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Vol.32 広島文教大学附属高等学校サッカー部コーチ/坂田恵<後編>

  • 2022.07.13

    Vol.32 広島文教大学附属高等学校サッカー部コーチ/坂田恵<後編>

PASSION 彼女たちのフィールド

日本女子代表でも活躍するなど、国内屈指のGKに成長した坂田恵氏。しかし、念願だったアトランタオリンピック出場は叶わず、その年に一度現役を引退する。熊本県に帰郷し、母校で後進の指導にあたるも、心の中で拭い去ることのできない現役プレーヤーへの思い。意を決した彼女は、親の反対を押し切って戦いの舞台へと戻り、第2の人生の幕を開けた。

ープリマハムを辞めてから地元の熊本県に戻り、そこから田崎ペルーレFCに加入し、現役復帰しますが、田崎加入時になぜ、家出をする形になったのでしょうか?

坂田 すでにお話したように、うちの親はもともと、4年間の大学生活を終えたら地元に、戻って就職してほしかったんです。だけど、アトランタオリンピック出場の夢もあったから、サッカー選手を25歳までやらせてもらうという約束をし、熊本県に帰ってきたのですが、また地元を出ていくことになり……。親からすれば、私は大きなケガも負ったりしたから、「なんでまたそういう世界に戻るんだ」という思いだったのでしょう。大津高校の平岡和徳先生は「頑張ってこい」って背中を押してくださったのですが、うちの両親だけは一切、首を縦には振らなかったです。

ーご両親は、坂田さんに地元に残ってほしかったのでしょう。

坂田 そうですね。もう「戸籍を抜いていきなさい」とまで言われるくらいでした。平岡先生も私の母を説得しようとしてくださったのですが、最後まで理解してはもらえませんでした。それで親には何も告げずに荷物をまとめて、車で地元を出ていった感じでした。

ー坂田さんにとって、ご家族も大切な存在だと思います。しかし、親の反対を押し切ってまで、サッカー選手に戻りたかったのですね。

坂田 25歳でプリマハムを辞めたときにも、どこかでまだ未練はあったんです。それから大津高校で澤村公康コーチの指導を受けたりしていて「すごく楽しいな」と思って。大津高校では指導者の立場も経験させてもらって、平岡先生と1年間、監督とコーチとしてチームを見ることができました。プリマハムの選手だったときは、私はただわがままにプレーしていただけだったけれど、指導者を経験したことで、また自分がプレーできる場所があるのならば、以前とは違うゴールキーパーになれるんじゃないかなとも思ったんです。現役復帰を考えたときはもう27歳だったけれど、もう1回選手としてプレーしたいと思って、そのときLリーグで戦っていた10チームすべてに売り込もうと考えたんです。

ーそのなかから田崎ペルーレFCに加入することになったきっかけは、どんなことでしたか?

坂田 実は、田崎には最初に声をかけたんです。日本代表で一緒に活動していた先輩がいたので、彼女に「もう1回、現役復帰したいんだけど、田崎でプレーさせてもらうことはできないかな?」って連絡しました。そしたら、田崎も了承していただき、復帰することになったんです。

ー10チームに連絡しようとしたところ、1チーム目で決まったのですね。

坂田 そうですね(笑)。ダメ元で連絡したけれど、とてもありがたかったです。そのとき、私は27歳だったので、その10チームすべてに断られていたら仕方がないと思って、そのまま引退していたでしょうからね。

ー加入した田崎ペルーレFCでは、どのような選手生活を送っていたのですか?

坂田 田崎は実業団だったので、午前中だけは働いていました。月曜、火曜、水曜と、週3日だけでしたが(笑)。田崎には丸4年間、在籍したのですが、もうケガばかりでしたね。もともとプリマハムに入るときに両足首を手術して、すでにお話したようにプリマハムを辞めるときも右ヒザの前十字靭帯を切ってしまって……。そしたら、田崎に入ってからは左ヒザの内側靱帯をやってしまったり、半月板をやってしまったり、また両足の靱帯を切ったりして、サッカーをするときはもうガッチガチにテーピングを巻いていました。31歳になるシーズンは、1年間、自分のパフォーマンスを維持していくことをテーマにして取り組みました。

ー満身創痍の体でプレーするために、具体的にどのようなことに取り組みましたか?

