選手として、コーチとして苦労を重ね、一度はサッカーから距離を置いた。それでも、数奇な運命によって磯上まみ氏は再びサッカーの世界へと導かれ、国内でも数少ないプロ指導者となった。GKコーチの道を突き進み、日本を代表するような後進の輩出に全力を注ぐ。ノジマステラ神奈川相模原のアカデミーで、未来のWEリーガーに向き合っている。
―まず、現在の活動について教えてください。
磯上 神奈川県のノジマステラ神奈川相模原という女子サッカーチームで、アカデミーのゴールキーパーコーチをしています。中学・高校生のチームで指導しています。
―どのようなスケジュールで活動をされているのでしょうか?
磯上 毎週月曜日以外は活動しています。火曜、水曜、木曜、金曜、土曜にアカデミーの活動があって、火曜、木曜、金曜はその前の時間にスクールでも教えています。
―選手としてのキャリアを振り返ると、東京女子体育大学卒業後は伊賀フットボールクラブくノ一でもプレーされました。どのようなきっかけで、なでしこリーグの選手になったのでしょうか?
磯上 大学を卒業してからプレーできるチームを探していたんです。なかなか見つからなかったのですが、本当にギリギリのタイミングで伊賀に加入することが決まりました。2009年まで所属しました。
―その後は現役を退き、指導者に転身するのですね。
磯上 そうです。最初は出身校である常盤木学園高校のコーチをボランティアでさせてもらっていたのですが、練習や遠征を優先しているとアルバイトだけでは生活をしていくことが難しくなって、常盤木学園高校のコーチを辞めました。大学のときに教員免許を取得していたので、それからは地元の福島県に帰って教員になり、一度サッカーから離れました。
―学校の教員としてはサッカーに関わらなかったのですか?
磯上 顧問として担当した部活も陸上部や駅伝部、バスケットボール部と、サッカーとは一切関係なかったし、もうサッカーは辞めようと思っていたんです。
―「サッカーを辞めようと思った」のは、どういった理由からですか?
磯上 まあ、お金にならなかったからですよね。サッカーだけでは普通に生活ができないので。伊賀でプレーしていたときも働いていたんです。学校の教員をやりながら、サッカーをしていました。だから、そのときまではサッカーをやっていて1円もお金をもらったことがなかったんです。
―厳しい世界ですね。
磯上 伊賀はお金のないチームだったこともあり、ユニフォームや移動着は支給してもらっていましたが、練習着は自分で用意していました。生活はめちゃくちゃ苦しかったです。常盤木学園高校に行ってもボランティアだったし、サッカー業界はお金を稼げるところではないのかなと。そのときの年齢的にも、地に足をつけた生活をしなければいけないと思っていて、教員の資格を持っていたので教員になりました。
―それでも、2013年からフェアリーズいわきで指導者になります。どのような経緯でしたか?
磯上 実は地元で「何やら、なでしこリーグにいた人が帰ってきているらしいぞ」といった噂が流れはじめて、最初に赴任した中学校の先生がフェアリーズいわきを紹介してくれたんです。教員になった最初の2年ぐらいは仕事が忙しくてお断りしていたのですが、だんだんと「サッカーをもう一度やりたい、教えたい」という思いが芽生えてきて……。もちろん教員の仕事も続けているので、体が空いているときにだけフェアリーズいわきに行っていました。
―再びサッカーに関わりはじめたときの思いはどのようなものでしたか?
磯上 陸上部やバスケ部を見ているときにサッカーの指導にも行くことは、生徒たちに申し訳ないと思っていたんです。私がサッカーを外部に教えにいくことで、部活の時間が短くなったりしますので。だから、部活のことを第一に考えてサッカーはやめていたんですが、なんか悶々とした気持ちというか、煮え切らない自分もいて……。せっかくフェアリーズいわきから声をかけてもらったし、「トレセンも見てほしい」と言われていたので、「サッカー指導の勉強をしながら部活動もやっていいかな」と思うようになりました。
―実際にフェアリーズいわきで指導者になってみて、いかがでしたか?
磯上 地元の福島県や東北地方のサッカーのレベルはそんなに高いわけではないので、いい選手をたくさん輩出するために、普及や育成をしっかりやっていかなくてはいけないという感覚がありました。自分が伊賀で経験してきたことを選手に伝えられればと。ただ、今までにサッカーをやってきた経験があっても、それを教えるとなると説明するのが大変だったり、語彙力がつたなかったりして、教えることはすごく難しいと感じました。楽しさももちろんありますが、もっと勉強をしなければいけないという焦りの方が大きかったですね。
―教員と指導者とでは、どちらも教える職業でも、また違いますか?
