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Vol.34 ヴァンフォーレ甲府U15監督/津田琢磨

  • 2021.04.15

    Vol.34 ヴァンフォーレ甲府U15監督/津田琢磨

指導者リレーコラム

地域リーグの舞台でプレーをしたことが、指導者の道に進むきっかけとなった。ヴァンフォーレ甲府で幼稚園生から高校生と様々な年代での指導を経て、現在はU-15(ジュニアユース)チームの監督を務める。楽しむことを教える幼稚園生、高校生への進路指導…。あらゆる経験が指導者としての引き出しを増やしてきた。現役時代の大半を過ごした特別なクラブで、「日々新しいことを見つけたい」と自分流の指導のあり方を模索する。これまでの2年間、そしてこれから先についても語ってもらった。

ーAC福島ユナイテッドの石堂和人さんからご紹介いただきました。お二人の関係を教えてください。

津田 大学の一個下の後輩で、サッカー部で練習をともにしてきた関係です。地元が僕と同じで住んでる場所も近かったので、いろんなつながりがありました。石堂の弟(圭太さん)は、僕が栃木ウーヴァ(2018年8月より栃木シティに改名)でプレーしたときに一緒でした。弟の圭太は今引退して、房総ローヴァーズ木更津(千葉県社会人リーグ1部)でプレーしながら働いていると聞いてます。

ー津田さんは2018年に現役を引退されて、翌年1月から指導者のキャリアをスタートさせました。指導者になるまでどのような経緯があったのですか。

津田 引退するきっかけが指導者になることだった、とも言えるかもしれません。最後に所属した栃木ウーヴァとはあと2年契約が残っていました。しかし自分自身、指導者目線でプレーすることが多くなっていて、特に若い選手に対しては。ありがたいことにJリーグでプレーしてきて、最後1年を地域リーグで過ごしました。カテゴリーが下がる分だけ、選手のレベルは正直落ちる部分もあります。ただ、良いところを持ってる選手がたくさんいたのに、良いところよりも悪いところが上回ってる選手がほとんど。その現状を見て「もったいない」と思ったのが、指導者になったきっかけというか。意識した入り口はそこでした。あとは、プロになってからずっとお世話になった「ヴァンフォーレで指導したい」という思いもあったので、山梨でスクールコーチから始めようと決めました。

ー栃木シティに行くまでは、あまり指導者を目指す意識はなかったということですか。

津田 サッカーに貢献したい気持ちはありました。指導者という形で表れたのは、栃木シティに行ってからだったと思います。甲府にいたときライセンスB級までは取っておいたのですが、指導者になるイメージはなかったです。ただ、いろんな監督の下でプレーするなかで、もし自分がその立場になったらどんな指導をしたいか、ということは描いていました。

ーその肌感覚は今の指導にも生きているのだと思います。現役時代のほとんどを過ごしたヴァンフォーレ甲府への思いはやはり強いですか。

津田 長くいさせてもらったクラブですし、特別な気持ちはもちろんあります。ですが、自分はヴァンフォーレ以外にも愛媛FCに半年行って、最後は栃木シティでお世話になりました。外に行かなければわからないこともありましたし、人とのつながりなど他のクラブで得たこともあって、移籍は自分にとってプラスになりました。甲府では地域に密着していろんな人に応援されている、恵まれていることを強く感じました。

ー他のクラブに在籍した経験も踏まえて、改めてヴァンフォーレ甲府はどんなクラブだとお考えですか。

津田 トップチームの話になりますけど、コロナ禍になってからも、その前からも、一番お客さんが入っていたときよりはかなり減っています。地域密着のクラブなのにそうした現状がある。結果も含めて、内容ももっと良くならないと。そのために、アカデミーからトップチームに選手を輩出して、「地元の選手が活躍」しないと応援されるクラブにはならないと考えています。

