも誘っていただきました。それで、オブリガードサッカースクールと並行して、修徳FCでも働き始めました。

―またサッカーの輪が広がったのですね。修徳FCで指導するようになってからC級ライセンスも取得されたとのことでした。

柿沢 修徳FCのコーチたちはC級やD級を持っている方が多くいます。サッカー指導者の評価はライセンス重視なところもあるし、私も取りたいと思って、千葉県のライセンス講習に通いました。

―なぜ東京都ではなく、千葉県で取得したのですか?

柿沢 C級ライセンス講習はもちろん東京都でも行なわれているのですが、募集していたものは、どれも日程が合わなかったんです。だいたい土日の日中に何回か行かなければいけないから、日曜にアルテミスの試合がある自分は無理だなと……。でも、千葉県では夜だけやっているクラスもあったんです。取得するまでに半年くらいはかかる日程なのですが、江東区に住んでいる私にとってはスポーツジムの仕事が終わってから行ける距離だったので、千葉県まで通いました。仕事終わりに車で“夢の国”を通り越して、自分だけの時間のところに行って、終わったらまた現実に帰ってくる。そんな生活をしていました。

―熱心ですね(笑)。他にも審判免許3級の資格も取得されています。

柿沢 所属する東京アルテミスSCでは都リーグに参加しているのですが、都リーグではチームから審判を出さなければいけないんです。だから審判の免許も取ろうと思って、まずは4級を取得し、一昨年に3級を取りました。3級を取るために男性たちに混じって走るテストを受けたり、あとは筆記試験も受けました。大変だったけれど3級以上を保有していれば、自分たちの試合以外にも都から派遣要請があったりして、そのときは報酬も発生します。今はまったく審判の活動はできていないのですが、やり始めるといろいろと極めたくなっちゃうんですよね(笑)。

―そういった経緯があったのですね。話を指導に戻しますが、修徳FCでは子どもたちへの指導にとどまらないそうですね。

柿沢 修徳FCで指導を始めた2018年の夏に、スクール生のお母さんで「ずっとサッカーをやりたかった」という方がいらっしゃったんです。それで、「コーチをしてくれませんか」と言ってもらって。修徳FCの上の人たちにも相談したところ、「じゃあどのくらいの人が興味あるか、まずは体験からやってみましょう」という話になり、7月、8月と体験会をやって、9月からお母さんたちが集まってスクールをやり始めることになりました。そしたら、すごく盛り上がって。それから週に1回はお母さんたちのスクールを見るようにもなって、毎日修徳FCのスクールに行くようになりました。そのときに自分のなかでも気持ちが切り替わって、スポーツジムの仕事が終わってから、夜のバレーボールの練習をセーブして、サッカー指導者としての時間を増やして、ちょっとずつ動きだした感じです。

―幅広い分野でマルチにご活動されていますが、現在は修徳FCでの指導の仕事が中心なのでしょうか?

柿沢 スポーツジムと、サッカーに携わるものでは、今は修徳FCと、フットサル施設で働いています。フットサル施設では「個トレ」という少人数での個人トレーニングの指導もやっています。

―フットサル施設はどういった経緯で働くようになったのですか?

柿沢 私が働いているのは江東区東陽町のパライーゾ東陽町という新しいフットサル施設なのですが、元々その系列の店舗が国分寺にあって、そちらを東京アルテミスSCの“初蹴り”で利用したんです。そこの新たな店舗として東陽町にできることを知人から聞いていたので、事前に話を通してもらい、そのとき社長にご挨拶をさせていただきました。その後、連絡をいただいて、それからとんとん拍子で話が進んでいきました。

―C級ライセンスを保持していることも、社長に良い印象を与えたのではないでしょうか?

柿沢 そうですね。それに、子どもやお母さんにもサッカーを教えていたので、「こういう活動をしています」と自己紹介しました。社長も「サッカー、フットサルをはじめ、いろいろなことを幅広くやりたい」と言っていたので、そういったビジョンともうまくかみ合ったのかもしれません。

―振り返れば、年賀状でバレーボールを始めたことを皆さんに知らせてから、ここまで幅広くスポーツに関わってきました。

柿沢 結婚する前にサッカー選手としての経歴はあっても、10年間もスポーツの世界から離れていました。ただ、性格的に「やりたい」と思ったら、それをどんどんやっていきたい。そのために仕事を探し続けて、より高い能力を目指すためにライセンスの取得にも力を入れてきました。審判も4級より3級を取るために、より真面目に取り組んできました。そういった努力も見てもらえたらうれしいです。「常に何かをしていたい」という性格なので…もちろん今も満足しています。でも、その満足感ではまた足りなくなってしまうタイプでもあるので、また次へ、次へとどんどん考えてしまいます。「もっとゆっくりすればいいのに」と周りからは言われますが、たぶん性格なんでしょうね。もっと、もっと何かできないか、って。

―では、次はどこへ向かいましょう?

柿沢 難しいことは承知の上ですが、本当はサッカーで生活を成り立たせたいんです。もうサッカー漬けの生活をしたい。それくらいのことを考えるタイプなので、本来はサッカーの仕事だけで食べていきたいという思いが根底にあります。指導者として仕事をしていく上でも、それだけで生活が成り立つくらいになりたいです。なでしこリーグだったり、これからWEリーグもできるので、そういったクラブ関係者の目にも留まってくれるとうれしいですね。もちろん審判でも、ライセンスを持っていますので。

―女子サッカーの未来のために、今以上に貢献していければいいですね。

柿沢 それこそ、テレビで見たりする今の代表監督とか、他のチームでも監督やコーチをやっている人たちは、みんな同年代で一緒に戦っていたメンバーなんです。顔見知りなんですよ。だから、「私も呼んで〜」と思いながら、いつも彼女たちの活躍をうらやましく見ています(笑)。当時は対戦相手でしたからね。彼女たちは私のことを覚えているか分からないけれど、こちらはもちろん知っているし、活躍されていることがうれしいです。それに、2年前くらいにLリーグのOG会に行ったときに懐かしいメンバーが集まって、みんなで「女子サッカーを盛り上げていこう」なんて話をしていました。私ももっと女子サッカーに携わって女子サッカー界に恩返ししていければいいなと思っています。

<プロフィール>
柿沢 和美(かきざわ・かずみ)(旧姓 岡村)
1971年東京都出身。

小学生の頃から女子サッカーチームのFC小平に所属し、チーム名が新光精工FCクレールに改称した1989年に第1回日本女子サッカーリーグ(Lリーグ)に参戦。その後、チームが再び改称してTOKYO SHiDAX LSCの選手となり、Lリーグ初の100試合出場達成選手として表彰、選手キャリアの最後は鈴与清水FCラブリーレディースで活躍した。引退後は結婚や子育てによりサッカー界を離れていたが、社会人クラブの東京アルテミスSCで活動を再開。また、指導者としても幅広く活動し、現在は修徳FCのコーチなどを務めている。

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