磯上 なんか、まったくの別物ですね。
―それから岡山湯郷BelleU-15,U-18のGKコーチとなります。
磯上 岡山湯郷Belleのスタッフの方に声をかけてもらいました。そのときは“三足の草鞋”じゃないけれど、学校の授業、部活、サッカー指導とすごく大変で……。教員も魅力ある仕事でしたが、自分の体が動くうちに「もっとサッカーの勉強をしたい」「自分の指導スキルをもっと上げたい」と思って、教員を辞めて岡山に乗り込みました(笑)。
―福島で教職とサッカー指導を両立させることはやはり難しかったですか?
磯上 教員の仕事は5年間やりましたが、月の残業時間も多かったし、気がつけば数カ月間も休んでいないこともあるなど、忙しすぎたんです。(フェアリーズいわき時代に)トレセンも見ていたので、全国規模のトレセンの研修会にも参加させてもらっていたのですが、やはり教員をやっていると仕事に穴を開けるわけにもいかないから、そこに行くのもすごく大変で……。指導の資格を取りにいくにしても3日~5日くらいは学校を休まなければいけないことになるので難しい。だから最後に赴任した学校で「(教員を)辞めよう」と思っていて、そんなときに岡山湯郷から声をかけてもらいました。
―教員としての多忙な毎日を過ごすなかで、サッカークラブからオファーがあったのですね。
磯上 そうです。せっかくチャレンジできる環境をいただけるのだから、決断しました。岡山湯郷でもプロとしてではなく、スポンサー企業で働きながらサッカーに関わっていたのですが、そこはだいぶ優遇してもらって、午後3時くらいには仕事から上がらせてもらっていました。それまではずっとチームに携って毎日ガッツリ練習できることがなかったので、「え?こんなにサッカーできるの?」っていう感じで、すごく楽しかったです。教えている子を日本代表にしなければいけないという使命感もありました。
―一方で難しさもありましたか?
磯上 そのとき、ゴールキーパーコーチは自分一人だったので、一人で選手と向き合って、一人で練習メニューを考えて、そのなかで難しさもありました。特にゴールキーパーの指導は専門的すぎるので、自分で答えを見つけなければいけない。いろいろな知り合いの指導者に「こんな練習をしているけれど、どうですか?」とか、逆に「どんな練習をしているんですか?」とか人脈を使って話を聞いて、実際に自分で試行錯誤を繰り返しました。そんなとき、岡山湯郷がゴールキーパーコーチを雇えなくなってしまって、自分は辞めることになりました。
―契約解除を通告されて、ショックも大きかったのでは?
磯上 すごくショックでした。ご飯も食べられなくなりましたね……。「何のために教員を辞めて岡山に来たんだ」って思いました。
―とはいえ、前に進まないといけません。
磯上 とりあえず、岡山湯郷を辞めるにあたっていろいろな人に挨拶をして回りました。あるとき大阪まで行ったらセレッソ大阪に伊賀時代の先輩がいて、たまたま試合会場でお会いしたんです。山科花恵さんという方なのですが、「(岡山湯郷を)辞めることになってしまいまして……」と話したら、その次の日に同じ会場で社長さんと面談させてもらえたんです。ちょうどセレッソもそのときにゴールキーパーコーチを探していたようで、ウロウロしていた私を一本釣りしていただきました(笑)。
―すごいタイミングと縁ですね。
磯上 そうなんですよ。セレッソに入ってからは指導の資格も取りました。(資格を)取りに行かせてもらえる環境だったので。それまではいろいろあったけれどJリーグのクラブに行くことができたので、岡山湯郷と契約が切れてしまったのも何か意味があったのかなと、そのときはちょっと思いました。
―それからのセレッソ大阪での活動はいかがでしたか?
磯上 もう衝撃的でしたね(笑)。サッカー環境がまったく違います。自分の指導スキルはベースのレベルにも届いていないと痛感しました。なんか、自分の教えているポイントが雑すぎて、もっとディテールにこだわらなければいけないなと……。それに、セレッソにはゴールキーパーグループというものがあって、元Jリーガーなど名だたる方々がいます。私なんて素人同然のようでしたが、そのゴールキーパーグループの方々に育ててもらいました。
―ゴールキーパーグループでは、どのような活動を?