ー地元選手の活躍はファンやサポーターの方にとって嬉しいですよね。指導者としての一歩を踏み出したときはどのような心境が一番大きかったですか。

津田 サッカー的な不安はなかったです。ですがスクールなので、サッカーを教えるというよりも、「サッカーの楽しさ」を教える意味合いが強かった。子どもは幼稚園生から小学6年生までと幅広いです。メニューをどうするか、どういう話し方をするか、どんな笛の吹き方をするか。年代によって違うので、いろんなことを使い分けていました。幼稚園の年代では、昼寝明けで来る子もいます。一つの駒で20人くらいを教えていましたが、そういう子が夢中になれないとスタッフが一人引っ張られてしまう。子どもたちを自分に引きつけるメニューや話し方、集合の仕方まで気を配っていました。あとは、体験で来た子に合わせるメニューも必要ですし、でも簡単すぎるとずっといる子はつまらなくなってしまう。バランスの難しさは感じました。

ー2年目はユースのコーチとして高校生を指導する立場になりました。どのような1年間でしたか。

津田 まずは監督が言うことを理解したうえで、自分が練習を任されることもあるので、それに沿ったテーマでメニューを組みました。学校との連係も高校生はとても大きかったです。密な連絡を取って一人一人の成績を把握して。1学年の人数もうちのクラブは多くて20人なので、グラウンドが一面だけの中で練習することも必要でした。

ースクールコーチとは違う大変さがあったんですね。高校生は人間形成の面でも重要な時期だと思います。

津田 クラブで練習する時間は言ってしまえばたかが2時間くらいです。その中でサッカーにおける教育はもちろんしますけど、どうしても学校と家で過ごす時間がほとんど。だからこそ、保護者や学校との連係をしっかりしておかないと、練習に来てもサッカーに集中できないことがあります。

ーご自身は高体連出身ですが、クラブユースと違いを感じることはありますか。

津田 少し時代も違うので一概には言えませんが、Jクラブのメリットとしては、縦のつながりが強いです。ユースはトップチームと距離が近いので、目指す姿も描きやすい。一つ下のジュニアユースに関しても、ユースが日頃どんな練習をしているのかわかります。あとは、元選手がコーチングスタッフとして在籍しているのは、最大の強みだと思います。本当に厳しい「プロの世界でしのぎを削った人たち」から教わることは大きい。でも高校サッカーの良さもたくさんある。自分もそうした環境に育てられてきました。どちらが良いとかではなく、それぞれ良さがあると思います。

ー昨年はコロナ禍に見舞われ、例年とは違ったシーズンになりました。指導者の方にとっても試行錯誤の1年だったと思いますが、新たな発見はありましたか。

津田 我慢の連続でした。再開したと思ったらまたすぐ中断して。ですが、割り切っていた部分もありました。コロナ禍だからできないではなくて、逆にやりきるスタンスを心がけました。どのチームもやっていたと思いますが、一番はオンラインでミーティングやトレーニングを行ったことです。クラブとして今後の方向付けもできましたし、普段できないところにアプローチできたことはプラスになりました。

ー普段できないところとは、トレーニングにおいてですか。

津田 トレーニングでも細かく鍛えられましたし、よりミーティングで細かい話ができました。選手に映像を見せて「このシーンでは何を考えたのか」など、プレーにおける深い話もできました。普段はどうしても投げっぱなしのミーティングになってしまうことが多いのですが、逆に答えさせたり。いつもはあまりない問答ができて、コミュニケーションが図れました。

ー山梨学院高校の長谷川大監督から、多くの大会が中止される中、近隣地域の複数チームで甲信静リーグを開催したとうかがいました。協賛会社がつくなど、大規模な大会となったそうですね。

津田 長谷川大さんがメインで仕切ってくださり、静岡や山梨といった、近隣地域のチームとリーグ戦を行うことができました。今年は進路のところがすごく難しかったのですが、スカウトの人たちや大学関係者の方も見られる大会となりました。大会が限られた状況で試合ができたことはもちろんですし、進路の面でも大きな意味を持つリーグ戦でした。