坂田 食事のときに食べるものを管理して、自分の体脂肪を計りながら生活していました。それを1年間、ルーティンとして取り組んでいましたね。結果的に最後のシーズンとなる年が終わったときは、もうその先もモチベーションを保っていくのがしんどいと思い、31歳のときに引退することにしました。

ーその後の進路についてはどのように考えたのですか?

坂田 やはり指導者の道に進むことに興味がありました。

ーもう一度、母校の大津高校に戻ろうと考えなかったのでしょうか。

坂田 うーん……、実家を家出してきたので、田崎で引退したあとは地元に帰るという選択肢はありませんでした。

ーでは、どのような指導者の道を歩み出すのでしょうか。

坂田 私が田崎で引退しようとしていたとき、その話が女子サッカー界に一気に広まったらしいんですよ。「もう坂田は引退するらしいよ」って。それで、お世話になっている小林美由紀さんという方から「指導者ライセンス取らない?」って直接電話をいただいたんです。「女子の枠が空いているから、坂田、興味ない?」って聞かれて、「じゃあ、取りたいです!」って(笑)。指導者のライセンス講習を受けながら、仕事は母校の日本体育大学で派遣職員として働き、日体大の女子サッカー部を見ていました。

ー日本体育大学で働くことになったのは、どんなきっかけだったのですか?

坂田 大学時代の恩師に「もう引退します」と打ち明けて、「次の仕事をどうしようかと思っているんだけれど……」って話したら、「じゃあ、日体大で派遣職員として働くか?」って言ってもらえて(笑)。大学の教員ではなく、事務職員として働かせてもらいながら、サッカー部のお手伝いをしていた感じです。ちなみにそのときの日体大女子サッカー部には、丸山桂里奈や川澄奈穂美も在籍していました。

ー2011年になでしこジャパンでワールドカップを優勝した選手たちとも関わっていたのですね。坂田さん自身は、指導者の道に進むことに迷いはなかったのですか?

坂田 はい、迷いはありませんでした。もともと、私はサッカーを始めたときから本格的な指導を受けていたわけではなく、チームメートのプレーを見たりしながら、我流で技術を磨いてきました。それで、いきなり日本代表にも入れたので幸運でしたが、代表活動に行ってもGKコーチがいないので、13歳上の先輩のプレーをずっと見て、「何が自分と違うんだろう」と思いながら、プレーしていました。時には、「先輩にはできるのに、なんで私にできないんだろう」って、悔しくて泣きながら練習していたこともありましたね。だから、指導者という存在の重要性を理解しているつもりなので、私も指導者になりたかったんです。プリマハムに加入してからは山郷のぞみ選手がいて、当時の監督から「彼女を成長させてくれ」と言われていたので、一緒にプレーしながら「こうしてみたら」とアドバイスしていたんです。そしたら、彼女はどんどん伸びていって、それがうれしかったです。

ー山郷選手はチームメートでもありましたが、ライバル心はなかったのでしょうか。

坂田 もちろん、彼女は私に負けたくないというライバル心を持ってやっていたと思いますが、私は「みんなで成長すればいい」という考え方なので。当時、チームメートだった中国代表のキャプテンに「なんてお前はお人好しなんだ」と言われたこともあったくらいです(笑)。でも、私は「こうやったら絶対に良くなるのに」と思っていて、ずっとそんなスタンスで練習していましたね。田崎に行ってからも「若手に教えてくれ」と言われていたので、自分で練習メニューを考えながらやっていました。若手選手がグイッと伸びて、私が試合に出られなくなったシーズンもあったのですが、それはそれで仕方がないかなと。もともと私はそういう感じなので、「誰かに教えたい」と思ったり、「ここをこうしたら、この子は変わるんじゃないか」という目線で見ながらプレーしていました。