磯上 私はレディースとガールズという女子のカテゴリーを一人で見ていて、男子のトップチームやアカデミーの各ゴールキーパーコーチたちと月に1度ミーティングをしたり、レディースとガールズのゴールキーパーが男子中学生と一緒に合同練習をしたり、そういった活動をしています。素晴らしい環境のなかで女子と男子が垣根なく全員で日本代表を目指して切磋琢磨する。たぶん、そのような活動はセレッソだからこそできたのではないかと思います。
―女子と男子のチームを持つサッカークラブは少ないですよね。そんなセレッソ大阪での4年間を振り返るといかがですか?
磯上 素人が大きな組織に迷い込んだみたいな感じになっちゃったんですけれど(笑)、本当に貴重な体験ばかりでした。資格を取りいくこともできたし、自分が成長するために学べることばかり。相談できる人もいて、「この練習はうまくいかない」「この設定ではうまくいかない」と細かいアドバイスももらいました。セレッソに行かなかったら、まだサッカーを続けていなかったかもしれません。岡山湯郷を辞めてからは地元の福島県にまた帰っていたと思います。
―ただ、ここで冒険は終わりません。セレッソ大阪から現在のノジマステラ神奈川相模原へと移ります。
磯上 まだ冒険しちゃうんですよね(笑)。セレッソはすごく刺激的で、学ぶ環境としては最高だったのですが、今年からWEリーグが始まるということで、せっかくだからWEリーグ元年に参戦するチームにいたいという願望がありました。やっぱり夢じゃないですか、女子サッカー選手がプロになるというのは。私たちの時代では澤穂希のようなほんの一握りの選手しかいなかったし、女子のプロリーグなんて考えられないことでしたから。セレッソはWEリーグに参戦しないので、契約を更新しませんでした。WEリーグに参戦するどこかのチームに引っかかればと思ってセレッソを辞めたのですが、チームが見つからなかったら一般企業に就職しようという覚悟も持っていました。
―それでも、現在のノジマステラ神奈川相模原に加わることとなります。
磯上 セレッソを辞めるときにも挨拶回りをして、いくつかオファーもいただきました。ただ、プロの指導者としてやり続けたい思いがあったので、話が進んでも最終的に条件面の問題などで契約には至らず……。もう退路を断っていたので、新たなチームは見つからないかもしれないとも考えていました。そしたら、また大学時代の先輩から連絡をもらったんです。「オッツー!」みたいな軽い感じでLINEが来て、「来年、どうするの?」って。そう言われて「(セレッソを)辞めます」って答えたら、ノジマステラ神奈川相模原から声をかけてもらえました。その先輩はノジマのアカデミーダイレクターを務めていて、私はセレッソという安泰のチームを辞めないと思っていたようですが、実は気にかけてくれていたみたいです。
―ノジマステラ神奈川相模原での今後の目標はいかがですか?
磯上 日本代表に関わる選手をノジマから輩出していくことが、私の目標です。WEリーグが始まることで、子どもたちは目の前にプロ選手がいるという環境のなかでプレーできます。どのように刺激を受けて、子どもたちの夢はどう変わっていくのか。やっぱり「プロの世界で生きたい」とプロを目指す子どもが増えていくと思うんです。
―プロ選手を目指す子どもたちを指導することは大きなやりがいにもなりますね。
磯上 いつも言っていることなのですが、毎日が楽しいです。これまでセレッソなどで培ったものから一人でトレーニングを構築したり、個別の選手に合った指導方法を考えたり。いろいろと悩みも多いのですが、どれもいい悩みですよね。私はアカデミーに特化したところで指導していきたいので、指導に関するいい悩みが増えてきて、すごくやりがいを感じています。
―最後に、磯上さんご自身の指導者としての目標についてもお聞かせください。
磯上 ゴールキーパーレベル3のライセンスを狙っていきたい。そのために、もっと多くのことを学びたいです。女性のキーパーコーチでレベル3を持っている人は少ないので、チャレンジしたいですね。やり切るまでは、ずっとプロの指導者でいたいと思っています。
<プロフィール>
磯上 まみ(いそがみ・まみ)
1982年福島県出身。常盤木学園高校(宮城県)、東京女子体育大学でサッカー部に所属し、卒業後はなでしこリーグ(当時)の伊賀フットボールクラブくノ一でプレー。現役引退後は2013年にフェアリーズいわきで指導キャリアをスタートさせ、2016年には岡山湯郷Bell U-15/U-18、2017年からはセレッソ大阪アカデミーに在籍。日本サッカー協会公認B級コーチ、日本サッカー協会公認GKレベル2も取得し、現在はノジマステラ神奈川相模原のアカデミーGKコーチを務める。