ープロを目指し、大学に進む選手も多くいると思います。進路指導で意識されたことはありますか。

津田 進路指導は初めての経験で、練習参加にも連れて行きました。僕が思うのは、大学には「サッカーだけをしに行くわけではない」ということ。学業メイン、プラスサッカーではどういったことができるかを考えてほしいと思っています。どうしてもサッカーが一番にきてしまう選手が多い。気持ちはわかります。ですが、まずは大学のことを理解することが大事なので、そこは選手にも伝えています。

ー先ほど、選手時代にある程度指導者としての姿を描いていたとお話がありました。理想とする指導者の方はいらっしゃいますか。

津田 いろんな方とご一緒させていただき、それぞれの方に良さがありました。自分はマネするのがあまり好きではないので、参考にはしますがある程度「自分のスタイルを築いていきたい」という思いがあります。むしろ監督はそうでないといけないと思っているので。うちのクラブで指揮してくれた監督の中で良いなと思った監督はいますが、やはり「自分という指導者」をつくっていきたいです。

ー指導における楽しさややりがいはどんなところに感じますか。

津田 U-15の監督になって2カ月くらいしか経っていないですが、やりがいはすごく感じます。選手たちは良いことも悪いこともすぐ吸収していきます。毎日の練習の積み重ねや習慣はかなり短い時間で表れると感じているので、だからこそ、練習メニューはより気を配って考えています。

ーコーチの方との話し合いも綿密に重ねているんですね。

津田 基本的に人の練習メニューをマネすることはあまり好きでないので、練習で出た課題に対するトレーニングを、次の週にまた違うメニューで行う。コーチともよく話し合いを重ねています。もちろん他の方のトレーニングを見て、勉強することはあります。けれど、基本的には「自分で作り出さないと自分のトレーニングにならない」と思っています。練習メニューは無限大なので、「日々新しいことを見つけたい」という気持ちです。

ー自分流の指導方法を築き上げているのだと感じます。子どもたちがサッカー楽しむ姿を見るときなど、喜びを感じる瞬間はありますか。

津田 それが一番ですし、あとは信頼関係が大切だと思っています。スクール、ユース、いろんな立場でコーチをしましたけど、どの年代でも信頼関係を得た中で、初めて怒ったり褒めたり、物を申せるようになる。「信頼があるからこそ」話を聞いてくれるんです。これは最初の1年をスクールで指導したからこそ、わかったことです。信頼関係はめちゃめちゃ大事にしています。一番大事かもしれません。

ー今季からは監督という立場での挑戦が始まっています。指導者としての今後の目標を教えてください。

津田 長い目で見れば、指導者としてトップチームの監督としてやっていきたいという思いがあります。ですが、それは後々のことなので、慌てているわけでもないです。今はやはり、今見ている子どもたちをしっかり育てたいです。「20歳になったとき、指導している子たちがどういう人間になっていて、どういう選手になっているか」がすごく大事。その手助けに少しでもなれればと思います。育成のところにいるので、いきなり裏技を教えるのではなくて、しっかりと根本的なところから教えたいです。U-15ではどのチームでサッカーをしても通用する選手を育てないといけないと思っています。

ー貴重なお話をありがとうございました。では、次の指導者の方をご紹介いただけますか。

津田 ファジアーノ岡山でU-15のコーチをしている大西容平さんを紹介します。甲府で一緒にプレーをしていました。

<プロフィール>
津田 琢磨(つだ・たくま)
1980年10月4日生まれ。
埼玉県久喜市出身。
久喜東中―花咲徳栄高―帝京大に所属、DFとしてプレー。帝京大卒業後はヴァンフォーレ甲府に加入(Jリーグのワーディングルールより)し、2003年から2017年まで所属(2008年1月から同7月までは愛媛FCに完全移籍。その後甲府に復帰)。J1通算74試合2得点、J2通算118試合6得点。2018年から関東リーグ1部の栃木シティに完全移籍し、同年限りで現役引退。2019年はヴァンフォーレ甲府のスクールコーチ、2020年は同U-18のコーチを務めた。2021年より、同U-15監督に就任した。

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