ー男子でも、GK同士は会話もしないくらいライバル心を剥き出しにするとよく聞きますが、坂田さんのようなGKがいるチームは強いと思います。

坂田 プリマハムのときは、たぶん山郷選手は私に対してそうだったと思います。私がプリマハムを辞めてから10年後くらいに、彼女が浦和レッズレディースに在籍していたときに再会したら、彼女から「あのときは、すみませんでした」と謝ってきました。私はなんとも思っていなかったのですが、サッカー選手ならばライバル心を持つことは当たり前のことでしょう。むしろ、彼女が試合に出ていたときに私がポッとチームに入ってきて、彼女は試合に出られなくなったのですから、悔しさがあったのは当然ことだと思います。

ー山郷選手はその悔しい気持ちをバネにして、日本代表にまで上り詰めたのかもしれませんね。

坂田 そうですね。彼女も悔しかったのでしょうし、そんな彼女と切磋琢磨できたのは、お互いにとっても良かったと思います。

ーその後、日本体育大学で指導してから、山郷選手ともプレーしたプリマハムを前身とする伊賀FCくノ一にGKコーチとして加入します。

坂田 日本体育大学では3年間、コーチを務めました。その間、一緒に指導をしていた別の男性コーチがいたのですが、彼が辞めるタイミングで、私も一緒に違うチームを探すことにしました。そしたら、伊賀の監督に「もしもよかったら、一緒にやろう」と声をかけてもらったんです。その監督とはプリマハム時代に一緒にプレーしていました。伊賀ではコーチとして、また一緒に1年間、働かせてもらうことになりました。

ー日本体育大学時代に指導者ライセンスは取得できていたのですか?

坂田 はい。しっかり指導者のライセンスは取れていて、日体大では指導者として賃金は受け取っていませんが、ゴールキーパーコーチという立場で働きました。

ーでは、日本体育大学でのGKコーチを皮切りに、本格的に女子サッカーの指導者として仕事をしていくのですね。

坂田 そうですね。伊賀のあとには大分トリニータレディースが立ち上がるということで、九州に戻るチャンスも得ることができました。大分トリニータレディースには2年間しかいなかったのですが、そこから佐賀県に行って、派遣社員をしながら九州トレセンの活動にも関わっていたんです。フットサルもやっていて、全国大会にも出場しました(笑)。実は、そのときは親と和解もできたんです。大分トリニータレディースに入るときに、親に「あのときはごめんなさい」と謝って。ただ、まだサッカーの指導者でいたかったので、大分トリニータレディースを辞めるときには、一緒に九州トレセンで指導していた佐賀県の人に、そちらで活動できる機会に与えてもらいました。

ートレセンでのつながりから、佐賀県で活動するチャンスが生まれたのですね。

坂田 はい。あとは地元の中学校で学校生活指導員という形で働きながらサッカー部を指導していたときにも、地域担当としてナショナルトレセンに行く機会があり、そのときにJFAの人からナショナルトレセンコーチとして契約させてもらいました。給料は歩合制でしたが、活動すればするだけお金をいただけるので、とても助かっていました。そこから、その方に推薦してもらう形で、ナショナルトレセンコーチとして広島に来ました。

ー広島に来たのは、何年のことですか?

坂田 今からもう12年前くらいです。なので、2010年、11年頃ですかね。

ーそうして広島に来て、インタビューの前半でもお話しいただいた広島文教女子大学附属高校の教員となります。坂田さんは指導における喜びをどんなところに感じていますか?

坂田 指導者になってすぐのときから変わっていないのですが、例えば「将来の日本代表選手を育てたい」とか、そういったことはあまり思っていなくて、私がこれまでに培ってきた経験を伝えていけたらいいなという思いでいます。

ー例えば、どのような経験を後進に伝えていきたいですか?

坂田 ふと頭に思い浮かぶのは、私が最初に日本代表に入ったときのこと。その頃は、女子の代表ができてからまだ10年目くらいだったのですが、私が入るちょっと前の時代は、選手が遠征費の何割かを自己負担して代表活動に参加していたと聞いています。だから、私が初めて代表活動に参加したときには、先輩方に「坂田はいいときに来たね」なんて言われたりもしました。ちょうどJFAが女子を強化するタイミングだったようで、遠征費も協会側で負担してくれていたんです。だから、先輩方の代表活動に懸ける思いがものすごく強かったことを目の当たりにしています。そういう先輩方と一緒にプレーさせてもらえたことがすごくありがたいと思っているので、その経験を若い選手たちにも伝えていきたいです。

ー坂田さんにとって、サッカー指導をすることは日本の女子サッカーへの恩返しにもなりますかね。

坂田 そうですね。特に選手時代は、なかなかできないような経験をさせてもらいましたので。例えば、第1回目のワールドカップが1991年に開催されたときは、18人しか登録メンバーに入れなかったなかで、初戦のブラジル戦のピッチで何万人もの観客の前で君が代を聞いたときには鳥肌が立ったことを今でも覚えています。そのときは、「今、この瞬間にここいるのは、日本全国で18人だけなんだ。すごい経験をしている」という感覚がありましたね。それはワールドカップではなくてもいいのですが、そういうことを知ってもらいたいし、伝えていくのが私の役目だと思っています。ナショナルトレセンで指導しているときも、今のサッカー部で指導しているときも、いつもその思いは胸にあります。彼女たちはまだ世界を知らないし、今の広島文教女子大学附属高校の子どもたちは日本一も知らない。でも、私は高校でも実業団でも日本一になって、その景色を見させてもらったし、アジアカップやワールドカップにも行くことができました。この経験をどうやって子どもたちに伝えていくべきなのか、日々考えています。

ーてっぺんを見た経験というものを、いかに伝えるか。

坂田 そういう感じですね。毎年のように、私に教えてもらいたいと来てくれる子がいるのはすごくありがたいことです。彼女たちに何か伝わるものがあればいいし、うちに来たいと言ってくれる子をどう育てるのか。また、彼女たちは広島文教女子大学附属高校サッカー部がゴールではないので、この先にどのチーム、どの指導者のもとでも、サッカーを好きでいてほしいです。

ー子どもたちの成長も楽しみですね。坂田さんは現役時代を含めて、国際舞台や日本女子サッカーのトップレベル、また育成現場まで、ほぼすべてのカテゴリーを経験しましたが、今後についてどのような青写真を描いていますか?

坂田 うーん、どうですかね。私は定年まであと9年、監督もあと8年なので、その時間を広島文教大学附属高校サッカー部らしく、そのスタンスを変えずにうちに来たいという子を伸ばしていければいい、という考えでいます。

ーやはり選手たちに、坂田さんのこれまでの経験を伝えることと、選手たちの成長を見守ることになりますかね。

坂田 サッカーがうまい、ヘタというのは関係なく、広島文教大学附属高校に来たいと言ってくれた子をどれだけ伸ばしていけるか。そこが監督と私の描く目標として合致しています。なので、うちでは高校3年間のうちに2つから3つのポジションを経験させるんです。なぜなら、3年間をかけてその子のベストポジションを探したいからです。あとは指導者養成だったり、うちのグラウンドでC級ライセンス講座を実施したり、サンフレッチェ広島レジーナのボールパーソンをやったり、プレーだけでなく、さまざまな経験を積める環境もあるので、子どもたちにはそのなかでサッカーを好きで卒業してもらって、これから先もサッカーに携わってもらえたらいいなと思っています。

<プロフィール>
坂田 恵(さかた・めぐみ)

1971年熊本県出身。熊本県立大津高等学校でGKとしてサッカーを始め、日本女子代表に招集される。日本体育大学在学中の1990年には日本女子サッカーリーグの日産FCレディースに加入。1994年にはプリマハムFCくノ一に移籍し、1995年の第7回日本女子サッカーリーグで優勝に貢献した。FIFA女子選手権(ワールドカップ)の日本女子代表メンバーにも2度選ばれ、1996年アトランタオリンピックではバックアップメンバーとなった。同年、一時的に引退するも、2年後の1999年に田崎ペルーレFCで現役復帰。2003年に再び引退し、現在は広島文教大学附属高等学校サッカー部のコーチを務める。

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Vol.57『特別な戦いだからこそ得られた財産。』